星巡り/プロローグ

 流星の滝、外郭部頂上付近。私は恋人であるダイゴさんと、ここで肩を寄せ合いながら、星が降るのを待っている。
『今夜のカナズミシティやハジツゲタウン付近は雲もなく、流星群がよく見えるでしょう』
 ポケナビから聞こえる女性アナウンサーの声に、ダイゴさんは顔を綻ばせた。
「山の天気は変わりやすいけど、今夜は大丈夫そうだ」
「よかった」
 キャンプセットで沸かしたコーヒーを飲みながら、私は夜空を見上げた。天気予報の通り、空に雲は一つもない。
「それにしても、ここは穴場ですね。私たち以外誰もいない……」
 今回の流星群はカナズミシティとハジツゲタウン方面で見られるということもあり、夕方の流星の滝の麓は多くの人で賑わっていた。しかし、頂上付近には私たち以外の人間はおらず、かすかにポケモンの気配がするだけだ。木々の隙間から吹く風の音も聞こえるほどの静かな空間は、町の賑やかな空気とは別世界のよう。
「人がいないほうがいいよ」
 ダイゴさんがそっと私の肩を抱き寄せるから、私は彼に身を預けた。伝わる体温が、心地いい。
「温かい……」
 山頂の冷たい風で冷えた体が、じんわりと温まっていく。肩に回ったダイゴさんの手が、私の髪を撫で始める。柔らかな感触に、私は目を細めた。
「そろそろかな」
 流星群の予報時刻は午後十時。ナビから流れる時報が、カウントダウンを始めている。
「あ……」
 見上げた夜空に、一筋の光が走る。
「流星群だ」
 一つ、二つ。広い空に、星が流れる。だんだんと流れ星の数が増えて、夜空は流星群に包まれる。澄んだ空気の中、きらめく星が美しい。
「綺麗……」
「流星の滝から見る星空はいいよね。ボクも好きな場所なんだ」
「本当に……」
 広い空を流れる星に目を奪われていると、ふと、ダイゴさんの視線が星空ではなく私に向いていることに気づいた。
「だ、ダイゴさん。流星群、見ないんですか?」
「見たいけど……星空ときみを一度には見られないからね」
 ダイゴさんはくすりと笑うと、私にキスを一つ落とす。「もう一回」と囁かれ、私は再び目を閉じる。
「綺麗だね」
 ダイゴさんはじっと私を見つめたあと、星空へ視線を向けた。月の明かりに照らされた、彼の頬から顎のラインが美しい。
 私ってば、ダイゴさんにああ言っておきながら、今度は私が星空ではなくダイゴさんの横顔に目を奪われてしまっている。
 ダイゴさんに気づかれないように、そっと星空を見ながらダイゴさんの横顔をのぞき見る。長い睫毛とすらっとした頬のライン、薄い唇。一つ一つがあまりに綺麗で、流れる星とあわさって神秘的な雰囲気を醸し出している。
 ふと、ダイゴさんの瞳がこちらに向けられた。しっかりと目が合ってしまい、私の頬に熱が集まる。
「流星群は?」
 からかうようなダイゴさんの声に、私は唇を尖らせた。ダイゴさんだって私を見ていたのだから、私が彼を見つめていた理由なんて聞かずともわかるはず。
「わかってるくせに……」
「ふふ」
「も、もう。ちゃんと見ましょう」
「そうだね。そろそろ本格的になるかな……」
 ダイゴさんの言葉の通り、空から降る流れ星の数が一気に増える。星の洪水のような光景に、私は心を震わせた。
「すごい……」
「ここまでの流星群は滅多に見られないね……晴れて本当によかった」
「はい……」
 こんなにたくさんの流星群、一生のうちに一度見られるかどうかだろう。このホウエンの地でダイゴさんとともに見られるなんて、とても幸運なことだ。
「あれ……」
 星空に見惚れていると、ふと不思議な音が耳に入る。川のせせらぎでもない、ポケモンの鳴き声でもない、まるでジェット機が通るときのような……風を切る音が……。
「あっ!?」
