アクアマリン/2

 私がチルットを引き取って、三日がたった。当日もそれからもめまぐるしくあっという間の日々だったけれど、チルットの世話の手順もようやく覚えてきた。ご飯は朝昼晩の三回、怪我などで弱ったポケモン用のポケモンフードを手ずから食べさせている。そして包帯の交換は朝晩の二回、交換の際にはきずぐすりとやけどなおしを塗っている。
「さて、私もご飯かな……」
 夜の分のチルットの食事と包帯交換を終えたので、次は自分の夕飯だ。キッチンへ向かおうとしたそのとき、テーブルの上に置いておいたポケナビが着信を知らせた。もしかしたら警察からチルットのトレーナーの件で連絡がきたのかもしれない。急いでナビを手に取ると、液晶に表示された名前は意外な人物のものだった。
「え……っ」
 着信の主はツワブキダイゴ。ダイゴさんからの電話なら用件はきっとチルットのことだろう。わかってはいても、勤めている会社の社長の息子からの電話を取るなんて、どうしても緊張してしまう。
 私は小さく息を吐いて、ダイゴさんからの電話を取った。
「も、もしもし」
 深呼吸をしてから声を出したにも関わらず、私の第一声は思い切り上擦っていた。そんな私とは正反対に、ダイゴさんは穏やかな口調で話し出す。
ちゃん、こんばんは』
「は、い。こんばんは」
『ふふ、そんなに緊張しないで。ボクはきみの上司じゃないよ』
 電話越しにも私の緊張が伝わっているのだろう。ダイゴさんは小さな笑い声を漏らした。
「す、すみません……つい」
『この間は普通に話してくれたのに』
「それは……この間はそれどころじゃなかったので……」
 初めて会った日はチルットのことで頭がいっぱいだったため、ダイゴさんと接する緊張は二の次になっていた。しかし、少し落ち着いた今、彼と電話越しとは言え、会話をすることにどうしても気が張ってしまう。
『それもそうか。電話したのはチルットの様子が気になったからでね。今電話して大丈夫かな』
「あ、はい、大丈夫です」
 十中八九チルット関連の話題だろうという私の考えはやはり当たりだ。私はケージに入ったままのチルットを見ながら、ケージの隣のソファに腰掛けた。
「チルットは今のところ落ち着いてます。まだまだ完治には遠いですが……」
『そっか。チルットのトレーナーはまだ見つからないのかな』
「はい……。ダイゴさんのほうも知り合いに聞いてみるって言ってましたけど……」
『うん。ジムリーダーたちに連絡してみたけど、特にそういう情報は集まってないみたいだ』
「そうですか……」
 早ければ二、三日でチルットのトレーナーは見つかると思っていたけれど、予想に反して手がかりすらない。ため息を吐くと、私の不安を察したのかチルットがしゅんと羽を垂らした。
「チルット、心配しないで。きっと大丈夫だよ」
 電話を少し離して、チルットの頭を撫でる。傷を刺激しないよう、そっと。
『早く見つかるといいね。ちゃんも大変だろう?』
「私はそんな……必要なものはジョーイさんが用意してくれましたし。……あ」
 ジョーイさん。その単語を出したことで、私はあることを思い出す。
『どうしたの?』
「あ……その」
 ジョーイさんから、一週間に一度ポケモンセンターに通院するよう言われている。次の土曜に連れて行こうと思っていたけれど、ダイゴさんにも伝えたほうがいいだろうか。チルットの様子を伝えてほしいとは言われているけれど、わざわざ告げるのも忙しい彼に「一緒に行きませんか」と誘っているようで躊躇われる。
 少し迷って、私は再び口を開いた。
「週に一回チルットをポケモンセンターに連れてくるようにと言われているので、次の土曜に行こうと思ってるんですが……」
 気は引けたけれど、ダイゴさんはわざわざ私に電話をしてくるぐらいチルットのことを気にしているようだ。伝えるだけはしておいたほうがいいだろう。
『土曜か、ちょっと待ってね……。午後なら空いてるから、きみがよければご一緒してもいいかな』
 ダイゴさんの返答に、私はひゅっと姿勢を正した。私から話しておいてなんだけれど、まさか本当に付き合ってくれるとは。
