アクアマリン/12
今日はダイゴさんと約束の日、流星群が降る予報の日だ。金曜日で平日だけれど、午後半休を取って一度会社から家に戻った。服を着替えて、メイクも直して、ダイゴさんに会う準備を整える。
『今日のホウエンは全体的に快晴で、トクサネや周辺では流星群もよく見えるでしょう』
夕方のニュース番組が、今日の天気予報を伝える。トクサネシティは元々天気の安定した場所なので心配は薄かったけれど、晴れの予報を聞いて私はほっと息を吐いた。雨で流星群が見られません、なんとことになったら悲しいから。
約束の時間の午後五時が迫ってくる。待ち合わせ場所は私のマンション前、もう下に降りてしまっていいかな。ダイゴさんのことだから、早めに来ているような気がする。
トントントン、と軽い足取りで階段を下っていく。私の予想通り、マンションの入口前にはすでにダイゴさんの姿が見えた。
「ダイゴさん、お待たせしました」
「大丈夫、今来たところだよ」
ダイゴさんは私に笑顔を向けてくれる。いつものあの優しい笑顔だ。
きっとダイゴさんのことだから、本当は早めに来てくれたのだろう。しかし、それを言っても「そんなことないよ」と言われるだけ。だから私もそれ以上は聞かないでおいた。
「そのスカート、可愛いね。星空みたいだ」
ダイゴさんの視線の先は私のロングスカートだ。ミッドナイトブルーの生地に、小さな星のような光が散らばったこのスカートは、今日のために買ったもの。
「きみに負けないぐらい、可愛いよ」
ありがとうございます、言い掛けた言葉はダイゴさんの微笑みによって私の喉で止まってしまった。
「だ、ダイゴさん」
「ふふ、照れてる?」
「そ、それは、」
「可愛いよ、すごくね」
甘い笑みを見せるダイゴさんの視線の先は、スカートではなく私自身に向けられている。きっと私の頬は真っ赤になっているのだろう。照れくさい気持ちを抑えながら、私はやっとの思いで「ありがとうございます」と伝えた。
「どういたしまして。暗くなる前に出発しようか。トクサネは来たことある?」
「あ……ないんです。船で行くんですよね?」
トクサネはホウエンの本島から離れた場所にある。本島から行くには船が一番メジャーなルートだ。今日はトクサネで流星群が見られるということで臨時便も出ていたはず。
「いや、空だよ」
空。思ってもみなかった答えに、私はぽかんと口を開けてしまった。
「え、空って」
「空を飛ぶは使ったことある?」
「な、ないです」
私はヒワマキのジムバッジは持っていないし、そもそも私の手持ちポケモンはノーマルタイプのエネコだけ。空を飛ぶなんて、私には夢のまた夢だった。
ダイゴさんはトウカの森の入口近くまで来ると、ボールから一匹のポケモンを出した。無機質な鋼の体と翼の、おそらく鋼タイプの鳥ポケモンだ。
「エアームドだよ。この子に乗ってトクサネに向かおう」
「え……でも、二人で乗って大丈夫ですか?」
エアームドはダイゴさんより少し小さいぐらいの大きさだ。いくら鋼ポケモンと言っても、成人を二人乗せて飛べるのだろうか。
「大丈夫、ボクのエアームドは強いからね。ほら」
「じゃあ……失礼します」
ダイゴさんに促され、私はおそるおそるエアームドにまたがった。ひんやりとした鋼の肌は、メタグロスとはまた違う、つるりとした滑らかな肌触りだ。
「エアームド、よろしくね」
声をかけると、エアームドは金属音に近い鳴き声をあげて頷いてくれた。
この子に乗って、これから空を飛ぶのか。緊張感を抑えるために深呼吸を始める。一回、二回、三回目の息を吸おうとしたとき、ダイゴさんが「失礼するね」と言って私の後ろに乗ってきた。
「……!」
ち、近い。想像以上にダイゴさんとの距離が近い……! ダイゴさんは私の後ろに、というより、完全に密着する形でエアームドに乗っている。ダイゴさんの胸と私の背中はぴったりとくっついていて、振り向けばすぐそこにダイゴさんの顔がある。エアームドの冷たい鋼の肌に触れているはずなのに、私の体温はどんどんと上昇していく。
「緊張してる?」
「そ、それはまあ……」
「大丈夫。エアームドは乗っている人間を落としたりしないよ」
緊張している原因はそっちじゃないです。とは言えず、私はダイゴさんの言葉に頷いた。
「ねえ、手をつないでもいいかな」
「えっ!?」
ダイゴさんの突然の言葉に、早かった心臓の鼓動がさらに速度を増す。え、手!? 今!?
