花宮の部屋にはよく行くけれど花宮の家族―といっても母親だけだけど―に会ったことはない。以前それとなく聞いてみたら「いつ帰ってきてるか知らねえ」と言われた。

「帰って来てんじゃねえの、多分。冷蔵庫の中身とか動いてるし。母親とはもう随分会ってねーけど」

 そう話す彼の横顔は、およそ血のつながった家族のことを話している表情ではなかった。母親の話はそれ以降聞いていない。

 花宮の家は世間一般がイメージする母子家庭の家とは程遠い。駅の近くの広くきれいな高級マンション。セキュリティがしっかりしているどころか、入り口に受付がいるほどだ。
 花宮の母親はキャリアウーマンらしく、毎日朝早くから夜遅くまで働き、会社に泊まったり休日出勤もザラのようだ。その代わり、この家族がお金に不自由している様子はなかった。
 いつも不在の母親に代わり、ハウスキーパーが家事全般をこなしているらしい。毎日掃除をして、花宮の分の食事を作る。彼が食べ終えればそれを片付ける。(花宮が幼い頃は彼の分の洗濯もしていたそうだけど、今は花宮が自分でやっている。自分の洗濯物を他人に触られたくないようだ。)
 優秀なハウスキーパーのおかげで、花宮の家はきれいに保たれていた。人がここで生活しているとは思えないほどに。


「お邪魔します」

 今日も花宮の家に来た。玄関には大きめのブリザーブドフラワーが飾られている。

「お茶淹れていい?」
「コーヒー」
「はいはい」

 花宮は基本的に台所に寄りつかない。お茶を淹れるのはいつも私の役目だ。
 戸棚からカップを二つ取る。奧にシンプルな花柄のカップが見える。おそらく花宮の母親のものだろう。たまにそれが動いているので、彼の母親が確かに存在するのだとわかる。

「はい」
「ん」

 台所から花宮の部屋にお茶とコーヒーを持っていく。花宮はそれを受け取ると読みかけの本を開いた。彼にしては珍しく小説を読んでいるようだ。

「あ」

 花宮は何かを思い出したように顔を上げる。顔をこちらに向けると、顎で本棚を指した。

「前に読み終わったら貸せって言ってたやつ、本棚にあるから」
「あ、ありがと」
「棚の奧な」

 前に花宮が読んでいた心理学書、彼にしては珍しく入門書に近い本を読んでいたので貸してほしいと頼んだのだ。
 本棚の前に立ってお目当ての本を探す。花宮の本棚は大きく、開閉式になっている。奧と言うことは扉を開けるのだろう。

「?」

 扉を開け得真っ先に目に入ったのは、随分と古ぼけた本。花宮が自分で買うとは思えないような本だ。星の王子様、花宮が嫌いそうな物語だけど。

「ああ、それ」

 星の王子様を手に取ると、花宮は立ち上がって私の隣に立つ。

「こんなの持ってたの?」
「親父にもらった」

 「親父」という単語に口を丸く開けてしまう。花宮の口から父親の話を聞くのは初めてだった。ぽかんとしていると、花宮は私の手から本を奪う。ぱらぱらとその本を眺める花宮の表情はずいぶんと柔らかかった。

「ガキの頃にな」

 今なら父親のことを聞いてもいいだろう。そんな雰囲気がする。

「お父さんって、どうしてるの?」
「知らね。死んではいねーんじゃねーの」

 花宮は絵本を戻すと、また違う本を手に取る。今度はドストエフスキーの罪と罰。ずいぶんと毛色の違う本だ。

「10年ぐらい前、親が別れてから会ってねえから」

 罪と罰も同じようにぱらぱらとめくっている。この表情からして、これもお父さんにもらったものなのだろう。
 花宮の両親が離婚だとは初めて知った。家に仏壇の類がないからそうだろうとは思っていたけれど、実際に聞くと少し違った感情が胸をよぎる。

「それもお父さんにもらったの?」
「この辺のは全部そう」

 花宮が示した場所には小説や美術書、様々なジャンルのCDが置いてある。どれも10歳未満の子供が見聞きするには難しいものだ。

「いろんなモンくれたよ。お前の興味ありそうなものはどれだって」

 そう話す花宮の横顔は、母親のことを話すときとはまるで違う。単純に母親と違ってお父さんとは会っている時間が少ない分、嫌な思い出が少ないだけだろうか。それとも。

「結局興味出たのはどれだった?」
「カラマーゾフの兄弟。腐るほど読んだ」

 一番端にカラマーゾフの兄弟は置かれている。なるほど、確かにこの本だけ古めかしいというより読み込んだ後がある。

「星の王子様は?」
「何がいいんだ、それ」

 花宮は苦い顔をする。普段と違ってどこか優しい雰囲気なので、私も思わず笑った。

「何か貸すか」
「え、いいの?」
「別に。入門書やメジャーな小説ばっかだけどな」

 そう言うと花宮はカラマーゾフの兄弟を持ってベッドに寝転がる。先ほどまで読んでいた小説はテーブルの上に無造作に置かれていた。

「CDでもいいの?」
「別にどれでも」

 せっかくなのでどれか貸してもらおう。本棚の中を物色する。花宮の言うとおり、ここにあるものは入門や誰もが知っているような小説やクラシックの名盤ばかり。花宮のお父さんが、息子である花宮真に様々な興味の入り口をプレゼントしてくれたのだろう。