「い、いいんですか?」
『ふふ、いいから聞いてるんだよ』
「そ、そうですね。私はもちろん大丈夫です。じゃあ待ち合わせはカナズミのポケモンセンター前で、時間は……」
『二時には行けると思うよ』
「じゃあ二時で。よろしくお願いしますね」
『こちらこそ。ちゃん、また土曜日にね』
「はい」
 そうしてダイゴさんとの電話は終わった。緊張が一気に抜けた私は、ソファの背もたれに体を預ける。
「土曜日か……」
 ソファに座ったまま、壁のカレンダーを見つめた。
 まさか本当にダイゴさんと一緒にポケモンセンターに行くことになるなんて。電話以上に緊張する未来が見えて、私は今から深呼吸をすることにした。


 そしてやってきた土曜日。遅刻してはいけないと早めに家を出たら、待ち合わせ時間よりずっと早くポケモンセンターに着いてしまった。
「あと三十分もある……」
 いくら緊張していたとは言え、さすがに早く着きすぎた。手持ち無沙汰な私は、自分のポケモンを遊ばせようとモンスターボールを鞄から取り出す。
「エネコ、出ておいで」
「エネ!」
 私の唯一の手持ちポケモン、エネコ。私が子供のころからずっと一緒に暮らしている子だ。
 ボールから出たエネコは私の足下でぴょんぴょんと跳ねる。しゃがんでエネコの喉を撫でると、エネコは嬉しそうに私に体を寄せてきた。相変わらずの無邪気さだ。もう子供とはいえない年齢のはずなのに、いつまでたっても甘えん坊なんだから。
「エネネッ」
「ル?」
 エネコは私に抱っこされたまま、ケージの中のチルットに話しかける。なにを言っているか詳しいことは私にはわからないけれど、二人が仲良くしてくれているようで何よりだ。
 チルットを引き取ると決めたとき、心配事の一つがエネコとチルットが仲良くできるかという点だった。しかしそれは杞憂に終わったようで、私はほっと胸を撫で下ろす。
ちゃん」
 しゃがんでエネコと遊んでいると、私を呼ぶ声が聞こえた。慌てて顔を上げれば、やはり向こうからこちらへ駆け寄ってくるダイゴさんの姿が見える。エネコと遊んで和んでいた心が再び引き締まり、私はエネコを地面にそっと置いて立ち上がった。
「ダイゴさん、こんにちは」
「ごめんね、遅れちゃったかな」
「いえ、私が早く着いちゃっただけで」
 ポケモンセンター前の時計は待ち合わせの十分前を指している。遅刻どころか時間前だ。私は心の中で早めに来ておいてよかった、と安堵した。時間ぴったりだとダイゴさんを待たせるところだったから。
「あ、エネコだね。きみのポケモンかな」
 ダイゴさんは私の足下のエネコを見つけると、屈んでエネコに「こんにちは」と笑いかける。
「ネッ」
 しかし、エネコはさっと私の後ろに隠れてしまった。ピンク色のしっぽを体に巻きつけて、すっかり脅えた様子を見せている。
「おや」
「す、すみません、この子かなりの人見知りで……」
 私は慌ててエネコを抱き上げて、ダイゴさんに頭を下げた。
 エネコはポケモン相手だと友好的なのに、人間相手だとすぐに縮こまってしまう。何度か会っている会社の同僚にですらそうなので、初対面の相手なら言わずもがな。私に慣れるまでも時間がかかったものだ。
「ネ……」
「エネコ、戻って」
 私はエネコをぽんぽんと撫でて落ち着かせてから、彼女をモンスターボールへ戻した。
 ああ、失敗した。エネコを脅えさせて、ダイゴさんにも嫌な思いをさせてしまった。もっと早めにエネコをボールに戻しておくべきだった。
「ダイゴさん、すみません……」
「謝ることじゃないよ、この子の個性なんだから。ボクの方こそいきなり話しかけてごめんね」
「でも」
「いいから。チルットは元気かな」
 ダイゴさんは私の謝罪を遮ると、今度はケージの中のチルットに視線を合わせた。向こうから話題を変えられてしまっては、こちらもなにも言えない。私は大人しく口をつぐんで、ダイゴさんと一緒にチルットの様子をうかがった。
「こんにちは」
「チル」
「この間よりは元気だけど、やっぱりまだつらそうだね。早くよくなるといいんだけど」
「はい……」