 音とともに、星空に二匹のポケモンが現れた。それぞれ赤と青の体のあのポケモンは……。
「ラティオスとラティアスだね……まさかこんなところに現れるなんて」
「や、やっぱりラティオスとラティアスですよね? すごい……初めて見た……」
 絵本の中でしか見たことがない、ホウエンに伝わる伝説のポケモン、ラティオスとラティアス。まさかこの目で見られるなんて。
 ラティオスとラティアスはくるくると何回か宙を旋回したり、かと思うと止まってじっと空を見上げたり。表情までは見えないけれど、楽しそうな雰囲気がこちらにまで伝わってくる。
 二匹はしばらく流星の滝上空を旋回したのち、北の方角へと飛んで行った。
「あの子たちも流星群を見に来たのかな」
「そうなんでしょうか……というか、私まだドキドキしてて……本当にラティオスとラティアス?」
 私がラティオスとラティアスを見る日が来るなんて、夢にも思っていなかった。二匹が飛び去った今も、胸が高鳴って仕方ない。
「ふふ、わかるよ。伝説のポケモンなんて滅多に見られないからね」
「滅多にどころか、一生に一度だって見られませんよ!」
 ホウエンに伝わるポケモンの伝説はいくつかあるけれど、普通の人は関わるどころか見ることすら叶わない。私だって今も現実のこととは思えないぐらいだ。
「ふふ、そうだね」
 興奮が抑えきれない私と違い、ダイゴさんはいつもの様子で微笑むだけだ。この涼しい表情は、もしかして。
「ダイゴさんは前にもラティオスとラティアスに会ったことがあるんですか?」
 私の問いかけに、ダイゴさんは少し困ったように眉を下げた。少し間を置いて、彼は小さく頷く。
「やっぱり……」
「これでも仕事で各地を回ってるからね。偶然会う機会があっただけだよ」
 ダイゴさんは苦笑しつつ自身の頬を掻いた。謙遜しているけれど、彼が伝説のポケモンに会ったのは紛れもない事実だ。
「ダイゴさんはいろんな場所に行ってますもんね」
 趣味もあるのだろうけれど、デボンやリーグの仕事でダイゴさんは様々な地方を回っている。多くの場所に行けば、それだけ多くのポケモンに出会えるし、珍しいポケモン……伝説のポケモンに会う機会も得られるのだろう。
 私は流星の滝から見える景色を眺める。カナズミシティ、その先に広がる広い海。夜のため海の先は真っ暗でなにも見えないけれど、その海の先には、広い世界があるのだろう。
「私の知らない景色が、この世界にはたくさんあるんですよね……」
 今星が流れているこの空の下、広がる海の先。行ったことのない世界が、そこにはある。
「そうだね、ボクの知らない世界が広がっている」
「ダイゴさんはいろんなところに行ってるじゃないですか」
「確かに人より行ってるかもしれないけど、まだまだだよ。世界は広いからね」
 ダイゴさんは再び空を見上げる。その水色の瞳が見つめているのは、流れる星ではなく、もっと違う……空よりさらに遠くのような気がした。
「あれ……」
 ダイゴさんの視線の先を私も見つめていると、空から一つの光が落ちてくることに気づいた。ゆっくり、ゆっくりとこちらへ降るのは青い小さな光。私は手のひらでそれを受け止めた。
「これは……なんでしょう」
 光の正体は青い半透明の丸い結晶だった。直径五ミリもないほどの小さな石。流れ星……のわけがない。鳥ポケモンの落とし物だろうか。
「もしかして……心のしずくかな」
「心のしずく?」
 聞き覚えのない単語に首を傾げると、ダイゴさんはじいっと私の手のひらの結晶を見つめうなずいた。
「ラティオスとラティアスが持っているものだって聞いたことがあるんだ。ボクも現物を見たことがあるわけじゃないから確証はないけど、さっき二匹が飛んでいたからもしかして……って思ってね」