「ボクは絶対にきみの手を離さないから、空を飛んでも怖くないよ」
ダイゴさんは「ね?」と小首を傾げて私に右手を差し出した。ダイゴさんの大きな手。その手には魔力でもあるのだろうか。私はいつの間にかダイゴさんの手に自分の手を重ねていた。
「大丈夫、安心して。ボクに任せて」
ダイゴさんは私の右手を強く握ると、その手を私のお腹の辺りに回す。先ほどより触れている部分が多くなり、私の心臓は今までで一番大きな鼓動を打っている。
その一方で、つないだ手に強い安心感を覚える自分もいる。温かで大きな手は、私の心まで包み込むよう。魔法にかけられたかのように、心がほどけていく。
「行くよ。エアームド、頼むね」
ダイゴさんの声掛けで、エアームドは硬い鋼の翼を羽ばたかせる。私の足が、地面からふわりと浮いた。
「わあ……っ」
エアームドの体は完全に宙に浮いて、ダイゴさんと私を乗せて空へと高く舞い上がっていく。「二人乗せて飛べるのだろうか」という私の最初の心配などまったくの杞憂だったようだ。エアームドは軽々と飛行を続け、トウカの森を越えて海の上へと出た。
「すごい……!」
海に出た瞬間、目に入ったのは水平線に沈む鮮やかな夕陽だ。青い海とオレンジ色の夕陽が混じり合って幻想的な光景を作り出している。
「この間の博物館の写真と似ているね」
「はい。あの写真もすごく綺麗だったけど、自分の目で見るのってすごい……」
夕陽も海も、今までたくさん見てきたはずだった。ポケモンに乗って、自分の目で見る光景が、こんなにも心打たれるものだったなんて。
鮮やかな景色、空を浮く感覚に、風を切る疾走感。すべてが私の胸を震わせる。
「あ、キャモメの群れですね!」
エアームドの真横を、キャモメとペリッパーの群れが飛ぶ。エアームドはなにか話しているのだろう、キャモメたちに向かって穏やかな声で鳴いている。
「エアームド、高度を下げて」
ダイゴさんの指示に従い、エアームドは海面に近づいていく。今まで遠目でしか見えなかったメノクラゲにドククラゲ、タッツーなどの海に棲むポケモンが、楽しそうに跳ねている様子がよく見える。
「可愛い……。エアームド、ダイゴさん。ありがとうございます」
「ボクも見たかったから。今日はポケモンたちも元気だね」
空と海、そしてたくさんのポケモンたち。ホウエンの豊かな自然が私の目の前に広がっている。もうずっと、胸がドキドキして仕方ない。
キナギタウンを越え、ルネシティが視界に入る。白い岩に囲まれた神秘の町を過ぎれば、トクサネシティが見えてきた。エアームドも高度を下げ着陸の準備を始めている。
「わ、ホエルコがいっぱい……」
トクサネシティの海辺には、数匹のホエルコが泳いでいる。トクサネはホエルコの生息数が多い土地で、ホエルコウォッチングは観光の目玉の一つだ。意図せず間近でホエルコウォッチングをできることになり、嬉しいな、なんて思っていると、一匹のホエルコが大きく体を浮き上がらせる。
「わっ!?」
するとホエルコは、思い切り頭から潮を吹く。海水が宙に舞い、こちらへ大量の水が襲ってくる。
「エアームド!」
ダイゴさんの声にあわせて、エアームドはスピードを上げて砂浜へ飛んでいく。おかげで私たちは海水の直撃は免れた。
「ごめん、ちょっと濡れちゃったね」
エアームドは砂浜近くのトクサネシティの住宅街に着陸し、私たちはエアームドから降りた。ダイゴさんの言葉通り少しばかり濡れてしまったけれど、エアームドが避けてくれなかったら今頃びしょ濡れだっただろう。
「あのままだったら直撃でしたから。エアームド、ありがとう」
「タオルが必要かな。入って」
ダイゴさんはエアームドをボールに戻すと、目の前の民家のドアを開けた。
「えっ、もしかしてここ……」
「うん。ここがボクの家だよ」
ダイゴさんは笑顔で答えると、ドアを開けたまま私に中に入るよう促した。
いきなり部屋に入るなんて、いいのだろうか。一瞬迷ったけれど、ここで立ち止まっているわけにもいかない。私は「お邪魔します……」と言いながら、おそるおそるダイゴさんの家の中へ入った。ダイゴさんがトクサネに住んでいることは知っていたけれど、まさか今日の今日家にお邪魔することになるなんて。エアームドに乗る前とはまた別種の緊張が走る。
「タオル持ってくるよ。ちょっと待ってて」
「は、はい」
ダイゴさんはそう言って奥の部屋へ入っていく。
ダイゴさんの家は一人暮らしとしては大きいけれど、想像よりも質素な作りだ。玄関から入ってすぐのこの部屋はリビングで、奥の部屋は寝室だろうか。人の部屋をじろじろと見るのはいけないと思いつつ、そわそわしてしまって気持ちが落ち着かない。
「お待たせ」
「あ、いえ、そんな」
タオルを持ってきたダイゴさんに「大丈夫」と言おうとしたのに、その声は思い切り裏返ってしまった。慌てて口を押さえると、ダイゴさんは優しい笑顔を浮かべて私に近づいてくる。