 ダイゴさんの言葉のとおり、チルットは保護したときのぐったりした様子からはずいぶんと回復した。しかし、それでも傷は深く、まだまだ全快にはほど遠い。
「早くジョーイさんに見てもらおうか」
「はい。いつもの受付に行けばいいって言われてるので」
「行こう」
 ポケモンセンターに入り、すぐに受付でチルットを預けた。チルットの傷の状態や治癒具合、ほかにも怪我をした際にかかりやすい感染症なんかの検査をするとのことだ。チルットを預けている少しの間、私たちはセンター内で待つことになった。
「今チルットは会社に連れて行ってるの?」
 ポケモンセンター内、自動販売機近くのソファに座って開口一番にダイゴさんから投げかけられた質問に、私はすぐに答えた。
「今週は有給取って家でチルットを見てます。でも来週からどうしようかと……」
「なにか問題があるの?」
「経理部ってポケモンの食事のとき以外、ボールからポケモン出しておくの禁止なんです。いい部署もあるのに経理部はだめなんですよね……」
 チルットは私のポケモンではないので、モンスターボールに入れるわけにはいかない。ケージに入れるから連れて行く許可をして欲しいと上司に連絡をしたけれど、「規則だから」の一点張りだった。
「会社に連れて行って目を離さないようにするか、家で安静にしておくか悩ましいんですが……」
 私が面倒を見るなんて言ったけれど、一人暮らしの会社員が傷ついたポケモンの世話なんて無茶だっただろうか。けれど工場火災でポケモンセンターはいっぱいだ。現に今もジョーイさんたちは忙しそうにセンター内を駆け回っている。
 私の方でも知り合いのポケモン保護団体に日中だけでもチルットのお世話を頼めないか聞いてみたけれど、もともとギリギリで回しているところに工場火災の被害にあった野生のポケモンも入ってきており、今はこれ以上受け入れるのは難しいと言われてしまった。
「そっか……。ボクもボランティア団体に問い合わせたけど、どこも今はいっぱいで」
「ダイゴさんも聞いてくれたんですね。ありがとうございます。有給は来週の月曜までなので、また月曜の朝にかけあってみますから。ほかの部署の同期に勤務時間中見てもらうって手もありますし」
 本音を言えば、できれば常に自分で見ていたい。同期にも負担をかけるし、なにより私自身がチルットのことが気になるからだ。
 よし、月曜の朝一番に会社に電話をかけて上司に強く進言しよう。心の中で小さく決意をしたとき、「チルットのトレーナーの方ー!」と受付のジョーイさんが私たちを呼ぶ声が聞こえてくる。
 受付へ向かうと、ジョーイさんはチルットが入ったケージをカウンターにそっと置いた。
「今のところほかの病気もありませんし、怪我もよくなってきています」
「よかった……」
「ただ、完治まではまだ時間がかかると思います。特に翼の傷が深いので、飛ばないよう注意して見てあげてください」
「はい。チルット、お疲れさま」
 ケージの中のチルットに手を伸ばすと、チルットは私の手に自分の頬をくっつけた。ごろごろと甘えるように、何度も頬を擦り寄せる。
「チル」
「きみに懐いてるね」
 自分の手に頬を寄せるチルットに、愛しさが強くなる。ああ、やっぱり私が頑張らなきゃ。この子のトレーナーが見つかるまで、私がちゃんと見ていなくちゃ。私を頼る小さないのち。温かなチルットに触れて、改めて心を決めた。
「あまり無理しないでね」
 チルットを見つめていると、ダイゴさんが私の肩をそっと叩く。
「ボクも一緒にチルットを見つけたんだから、ボクも面倒見るよ」
 そう言ってくれるけれど、ダイゴさんはホウエンリーグのチャンピオン。デボンで役員職も担っており、チャンピオン業の傍ら時折デボンに顔を出して仕事もしているはずだ。忙しい中でチルットの世話なんて難しいだろう。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですから」
 笑顔を作って答えれば、ダイゴさんも「そっか」と頷いた。
 経理部は繁忙期以外は残業も少ないし、私には世話をしなくてはいけないような家族やポケモンもエネコのほかにはいない。私より忙しいであろうダイゴさんに頼るわけにはいかない。