「そ、それだったら私が持ってたらまずいんじゃ……」
「ふふ、心のしずくって決まったわけじゃないよ。ただのボクの勘だから。それにもし本当に心のしずくなら置いていくわけにもいかないし、きみが持っていていいんじゃない?」
「そうですか……?」
 ここに放置するわけにもいかないし、なにより綺麗な石だ。澄んだ青い色が、どことなく安心感をもたらしてくれる。私はこの青い石……心のしずくかもしれない結晶を鞄のポケットへとしまった。
「さて、そろそろ滝の内部に入ろうか。眠る準備をしないとね」
 ダイゴさんは立ち上がると、流星の滝内部へと繋がる道を指した。
 以前から話していたことだ。流星群を見たあとの深夜に下山をするのは危ないから、滝の内部でキャンプを張って一晩を明かそうと。
「外より内部の方がキャンプを張るにしても安全だよ。急に天気が崩れるかもしれないし」
「はい」
「野宿、本当に大丈夫?」
「大丈夫ですってば」
 何度もダイゴさんには「野宿になるけど平気?」と聞かれてきた。不安がないわけではないけれど、子供の頃には何度かキャンプもしたし、なにより隣にダイゴさんがいつのだから、怖いことはなにもない。
「それに今更嫌って言ってもどうしようもないでしょう?」
「それもそうか。あ、足下気をつけて」
 ダイゴさんはそう言って私の手を取った。そのまま私の手を優しく引いて、流星の滝の内部へと連れて行ってくれる。
「ラティアスとラティオス、どこに行ったんでしょうね。すみかに帰ったのかな」
 歩きながら、私はぽつりと小さく呟いた。ホウエンにいるというラティオスとラティアスだけれど、詳しい生息地はわかっていない。もしかしたらこの流星の滝の近くに棲んでいるのだろうか。
「どうだろう……もしかしたら旅に出たのかも」
「旅……」
「知らない場所に……見たことのない景色を見に行くのかもしれない」
 ダイゴさんは「なんてね」と、軽く笑って見せた。
 私はその表情を見つめたあと、もう一度空を見上げた。「いいなあ」と、言葉がこぼれる。
 流れる星とともに広がる空は、どこまでも大きかった。



 流星群を一緒に見た日から一週間後、私はトクサネにあるダイゴさんの家に来ていた。夕飯を終えた今はダイゴさんはキッチンで夕飯の片づけ、私はリビングでダイゴさんのメタグロスの手入れをしている。
「もう少しだからね……」
 最近は戦闘の機会が多かったというメタグロス。お疲れさまの意味も込めて、柔らかいタオルで体全体を拭いている。体の大きなメタグロスは、乾拭きを一回するだけでも一苦労だ。私は床に膝を突いてメタグロスの手足を拭き、最後にデリケートな顔付近を丁寧に拭いていく。
「はい、終わり。お疲れさま」
 タオルを置いてメタグロスを撫でると、メタグロスは小さく頷いて会釈をする。お礼を言ってくれているのだろう。私は「どういたしまして」ともう一度メタグロスを撫でた。
「エネ!」
 綺麗になったメタグロスの頭にぴょんと乗ったのは私のエネコだ。甘えん坊のエネコは、いつもダイゴさんやダイゴさんのメタグロスに抱きついて、「構って構って!」としっぽを振るのだ。
「もう、エネコってば。メタグロス、いつもありがとう」
「グ!」
「メタグロスもエネコと遊ぶのを楽しんでるみたいだよ。気にしないで」
 洗い物を終えたダイゴさんが、キッチンからこちらへやってくる。ソファにゆっくりと座って、穏やかな笑顔を浮かべた。
「メタグロスの手入れもしてくれてありがとう」
「いえ、どういたしまして」
「メタグロスは気難しいところがあるけど、きみにはすっかり懐いているみたいだ」
 メタグロスは小さくうなずく様子を見て、私も心を弾ませた。ダイゴさんのポケモンにも心を開いてもらえて、とても嬉しく思う。
