疲れたときにダイゴさんに癒される話

 カタカタ、カタカタ。デボン本社の三階、経理部のフロアに、一人分のキーボードの音が響く。
「はあ……」
 目の疲れを感じた私は、一度キーボードを叩く手を止めてため息を吐いた。私以外誰もいないこのフロアには、ただのため息の音も響きわたってしまう。まあ、誰もいないのだから気にすることもないのだけれど。
 この一週間、ずっと残業残業残業の日々だ。辞めてしまったベテラン社員の代役に加え、その社員の穴埋めとして新しく入った社員の指導、そして刻一刻と近づく締め作業。普段はあまり残業の多くない部署なのに、どうして仕事って重なるのだろう。
 もう一度ため息を吐いて、カップに入ったコーヒーを飲む。濃いめのインスタントコーヒーの味が、口の中に広がった。
 ふと、カップの隣に置いた半透明の水色の石が目に入る。私の恋人のダイゴさんが、いつかの採掘のときに持ち帰ってきたものだ。
 私はダイゴさんと違い、石に特別興味があるわけではない。けれど、この水色の石を見た瞬間、無性に心が惹かれた。ダイゴさんの「気に入ったのならあげるよ」という言葉に甘え、私はこの石をそっと会社のデスクの上に飾ることにした。
 つん、と人差し指で楕円の石をつついてみる。石の表面に、天井の照明の光が反射した。
 ダイゴさんは先週からイッシュに出張に行っている。当然、その間私とダイゴさんは会えていない。頻繁に電話はしているけれど、今朝はタイミングが合わず話せなかった。
 今度は石を指で撫でた。反射した青い光が、ダイゴさんの瞳を思い出させる。
 ダイゴさんに、会いたい、な。心の奥に、小さな思いが湧きあがる。
 会いたいな。ダイゴさんの顔を見ることができたら、もう少し頑張れる気がする。沈んだ心が浮き上がるはず。
「……いや」
 大きく息を吐いて、頭を横に振る。
 ダイゴさんに会いたい気持ちはあるけれど、お互い社会人なのだから、会えない日が続くことはままある。なにより、残業続きのこんな疲れた顔をダイゴさんに見せたくない。
 ダイゴさんが帰ってくるのは明後日だ。飛行機の到着時間にあわせて、カナズミの空港で会う約束をしている。
 明後日に備えて、明日は早く帰ってしっかり休もう。そのためにも今日は目の前の仕事を片づけなくては。ダイゴさんだって出張だなんだと忙しいのだから、私も頑張らないと。
 大丈夫、大丈夫。まだ頑張れる。
 私は背筋を伸ばして、再びパソコンの画面に視線を向けた。あの青い石は、モニターの横に近づけておいた。画面を見るときも、目に入るように。


