疲れたダイゴさんを癒す話

 昼休み、デボン本社ビルの非常階段に出た私は、冷たい空気に身を縮こまらせながらポケナビを起動した。通話機能の画面で、「ツワブキダイゴ」の名前を選ぶ。
「寒……」
 数回のコール音を聞いている間も、冬の冷たい風が頬を刺す。上着を持ってくればよかったかな。しかし、ただ電話をするだけだしなあ。
 寒い思いをするとわかっていながら、わざわざ非常階段に出たのはこの通話を社内の人に聞かれたくないから。
 私とダイゴさんの交際は、会社の人たちには隠している。彼との電話を聞かれたくないため、わざわざ人のいない冬の非常階段まで出てきたのだ。
『もしもし』
 自分の白い息を見つめていると、ポケナビからダイゴさんの声が聞こえた。ふっと自分の耳が熱くなるのを感じて、我ながら単純だなあと思いつつ、「もしもし」と同じ言葉を返した。
『今お昼休みだよね。デボンから電話なんて珍しいな』
「はい。実は同僚からジャガイモたくさんもらったんです」
 自分のデスクの下に置かれた、大量のジャガイモを頭に浮かべる。今朝、始業前に違う部署の同期が「実家から送られてきたの」と紙袋いっぱいのジャガイモを持ってきた。私のほかにも仲のいい同期何人かに配っているとのこと、いったい彼女のもとにはどれだけ大量のジャガイモが送られてきたのだろう。
『ジャガイモ?』
「はい。なのでジャガイモ使って料理しようかなって思ってるので、今日か明日うちに来ませんか?」
 ジャガイモは保つとはいえ、早めに使ってしまいたい。ダイゴさんが一緒に消費してくれたら非常にありがたいと思い、ダイゴさんをデボン近くにある自宅マンションに誘うために連絡をしたのだ。
『いいね。ありがたく頂くよ。早速今日行っちゃおうかな』
「はい、待ってますね」
『電話、ありがとう。ちょうどの声が聞きたかったんだ』
「もう、すぐそういうこと言うんだから」
 笑い声を漏らすと、ダイゴさんが重ねて「本気だよ?」と言ってくる。ダイゴさんは相変わらずだ。
『部屋に着く時間はまた連絡するよ』
「はい、待ってますね」
『またね』
 電話を切ると、またひゅっと冷たい風が吹く。私は両手をそれぞれ反対側の二の腕に回して、自分を温めながら会社の中に戻った。
 ダイゴさん、今夜来るということは、今日はカナズミの周辺にいるのかな。ダイゴさんはデボンやリーグの仕事、それに石の採掘であちこちを飛び回っていることが多い。誘った日にカナズミ周辺にいてくれてラッキーだ。ダイゴさんが来るのならジャガイモもただふかすだけはなく、なにか料理にしなくっちゃ。カレー、シチュー、ポトフ……。
 なににしようか、胸を弾ませながらも、心のどこかで引っかかりを感じる。
”ちょうどの声が聞きたかったんだ”
 ダイゴさんはすぐそういうことを言うけれど、なんだか少し。いつもと違うような。普段のあの弾んだ調子ではない、少し……声が遠いような、そんな気がした。
「……」
 非常階段のドアの前で私は再びポケナビを見つめる。もう一度、電話かけてみようか。踵を返そうとしたけれど、もう昼休みが終わる時間だ。自分のデスクに戻らなくては。
 ダイゴさんのことは気になるけれど、あくまで「気がする」だけ。私の勘違いかもしれないし、なにより今日は夜に会えるのだから、なにかあるのならそこで話してくれるはず。
 気持ちを切り替えて、早足で社内へと戻る。さて、午後も頑張らなくちゃ。



 午後八時。自室のキッチンで、できあがったクリームシチューを一口すくって味見をする。うん、うまくできた。あとはダイゴさんを待つだけだ。
「あ、来た!」
 鍋の火を止めると、ちょうどインターホンが鳴る。モニターを覗けばやはりそこにいるのはダイゴさん。「八時ぐらいに着くよ」と連絡があったのが一時間前、ぴったり時間通りだ。私は早足で玄関へ向かってドアを開ける。
「ダイゴさん、いらっしゃ……わっ」
 挨拶より先に、ダイゴさんは私の背中に腕を回してきた。ひんやりとした腕が、私を包む。
「ダイゴさん?」