「……ね、少しいいかな」
 ダイゴさんに隣に座るよう促され、私はすぐにそこに座った。
 ダイゴさんの表情は、先ほどまでの穏やかな表情とは違う。少し引き締まった、真剣な色を見せている。私も背筋を伸ばして、彼の言葉を待った。
「……」
「ダイゴさん……?」
 ダイゴさんはじっと黙ったまま、言葉を紡がない。座ったまま前屈みになり、両手の指を絡めて何か迷っているような雰囲気だ。
 どうしたのだろう。ダイゴさんがこんなに言い淀むなんて珍しい。そんなに言いにくいことなのだろうか。先ほどまでの明るい空気が一変、私の心は不安に蝕まれていく。
 十秒ほどの沈黙のあと、ダイゴさんがゆっくりと口を開いた。
「旅に出ようと思うんだ」
 あまりに突然の言葉に、私はぽかんと口を開けた。
「旅……」
「そう。少し前から考えていたんだけど」
 ダイゴさんは体を私に向けて、穏やかに、しかし真剣な声色で話し出す。
「ホウエンでいろんな事件があって、自分が小さな世界しか知らないことを思い知った。だから自分の目でもっと世界を見てみたいと思ったんだ」
 ダイゴさんの言うとおり、最近のホウエンでは古代のポケモンが暴れたりと様々な事件が起こった。ダイゴさんがそのことについて考えていることは知っていたけれど、まさか旅に出ようとしていたなんて。
「だから、旅に……」
「うん。一年ぐらい……もしくはそれ以上の時間をかけて、世界を巡ってみたいんだ」
「一年!?」
 一年。一年って、一年間? いや、ダイゴさんの言葉からして短くても一年、というつもりなのだろう。あまりに長い期間に、私は言葉を失った。
「だ、って……リーグは?」
「チャンピオンはミクリに任せるつもりだよ。彼なら実力も人格も問題ないからね。デボンのほうも、世界を回ってデボンに還元することは悪くない話だから大丈夫だと思う」
 ダイゴさんの声ははっきりしていて、意志の固さが伝わってくる。もう旅に出ると心に決めているのだろう。
 じゃあ、私とダイゴさんは一年以上離ればなれに? いや、もしかしてこれは別れ話? 不安に胸の奥が冷えていく。指の感覚が麻痺してきて、思わず膝の上で両手を握った。
「……っ」
 握った私の両手に、ダイゴさんがそっと触れた。私は唇を震わせながら、彼の表情をうかがう。
 次の言葉が、怖い。聞きたくない。耳を塞いでしまいたい。
 ダイゴさんの唇が小さく動くのが見えて、私は肩を震わせた。
「きみも一緒に来てほしいんだ」
 ダイゴさんが発した想像とは真逆の言葉に、私はぽかんと口を開けた。
「え……っ」
「きみにも悪い話じゃないと思うんだ。この間、流星群を見たときにそんなことを言ってただろう?」
「た、確かに言いましたけど……」
 あのとき、世界は広く、私の知らない場所がたくさんあるのだと感じた。それを見たいと思った。それは確かだ。
「うん。ボクはきみと一緒に行きたい。きみはどうかな」
 ダイゴさんはまっすぐな瞳で私を見つめてくる。その目が期待に満ちていることはすぐにわかった。けれど。
「少し……考えさせてください」
 私は、すぐに頷くことができなかった。



 ダイゴさんに旅に誘われたあの日から、一週間がたった。私は今日、カナズミシティのポケモンハウスに手伝いに来ている。
「はあ……」
 この間保護されたナマケロの手当てをしながら、私は大きなため息を吐いた。
 あの日からずっと、どうすべきか考えている。けれど、答えは出ない。
「ナ~……マ~……」
 腕に包帯を巻いたナマケロが、小さく首を傾げた。私の不安が伝わってしまったのだろうか。
「ごめんね、もう手当ては終わったから」
「マ~?」
「ゆっくりしてね。ここは怖いことはないからね」