「…やっぱいいや」

 そう言って最初に花宮が貸してくれると言っていた本を手に取る。

「なんだよ」
「今はとりあえずこれ借りるから」

 あの棚の中にあるものは、花宮のお父さんの息子に対する愛情が詰まっているような気がした。その空間に、私が割って入るわけにはいかない。

「別に何冊でも借りれば」
「あ、じゃあCD聞かない?」

 本棚のCDはあまり聞かれていない印象だ。実際花宮が音楽を聴いているのを見たことがない。

「あんまり聞いてないでしょ、CD」
「全部一回は聞いた」

 ということは、彼としては音楽は興味の対象にはならなかったということか。

「今聴いたら印象変わるかもよ」

 そう言ってCDを物色する。クラシックのほかにもジャズ、タンゴ、ボサノヴァなんてものまである。その中からスメタナのCDを選んで花宮に渡した。花宮はCDをパソコンにセットする。スピーカーからモルダウの有名なメロディが聞こえてきた。







「あれ…」

 花宮の家から帰って、鞄を開けると本が一冊入っていた。星の王子様だ。おそらく花宮が入れたものだろう。借りていってほしいならそう言えばいいのに。
 ベッドに寝転がって本を開く。私が前に読んだものとは違う訳版だ。
 花宮から父親の愛情をお裾分けされた気分だ。












 が帰った後、花宮は一人になった部屋で、ぼんやり本棚を眺めた。父親からもらったものを詰め込んだスペースを開いたのはどれぐらいぶりだろうか。
 幼いころの花宮にとって、父親は神様にも似た存在だった。小説も学術本も、美術書もCDも、人より理解の早い花宮を飽きさせないようとにかくいろいろなものを与えてくれた。花宮には父親のくれる世界が遊園地よりずっと楽しいワンダーランドだった。

 懐かしい父の話をしたからだろうか。今まで気にしていなかった今の父親が気になり始める。
 に「死んではいねえんじゃねえの」と言ったのは、少なくとも戸籍上は父親であった存在が亡くなったとあれば息子である自分に何かしら連絡がくるからだろうと思ったからであって、根拠はなかった。
 父親の連絡先など知らない。だが、調べようと思えばいくらでも方法はある。
 一番簡単なのは母親に聞くことだが、花宮は真っ先にその選択肢を消去した。母親と会話したくないというより、単純に面倒だった。いつ帰っているかわからない彼女の帰りを待つことも、わざわざ彼女に連絡することも。母親に育てられたという記憶はほとんどないが、恨みはなかった。こうやって好き勝手させてくれてありがたいぐらいだ。その代わり、肉親の情もない。この家のどこかに住んでいて、自分の生活費を出してくれる存在。それだけだ。そんな母親に、父親のことを聞きたいと思えなかった。

 幸い、人脈もそれをフルに使えるだけの知識もある。父が世間から隠れなければならないことをしていない限り、すぐに所在はわかるだろうと思った。
 所在がわかったところで、会いたいわけではない。ただ、この世界をくれた存在が、今何をしているか。ただそれだけを知りたかった。


 花宮の予想通り、父親の所在はすぐにわかった。
 花宮の父親は、三年前に死亡していた。

 花宮の胸を、空虚な感情が襲う。花宮は再び本棚を開けた。そこにはいつだって父親のくれた世界が広がっていた。
 事実を知ったときこそ、「ああそうか」と思っただけだった。十年会っていない父親が死んでいようがどうでもいい。ただその事実を知っただけでいいと。
 少し時間が経つにつれ、心にぽっかり穴が開いたような、形容しがたい痛みが彼の胸を襲う。自分の父親が死亡したこと、それよりもこの世界をくれた人物が、もうどこにもいない。自分を愛してくれた人物は、もうどこにもいないのだと。

 家のインターホンが鳴る。そう言えば、今日はを家に招いていたのだと思い出した。いつものように彼女を招いて、コーヒーを淹れさせる。その間、もう一度本棚を見る。目についた一枚のCDを手に取った。アストル・ピアソラのCDだ。その中の一曲、アディオス・ノニーノ。自然とCDをパソコンにセットして、その曲を流した。

「珍しいね」

 が部屋に入ってくる。花宮はあまり音楽を聴かないので、は物珍しそうな顔をしている。

「これタンゴ?」

 答えるのも億劫で、花宮は読みかけの小説を開いた。文章は一切頭に入ってこない。

「…どうしたの?」

 が花宮の肩に触れる。花宮は反射的に彼女の腕を掴んだ。

「な、に」

 花宮はじっと彼女の手を見つめる。
 彼女の手が、一瞬父親の手に思えた。幼いころに触れた父親の手。普段ならありえないことだろう。そもそも男女の差、まったく違う手なのだから。
 間違えた理由は、たった一つ。


「…別に」

 そう言いつつも、花宮は私の手を離さない。
 こんな花宮を見るのは初めてだった。捨てられた子犬のような不安な目。花宮は何かを話す様子はない。私は何も聴かず、彼の隣にいることにした。
 沈黙の中に、ピアノの旋律だけが響きわたる。


















アディオス・ノニーノ
14.02.24









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