 名前を呼んでもダイゴさんはなにも答えず、ただ私を抱きしめるだけだ。どうしたのだろうと思いつつも、私はその抱擁を受け入れる。
 冷たい風に吹かれたのだろう、ダイゴさんの体は冷え切っている。私がデボンから帰ってきたときより外の気温は下がっているようだ。温めるようにダイゴさんの背中をさすると、ダイゴさんが私の肩にちょこんと置いた。
「いい匂いがするね」
 ダイゴさんの息が、ふわりと私の耳を包む。
「クリームシチュー、さっき出来たばっかりですから」
「そっちもだけど……のいい匂いがする」
 ダイゴさんの唇が、ふっと私の首筋に触れる。冷たい唇に、私は思わず声を漏らしてしまった。
「もう、すぐそういうこと言うんだから」
「本気なんだけどなあ」
 ダイゴさんは体を離すと、ふふっと笑ってみせる。いつもの明るい、ちょっとだけからかうようなあの笑顔。
「クリームシチューも楽しみだな。お邪魔するね」
「はい、リビングで待っててください」
 ダイゴさんは靴を脱ぐと、慣れた手つきでコートを下駄箱横のポールハンガーに掛けた。
 私の部屋は1Kだ。玄関から入るとまずキッチンや浴室などの水回りがあり、その先に扉を挟んでリビング兼寝室がある。ダイゴさんがリビングに入るのを見送りながら、私は再びシチューの火をつけた。
 電話のときは少し引っかかりを感じたけれど、ダイゴさんはいつもどおりみたいだ。相変わらずの調子で、からかうような本気のような甘い台詞を……。
「……」
 そう、いつも通りの相変わらずのダイゴさんで……。
 変わらないはずなのに、やはりどこか違和感を覚える。いつもと同じなのに、いつもと違うような、そんな気が……。
 考えながら、シチューを器に盛りつけていく。お盆に二人分のシチューを乗せて、ダイゴさんの待つリビングへ。
「おいしそうだね、ありがとう」
 シチューをテーブルの上に乗せると、ソファに座ったダイゴさんが優しい笑みを浮かべる。
 いつもの穏やかな笑顔の中に、ほんの少し見えた陰。真っ暗闇というほどではないけれど、確かに薄いグレーがかかった表情。ああ、これは。もしかして。
「ダイゴさん、あの……」
 ダイゴさんの隣に座って、じっとダイゴさんの顔を見つめる。
「……疲れてます?」
 少し感じた心の引っかかり、ダイゴさんの表情に薄くかかる暗いもや。決して重いわけじゃない、ほんの小さな影の正体が、今わかった。
「なんだか、元気がないように見えて……」
 いつも明るくハツラツとしたダイゴさんが、少し、ほんの少し疲れた様子を見せている。そんな気がするのだ。
 ダイゴさんは一瞬の沈黙の後、ふっと目を閉じた。
はなんでもお見通しだね」
 ダイゴさんの腕が、再び私の背中に回る。出迎えたときより、ずっと強い力だ。
「最近、リーグやデボンの用事で飛び回ってたからね。少し疲れがたまってて……」
 耳元にダイゴさんの声が響く。いつもよりワントーン低い、細い声。
「だからから電話があって、嬉しくて飛んできちゃった」
「もしかしてトクサネから?」
「うん」
 離島であるトクサネからカナズミまでは距離がある。その距離を空を飛んできたからあんなに冷えていたのか。私は暖めるようにダイゴさんの背中に腕を回す。
 ”疲れているのにトクサネから飛んでくるなんて”、そんな野暮なことは言わない。私だって、疲れ切ったとき、一番会いたいのは一番好きな人、一番大切な人。ダイゴさんもきっと同じ思いなのだろう。
に会いたかったよ」
「私もです」
「会いたかった」
 切ない声が、私の耳に響く。
 いつもより少し小さなダイゴさんの背中を、私はぎゅっと抱きしめた。
 ダイゴさんはいつも明るくて、笑顔を絶やさない人。いつだって優しく、私の手を引いてくれる人。そんなダイゴさんが、今日はほんの少し弱った表情を私に見せている。私は躊躇うことなく、ダイゴさんの背中をそっと撫でる。
 テーブルの上のクリームシチューが冷えてしまうだろうけれど、また温めればいい。今は、いつも私を導いてくれるこの背中を、支えていたい。