 頭を撫でると、ナマケロは安心したように目尻を下げた。そして、ゆっくりと部屋の隅に移動し目を閉じる。眠っているのか休んでいるのか、どちらにせよナマケロはひとまず大丈夫そうだ。私は別の部屋へ移動しようと廊下に出た。
「あれ……っ」
「やあ、。来てると思ったよ」
 入り口の方からやってきたのはダイゴさんだ。その後ろにはルネシティジムリーダーでダイゴさんの友人のミクリさんもいる。ミクリさんとはダイゴさんの紹介で何度か会ったことがある。
「二人とも、どうしたんですか?」
「リーグの方に手伝いの要請があってね」
「水タイプのポケモンがまとまって保護されたそうじゃないか。だから私が呼ばれたんだよ」
「はい、一昨日の時化のせいかラブカスが岸に打ち上げられてて……来てくれて助かります。私も職員の方々も水タイプは詳しくなくて……こっちです」
 保護されたラブカスのいるスペースへ二人を案内しようとすると、ダイゴさんのポケットからポケナビの着信音が鳴った。
「ごめん、デボンからだ。先に行ってて、ボクもすぐに行くよ」
「はい」
 施設の外へ出るダイゴさんを見送って、私はミクリさんと水槽の設置された部屋へと入った。ここに打ち上げられた多くのラブカスが保護されている。
「おやおや、こんなにいるとは」
「はい。怪我が治ったら海に戻す予定らしくて……」
「なるほど。それならあまり人の手は入れない方がいいね」
 ミクリさんが水タイプの手当ての仕方、食事に気をつけることなどを教えてくれたので、手近なメモに書き留めておく。
「君も真面目だね。デボンで正社員をやりながら、頻繁にここに顔を出しているんだろう?」
 ミクリさんは顎に手を当て、キザな笑みを浮かべる。
「そんな……たまにですよ」
「おや、ダイゴが言っていたよ。デボンでも真面目だと評判で、ポケモンハウスのボランティアにもマメに通っている優しい自慢の恋人だと」
「だ、ダイゴさん……」
 明らかに過大評価なのだけれど、嬉々として話すダイゴさんが目に浮かんでしまう。そこまで思ってくれて嬉しいけれど、少し恥ずかしい……。
「しかしまだ電話は終わらないのかな」
「最近忙しいみたいですから」
「そうだね……しばらくデボンにも顔を出せないから、調整しないといけないことが山ほどあるらしいし」
「あ……そうですね」
 デボンに顔を出せないのは、旅に出るから。思考がそこに戻されて、私はうつむいてしまう。
 ダイゴさんはもうすぐ、旅に出る。私は、どうするべきなのだろう。
「君も準備に忙しいんじゃないかい?」
 ミクリさんの言葉に、私はぱっと顔を上げた。
「おや、ダイゴが行くなら君も一緒だと思っていたけれど、違うのかな」
 ああ、そういうことか。私は再びうつむいて、「行くって決めたわけでは……」と小さく答えた。
「行かないのかい?」
「……行きたくないわけじゃないんです。でも……」
 私も自分の目で世界を見てみたいと思う。ダイゴさんと一緒に行けたら、その願いは叶うだろう。
 けれど、そんなに簡単に答えられるものではない。仕事もあって、友人関係もあって……それ以外にも、考えなくてはいけないことがたくさんある。
「まあ君も大人だからね。さまざまなしがらみがあって、簡単に決断できる話ではないことはわかるよ」
「はい……」
「ただ、考えていることはダイゴにすべて伝えておいたほうがいいよ。どちらの決断でも、後悔のないように。私から言えるのはそれだけだね」
 ミクリさんはそう言うと、水槽の中のラブカスに視線を戻した。その直後に部屋のドアが開いて、ダイゴさんが入ってくる。
「ごめん、遅くなったね。電話が続いちゃって」
「大丈夫。この子たちの食事の準備をしたいから、二人とも手伝ってくれるかい」