「そんなに緊張しないで。きみを傷つけるようなことはなにもしないよ」
ダイゴさんはくすりと笑うと、私の頭に白いタオルをかけた。そのまま海水で濡れてしまった耳から首を柔らかく拭ってくれる。
「ダイゴさん」
割れ物を扱うかのような優しい仕草。温かさを感じる甘い動き。緊張で激しく鼓動を打っていた私の心臓は、今は違う高鳴りを感じている。
今なら聞いてもいいだろうか。ずっと思っていた、あの気持ちを。
「ダイゴさんは、どうしてそんなに私に優しくしてくれるんですか?」
ずっとずっと思っていたことだった。でも、ずっと聞けなかった。今なら聞いてもいい気がした。今しかないと、思った。
じっとダイゴさんを見上げる。私を見つめるダイゴさんの優しい瞳に、胸が高鳴る。この気持ちは、きっと私の一方通行じゃない。
「それはね」
ダイゴさんの唇が動く。私の心臓が、一際大きな鼓動を打った。
「その答えは、もう少しあとでね」
しかし、期待とは裏腹にダイゴさんは悪戯っぽい笑みを見せる。
「へっ!?」
私の口からは間抜けな声がこぼれてしまう。しかしそれも無理はないだろう。だって、ここで、あとでって。
「あ、あとでって!?」
「うーん、三時間後ぐらいかな」
ダイゴさんは部屋の壁にかけられた時計を見て、小首を傾げた。
三時間後は、午後九時。ちょうど、流星群が降る時間だ。
「……っ」
流星群を二人で見るときに、答えをくれる。それがなにを意味するか、私はもうわかっている。
「……ダイゴさん、ずるいです」
「ふふ、そうかな」
ここでそんな答えを返すなんて、ダイゴさんはずるい。ずるいけれど、私は、そんなところがとても。
「さて。流星群の前に腹ごしらえをしようか。濡れて冷えたしシチューがいいかな」
「あ……手伝います」
キッチンへ向かうダイゴさんのあとを慌てて追いかける。ダイゴさんの家のキッチンは私の部屋のものと違って大きいから、二人並んでも問題なさそうだ。
「大丈夫……いや、一緒に作ろうか」
ダイゴさんは言い掛けた言葉を飲み込んで、私の提案に頷いてくれた。
それから私たちは二人並んで料理をして、同じテーブルで食事をとった。シチューを食べている最中は、いろんな話をした。お互いの子供のころの話、ダイゴさんとメタグロスが出会ったときの話、私とエネコが出会ったときの話。穏やかな時間はあっという間に過ぎ、流星群の時間が迫ってきた。
「ここが特等席だよ」
再びエアームドに乗ってやってきたのは浅瀬の洞穴だ。洞窟の中には入らずに、洞穴の上でエアームドは私たちを下ろした。
「特等席って宇宙センターのことかと思ってました」
「あそこじゃ二人きりになれないからね。座って」
二人きり。その言葉にときめきを感じながら、私はダイゴさんが敷いてくれたシートの上に座る。
「海、暗いですね」
トクサネから離れたここは町の灯りも届かず、海は三日月の光で照らされるのみだ。いつもと違う色の海に、少しだけ背筋を凍らせた。
「怖い?」
けれど、その恐怖はダイゴさんを見つめればすぐに消え去る。
「怖くないですよ。ダイゴさんが一緒だから」
出会ったときからずっとダイゴさんは私を守ってくれた。ダイゴさんといれば、怖いことなんてなにもない。きっと、これから先も、ずっと。
「ただじっとしてると冷えますね」
日が完全に沈んだせいか、風が夕方より冷たい。二の腕をさすると、ダイゴさんが私の肩を抱き寄せた。
「少しは暖かくなるかな」
「はい」
私も自然とダイゴさんに体を預けた。
ダイゴさんは優しい人。温かい人。
私の、大好きな人。
「あ……」
体を寄せ合って夜空を見上げていると、星が一つ流れた。また一つ、二つ、暗い夜空にいくつもの星が降り始める。
「予報の時間通りだね」
「はい。すごい……」
いくつもの流れ星が夜空を駆ける。幻想的な光景に、私の視線は釘付けになってしまう。
「この中のどれかが隕石になったりするのかな」
「ふふ、欲しいんですか?」
「そりゃあね」
こんなときまでダイゴさんはダイゴさんだ。「見つかるといいですね」と言えば、ダイゴさんは嬉しそうに頷いた。
「綺麗……」
また星が流れる。ホウエンの空が、綺麗な星の光で彩られていく。
「うん、綺麗だね」
夜空からダイゴさんへ視線を移せば、ダイゴさんと目が合った。甘い瞳に見つめられて、私は目を逸らせない。もとより、逸らすつもりもない。
どれぐらい見つめ合っていただろう。ダイゴさんの唇が、小さく動いた。
「きみが好きだよ」
紡がれた言葉に、心が震える。甘いときめきが胸を走る。温かな思いが、溢れ出る。
「私も、ダイゴさんが好きです」
私もダイゴさんと同じ気持ち。ダイゴさんが好き。優しくて、温かなダイゴさんに、甘い恋をしている。
ダイゴさんが、私の耳に髪をかける。甘い仕草に、私は目を閉じた。
私たちは、流星群の下でキスをした。
星の降る、甘い夜のことだった。