「疲れたー……」
 やっとの思いで仕事を終えた私は、重い足を引きずりながらエレベーターに乗り込んだ。
 ずいぶんと遅くなってしまった。ホウエン随一の都会であるカナズミも、この時間になると人もまばらだだろう。少し遠回りだけれど、明るい道を通って一人暮らしのマンションまで帰ろう。
 ぼんやりそんなことを考えていれば、すぐにエレベーターが一階に到着する。この時間、正面玄関は閉まっているはずだ。私は警備員へ挨拶して裏口へと向かった。
「え……」
 裏口のドアをくぐっで外に出た私は、目に入った光景にぽかんと口を開けた。
 目の前にいるのは、スマートな銀髪の男性。整った顔立ちの、あの人だ。
「やあ、お疲れさま」
 私の恋人、ダイゴさんがそこにいる。街灯の明かりが、ダイゴさんの優しい笑顔を照らしている。
「え、ど、どうして……」
 ダイゴさんがホウエンに戻ってくるのは明後日のはず。どうしてダイゴさんがここに? 疲れすぎて幻覚でも見ているんだろうか?
 戸惑っていると、ダイゴさんは笑顔のまま私に一歩近づいた。
「早く帰れることになってね、飛行機に飛び乗ってきたんだ。さっきカナズミに着いたんだよ」
「そうだったんですか……」
 ダイゴさんのそばには大きなスーツケースが置いてある。きっと空港から直行してきたのだろう。
にも電話したんだけど、気づかなかったみたいだから」
「あ……」
 鞄から取り出したナビには、三十分前にダイゴさんからの着信があったことが表示されている。仕事に集中するためにナビはサイレントモードにしていて気づかなかったのだ。
「なんとなくデボンにまだがいると思って来たんだけど、当たりだったね」
「なんとなくって……」
「ボクの勘ははよく当たるんだよ」
 ダイゴさんはそっと私の頬に触れる。温かな指先に、私の心が小さく揺れた。
「こんな時間まで残業かな」
「はい、今日はちょっと忙しくて……」
 あ、まずい。言葉を発すると、声が震える。抑えていた感情が、溢れそうになる。
「疲れた顔をしているね」
 ダイゴさんが目元を撫でる。その瞬間、私の頬に涙が伝った。
「す、すみませ……」
 慌てて涙を拭おうとする私を、ダイゴさんはそっと抱き寄せる。
、お疲れさま」
 ぽんぽんとダイゴさんが私の背中を撫でるから、また私の目から涙があふれ出す。
 どうして涙が出るのか、自分でもよくわからない。けれど、ダイゴさんの顔を見たら、「頑張らないと」と張っていた心の糸がたゆんでしまった。
「無理をしてたんだね」
「……っ」
 ダイゴさんの穏やかな声に包まれて、心が溶けていく。涙が零れていく。
 連日の残業で目の下にクマができているし、メイクだって崩れている。こんなひどい顔でダイゴさんに会いたくなかった。そう思っていたはずなのに、でも、今こうやってダイゴさんに会えて、抱きしめられて、涙が止まらない。
 ダイゴさんに、会いたかった。
 ダイゴさんと一緒にいると、優しさに包まれる。疲れきった心がほどける。張りつめた感情が緩んでしまう。涙と一緒に感情がとめどなく零れてしまう。
「ダイゴさん……」
「大丈夫、ボクがそばにいるよ」
「はい……」



 少し落ち着いたところで、私はダイゴさんと一緒に自分のマンションへと帰ってきた。ずっと忙しかったから部屋は少し散らかっている。片づいていない部屋にダイゴさんを招くのは抵抗があったけれど、今はそんな感情よりも、ダイゴさんのそばにいたい思いが強い。
 早々に眠る準備をした私たちは、天井の明かりを消して、二人でシングルベッドで横になる。
「ダイゴさんって、タイミングいいですよね」
 ベッドのそばのオレンジ色の明かりが私たちを包む中、私はぽつりとつぶやいた。
「タイミング?」
「私になにかあると、いつも来てくれるから」
 私がつらいとき、ダイゴさんにそばにいてほしいと思うとき、私がなにも言わなくても、ダイゴさんは見計らったかのように駆けつけてくれる。まるでテレパシーで私の心を見透かしているみたいだ。
の助けになれているなら嬉しいよ」
 ダイゴさんは私の頬を指で撫でる。シルバーの指輪を外したダイゴさんの指は、温かい。
「今日はね、ボクもに会いたかった」
 ダイゴさんは目を細めて、甘い声で語り出す。
「向こうでの仕事も……移動の飛行機も長くてさすがに疲れたからね。に会いたくて仕方なかった」
「ダイゴさん……」
「ボクがに会いたいと思ったとき、きみも同じことを思っていたんだね」
 私は頷いて、ダイゴさんの手を両手で握る。ダイゴさんの大きな手は、いつだって私を包んでくれる。
「私も、ダイゴさんに会いたかったです」
 ダイゴさんに会いたかった。会いたくて仕方なかった。こんな疲れた顔を見せたくないと思っても、つらいときだからこそ、一番好きな人に会いたかった。
 私がダイゴさんに会いたいと思ったとき、ダイゴさんも同じように私に会いたいと思ってくれた。柄にもなく運命的なものを感じて、私は頬を染めてしまう。
「まあ、ボクはいつだってに会いたいんだけどね」
「もう、ダイゴさんってば」
 冗談めかしたダイゴさんの言葉に、私は笑みをこぼした。
 軽い口調だけれど、ダイゴさんの本心だと私は誰よりわかっている。だって。
「私も、同じ気持ちですよ」
 ダイゴさんが私に会いたいと思ったとき、私だってダイゴさんに会いたいと思っている。私も、ダイゴさんと同じ感情を抱いている。
 ダイゴさんは口角を上げると、そっと私の唇にキスをする。そしてそのまま、私の耳元で優しい声を囁いた。
「おやすみ、
 穏やかな声が、私の心に沁みていく。
 私も「おやすみなさい」と返して、目をつぶった。
 今日は甘い夢が、見られそう。