「はい、もちろん」
 ミクリさんの指示のもと、ポケモンフードとポロックを用意していく。その最中も、「後悔のないように」というミクリさんの言葉が頭の中でリフレインしていた。

 ポケモンの家での手伝いを終える頃には、日はすっかり沈んでいた。ミクリさんとその場で別れたあと、私とダイゴさんは並んでカナズミ北部にある私の家の方向へと歩き出す。手伝いの最中ダイゴさんに「あとで家に行っていいかな。一緒に夕飯でも食べよう」と言われていたのだ。
「ダイゴさん、本当にうちに来ていいんですか? 忙しそうですけど……」
 手伝いの間も、ダイゴさんにはちょくちょくリーグやデボン関係から電話があった様子だ。本当に忙しいのだろう。
「忙しくても一緒にいたいよ」
 ダイゴさんは私の手を取って、寂しげな笑みを浮かべた。
 普段だったら嬉しい言葉が、胸を痛ませる。もし私が一緒に行かなければ、私たちはしばらく離れることになる。ダイゴさんは残りの時間を惜しんでいるのかもしれない。
 胸の奥が、きゅっと軋んだ。
「私も……一緒にいたいです」
 ぎゅっと手を握り返して、ダイゴさんの顔を見つめた。
 私だって、一緒にいたい。だってこんなにも好きなのだから。

 もう遅い時間ということで、夕飯はスーパーでお総菜を買ってきた。二人でテーブルに総菜を並べて、「いただきます」と手を合わせたる。
「パルデアの伝統料理だって。おいしそうだね」
「はい。いろんな地方の料理がありましたね」
 近くのスーパーではフェアとして他地方の総菜が並べられていた。パルデアのほかにもカロス、ガラル、アローラ……さまざまな地方の伝統料理はどれもおいしそうで、ダイゴさんと二人でどれにしようかしばらく迷ってしまったほどだ。
 なんてことない話をしながら食事を続ける。先ほどのポケモンハウスのポケモンの話や、最近のエネコの話。旅の話題は、なんとなく避けていた。
 その蓋を開けたのは、ダイゴさんだった。
「……まだ心は決まらないかな」
 その質問に、私は箸を止めた。なんと答えていいかわからずに、しばらく沈黙が走る。
「ごめんね、さっきのミクリとの話を少し聞いてしまって」
「あ……別に、聞かれて困る話じゃないですし……」
 後悔のないように。ミクリさんに言われたことが、もう一度頭の中でリフレインする。きちんとダイゴさんと話すなら、今だろう。
「あの……少しいいですか?」
「もちろん」
 ダイゴさんが頷いたのを見て、私は背筋を伸ばした。頭の中で整理をしながら、思っていることを少しずつ言葉にしていく。
「行きたいか行きたくないかだけで言えば、もちろん行きたいです。でもその気持ちだけで動けるほど身軽ではなくて……」
「うん」
「いろんなことを、考えてしまって……」
 ダイゴさんは言葉を挟まず、私の話に耳を傾けてくれている。だから私も、賢明に言葉を続けた。
「仕事のこともあるし……なにより旅の費用のこととか」
 ダイゴさんのことだからお金のことは気にしないでと言いそうだけれど、いつもの食事ぐらいならともかく、旅にかかる費用はそれとは比較にならない。完全にダイゴさん任せというのは気が引ける。
「お金のことならボクに任せてくれていいよ」
 ほら、やっぱり思った通り。ダイゴさんならこう言うと思った。
「でもさすがに……」
「だっていずれは同じ財布になるわけだし」
 同じ財布。その意味をすぐに理解して、私は頬が一気に熱くなる。い、いや、今はそこを掘り下げるときではない。
「と、とりあえずそこは置いておいて。……続き、聞いてもらえますか?」
「うん」
 ダイゴさんがまっすぐ私を見つめるから、私もまた真剣に話し出す。
