※結婚後の話で花宮とヒロインの間の子供が出てきます。むしろ花宮と娘の交流メインの話です。
※娘の名前は菫です。








 今の自分を15年前の自分が見たら笑うだろうと真は思う。
 自分だけじゃない。当時の部活のメンバーや、果ては今家で自分を待っている彼女でさえ笑うだろう。

 そんなことを考えながら家のドアを開ける。玄関とそこから続く廊下は電気が消えている。リビングにも誰もいないので、がいるであろう彼女の仕事部屋へ向かった。

「真?」

 ノックをすると、そう返事が返ってくる。了承の合図と捉えた真はドアを開けた。

「おかえり」
「お前まだ仕事してんのか」
「今日はもう終わり!」

 はそう言ってパソコンの電源を切った。
 真の仕事は転勤が多い。二年前までは海外、今は日本にいるもののまたいつか海外赴任することもあるだろう。そんな彼と結婚するにあたっては在宅でできる仕事を選んだ。結婚前は至って普通の会社員だったが、結婚を機に今の仕事に変えた。前からやりたかった仕事なのか、前より生き生きと仕事をしていうように真には見えた。

「ご飯は?」
「食ってきた」
「そ、じゃあ私は寝ようかなー…」

 はそう言って伸びをする。時計を見れば確かにもういい時間だ。

「菫は?」

 真が口にしたのは娘の名前だ。

「もう寝てる」

 娘の様子を聞いた真は、彼女の部屋へ向かう。そっと「すみれ」と書かれたプレートの掛かったドアを開ける。奥のベッドに眠る菫の姿が見える。
 ベッドの脇まで近付くと、小さな寝息が聞こえてきた。菫の腕の中にはクリスマスに贈ったテディベアがある。女児にはこういうものが適当だろうと思って買ったものだが、予想以上に気に入っているようだ。
 菫の頬に触れる。子供らしく体温が高い。
 真の仕事は忙しく、朝は早く夜は遅い。休日出勤もザラだ。とはいえ、それを真自身楽しんでいる節がある。学生時代の勉学と違い、誰にでもできるわけではない仕事だ。思考を巡らせ指示を出し仕事をやり遂げたときの感覚は、あの頃持ち得なかったものだ。それに見合った報酬ももらえ、言うことはない。
 だが、娘にはほとんど会えない。菫が起きる前に出勤し、菫が寝た後に帰宅する。本当に一緒に住んでいるのかと思うほど、彼女と顔を合わせる機会は少なかった。





「あ、おはよ」
「おはよー!」
「…おう」

 次の日。今日は真にとってたまの休日だ。目を覚ましリビングに行くとが菫に絵本を読んでいた。

「おとうさん、おそい!」

 菫の指摘通り、もうすでに昼過ぎだ。と菫はすでに昼食を済ませているようだった。

「お父さんは疲れてるからね」

 は菫を撫でながらそう言った。
 基本的に子育てはに一任している。もまさか自分に期待していないだろうと真は思う。二人を横目に洗面所へ向かった。


 五年前、結婚して少し経った頃のことをぼんやりと思い出す。
 家に帰るとが神妙な顔で「話がある」と言ってきた。

「子供ができたんだけど」

 は単刀直入にそう言った。きっと真を睨みつけるような眼差しで。
 それを聞いた真は「しくった」と思った。結婚こそしたものの、子供はいらないと思ってたからだ。なにをしでかすかわからない子供が真は大嫌いだった。
 頭を抱えたまま彼女を見ると、相変わらずの鋭い視線を送っている。堕ろせと言おうものなら「別れて一人で育てる」と言い出しそうな顔だ。実際、彼女にはそれができるだけの経済力も精神力もある。

「…勝手にしろ」
「え、産んでいいの!?」

 意外な答えだったのだろう。が驚いた声をあげる。

「堕ろせっつったら別れるって言うだろ」
「さすが、わかってるじゃない」

 長い付き合いで彼女の性格は熟知している。なにを言えばなんと返すか、だいたい予想がついている。

「オレはなんもしねーぞ」
「わかってる」

 そしてその半年後、菫が産まれた。宣言通り、真は子育てにほとんど関知しなかった。
 ただ、菫が眠った後にその寝顔を眺める。それだけだった。


 そんな過去を思い出しながら、洗面所で顔を洗い歯を磨いた。今日は久しぶりの休みだ。たまっていた本でも読もうか。
 そう思っていると、リビングから菫のつんざくような声が聞こえてきた。

「!?」

 さすがの真も慌ててリビングに向かう。泣く菫の前でがお腹を抑えて倒れている。

「おかあさん!」
「おい、どうした!?」
「いや、ちょっと…お腹が」

 腹痛なのは見ればわかる。割と我慢強いほうのがこれほど痛がるのは尋常じゃないだろう。すぐに車のキーを出し近くの病院へ向かった。





「いやー、なんかごめんね」
「慌てさせんなよクソ…」

 ベッドで横になるがあっけらかんとした表情で言う。そんなに真が吐き捨てた言葉を聞いて、隣の菫が暗い顔をした。

「おかあさん、へいき?」
「平気よ。大丈夫!」

 は笑顔で菫の問いに答える。実際、はただの虫垂炎で、命に別状があるわけではない。ただ、投薬治療では再発の危険もあると言われたので手術をした。手術は一時間もしないうちに終わったが、一週間弱の入院が必要とのことだ。

「それよりあんたが心配なんだけど」

 は真を見やる。言葉通り、深刻な顔だ。

「…菫の面倒ちゃんと見てね」

 出てきた言葉は真にとって予想通りの言葉だった。菫が産まれてからのこの4年半、まともに菫の面倒を見た覚えがない。そんな娘と突如二人きりだ。

「…あれ、いるだろ。ベビーシッター」

 の仕事は在宅でできるとはいえ、さすがに仕事の詰め作業は菫が傍にいては集中できない。そういうときにいつも頼んでいるベビーシッターがいる。

「いるけど…そんな四六時中頼めるわけじゃないからね?菫が保育園から帰って、あんたが仕事から帰るぐらいの間とか」

 は眉を下げてそう言った。言いたいことはわかるが、すぐに賛同はできない。

「…っていうかさ、仕事早く帰って来れない?」

 はそう問いかけてくる。おそらくそれは可能だろう。真の職場はそういったことに理解のある職場だった。真が休日返上で仕事をしているのも趣味に近いものであり、厳しい仕事環境ではない。

「…できるけど」
「一週間もないんだからさ、お願い」

 真はなにも返事をしない。それが了承であることをはわかっていた。

「菫、しばらく私病院にいるけど、いい子にしてるのよ」
「おかあさん、いないの?」
「五日間だけだから」

 は菫を優しく抱きしめ、頭を撫でる。真はその様子を隣で見ていた。

「真、本当によろしくね」
「…わかってるよ」
「ちゃんと抱きしめてあげてね」
「あ?」

 にそう言われ、真は不機嫌な声を出す。その顔を見てもはひるまない。

「すごい顔してるわよ」

 に指摘されても真は表情を戻さない。そうは言われても、自分にそんなことができる気がしないのだ。

「こうすればいいのよ」

 そんな真の様子を見て、はベッドから身を乗り出し真を抱き寄せた。すぐさま真はその腕をはねのける。

「ガキじゃねーんだぞ」
「ほら、わかってるじゃない。子供は喜ぶの」

 そう言ってにっこり笑うを見て、真は反論をやめた。の言葉が事実だとわかっているからだ。
 は何かにつけて菫を抱きしめていた。褒めたとき、叱った後、菫が泣いたとき。菫とすれ違いの生活をしている真でもよくその場面に遭遇する。ということは、はかなりマメに菫を抱きしめているのだろう。
 真は無言で立ち上がる。

「どうしたの?」
「…入院なんだろ。必要なもん取ってくる」
「ありがと」

 真はそう言ってと菫を残し病室を出る。駐車場に停めた車に乗り込んで、ハンドルに突っ伏した。これから一週間、娘と二人きりという事実が真の頭を悩ませる。
 菫が産まれてからの四年半、真はずっと娘のことをに任せきりにしてきた。それでいいと彼女も言った。しかし、もうこの状況が許さない。
 いや、本当はベビーシッターも来られるはずだ。がそれをさせまいとしているのは、単純に真と娘の接点を作らせたいのだろう。それがわかっていながら、真は何も言えなかった。も、昔の真ならいざ知らず、今の真なら受け入れるであろうということがわかってそう言ったのだろう。
 車のエンジンをかける。暗い表情のまま真は家に向かった。