「お金のこともそうだし、もし旅の最中に強いポケモンやトレーナーに会ったとき、私のエネコじゃきっと太刀打ちできない。なにかあったらダイゴさんに頼ることになります。ダイゴさんは気にしないかもしれないけど……ダイゴさんに守られてばっかりで返せることがなにもなくて、それが私はすごく心苦しいんです」
 私は弱くて、なにもできない。ダイゴさんと一緒に旅をするなら、なにもかもをダイゴさんに頼ることになる。それで、本当にいいのだろうか。
「私もいろんな場所を旅してみたい。その気持ちはあります。でも……私と一緒に行くことでの、ダイゴさんのメリットってありますか?」
「それは……」
「い、一緒に行けること以外の話です。それは私も同じなので」
「ふふ、先に言われちゃったね」
 や、やっぱり言う気だったのか……。先に言っておいてよかったと思いつつ、私はダイゴさんの言葉を待つ。
「そうだね……」
 ダイゴさんは顎に手を当て、少しだけ考える仕草を見せた。
「ボクにはない視点を与えてくれるところかな」
 そして、ゆっくりと穏やかな口調で話し出す。
「ボクは広い世界を見てみたい。でも、自分だけだとどうしても見るものが限られる。はボクとは違う人間で、ボクやボクの友人たちとは違う考えを持っている。と一緒に世界を見れば、きっとボク一人では見えないものを見られると思ったんだ」
 ダイゴさんは淀みなく、滑らかに言葉を紡いでいく。まっすぐな視線、まっすぐな言葉に、私はじっと耳を傾けた。
の遠慮がちなところも好きだけど、にはにしかないものを……ボクにはないものを持っているんだよ。守られてばかりなんてことは、絶対にない」
 力強い声でそう言われ、私は思わず頷いてしまった。心がぎゅうっと熱くなるのを感じながら。
「大きな決断になるからね、無理は言えないけど……。ボクはと一緒に行けたら嬉しいと思ってるよ」
 笑顔を向けられて、私は小さく「はい」と答えた。
 守られてばかりではないよという言葉が、ずっと心に残っている。

 一緒に夕飯の片づけを終えたあと、先に私がお風呂に入った。湯船に浸かる間も、ずっと旅のことを考えている。
「あれ……」
 お風呂から上がってリビングに入ると、ダイゴさんの姿が見えないことに気づいた。首を傾げていると、ベランダの窓が開いた。そこからひょいとダイゴさんが顔を出す。
「こっちだよ」
「ダイゴさん!」
「星が綺麗だよ。おいで」
 ダイゴさんに手招きされ、私は軽い足取りでベランダへ出た。お風呂上がりの湿った体に冷たい風が吹き付けて、思わず体を震わせた。
「ごめん、寒かったね」
「大丈夫……わ、すごい」
 空を見上げると、ダイゴさんの言うとおり、そこには鮮やかな星空が広がっていた。今日は新月、星がどこまでも輝いている。
「ね。流星群じゃないけど、あのときに負けないぐらい綺麗だ」
 ダイゴさんは私を温めるように抱き寄せる。私も安心して彼に身を預けた。
 目の前に広がる大きな空。一つの星が、青色に瞬いている。
「心のしずくみたい……」
 あの流星群の日、見つけた青い結晶。心のしずくかはわからないけれど、綺麗な綺麗な青い石。あの星の瞬きは、あの結晶にそっくりだ。
 この星空の下に、私の知らない世界が広がっている。
「ダイゴさん……」
 隣にいる、私の恋人。温かな、優しい人。
「……私、一緒に行きたいです」
 広い世界を私も見たい。ダイゴさんと一緒に、世界を巡りたい。願いがあふれ出す。
「私がどれだけ役に立てるかわからないけど……」
「そんなことない」
 ダイゴさんはぎゅっと両手で私を抱きしめる。力強い腕が、温かい。
「嬉しいよ。一緒に行こう。世界を見に行こう」
「はい」
 不安がないわけではない。それでも、私は、あなたと世界を旅して回りたい。