 今日の通院を終えた私たちは、一緒にポケモンセンターを出た。ケージの中でチルットはうとうとと船を漕いでいる。きっと疲れてしまったのだろう。
「ダイゴさん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。チルットのトレーナーのことで手がかりがあったらすぐ連絡するよ」
「はい。……もしかしたら工場火災で警察もバタバタしてるのかも」
「規模もかなり大きかったみたいだしね。デボンも影響受けてるみたいだ」
 ダイゴさんの言うとおり、最近はデボンも納品されるはずの品物が届くのが遅れていたりと、少しずつ慌ただしくなっていると他部署の友人から連絡があった。件の工場と直接取引があるわけではないけれど、大きな工場の火災となれば手広く事業を手がけるデボンも影響は避けられない。
「ボクも会社に顔出したほうがよさそうだ」
 経理部にはあまり影響はないけれど、上層部は大変なのだろう。ダイゴさんはやはり忙しい人なのだなあ、なんて思っていると、ダイゴさんは突然私をじっと見つめた。
「どうしました?」
「いや……今から会社に寄ろうと思って。送ってあげられなくてごめんね」
「いえ、まだ明るいですし大丈夫ですよ。ダイゴさんこそお疲れさまです」
「きみもね。じゃあまた」
 ダイゴさんは挨拶も手短に、颯爽とデボンの方へと走って行った。私はなんとなくダイゴさんの後ろ姿を目で追って、彼が見えなくなったところで帰路についた。



 週の明けた月曜日。今日まで有給を取っているけれど、始業時間から一時間後に上司に電話をかけた。週明けの始業時間すぐは忙しく、電話をかけるのは心証が悪い。しかしチルットの件は早めに進言しないと明日に間に合わない。土日に考え抜いてベストだろうと思ったのがこの時間だ。
 何度かのコール音のあと、男性上司が電話に出た。
「お疲れさまです。今時間よろしいですか?」
『あ、もしかしてポケモンを連れてくる件?』
 上司は私が話す前に、私の用件を言い当てる。
「そ、そうです」
『実は朝一番に上から通達があったんだよ。事前に申請があれば、ボールから出したポケモンも連れてきていいことにしましょうって』
「え……っ」
 先週まで禁止だったものが、今日になっていきなりOKになるなんて。一体どうして。私が混乱している間に、上司は言葉を続ける。
『ただしケージには入れてね。書類荒らされたりしたら大変だから』
「は、はい。それはもちろん」
『じゃあ、また明日。……って、明日から連れてくるなら今日中に申請出してもらえるかな。悪いね』
「わかりました。あとで行きます」
『じゃ、また後で』
 上司との電話を切って、真っ先に私の頭に浮かんだのはダイゴさんの顔だ。
 先週の土曜日にチルットを会社に連れていけない話をダイゴさんにして、彼はそのあとすぐにデボンへ向かった。その二日後の今日に出た上層部からのお触れ。タイミングから言ってダイゴさんが動いてくれたとしか思えない。私はすぐにダイゴさんに電話をかけた。
『もしもし』
「ダイゴさん、こんにちは。今お時間大丈夫ですか?」
『大丈夫だよ』
「あの……経理部でもポケモン出しておけるように規則変えてくれたの、ダイゴさんですよね」
 なんと切り出そうか一瞬迷ったけれど、単刀直入に聞くことにした。遠回しに聞くとはぐらかされてしまいそうな気がしたから。
『ボクがってわけじゃないよ。工場火災の件で顔出すついでにちょっと話しただけだから』
「そんな……ありがとうございます」
 やはり、私が思った通りダイゴさんが掛け合ってくれたのだ。ダイゴさんは謙遜しているけれど、私にとっては非常にありがたい。
『禁止の理由も聞いたよ。昔経理部の社員が連れてきたポケモンに決算資料を食べられてしまったらしくてね。そこから部署内全面禁止になったみたいだけど、チルットは紙を食べるポケモンじゃないし、怪我もあるからケージに入れるだろうし、懸念はないかなと思って』
「そうですね。ダイゴさん、本当にありがとうございます」
 改めてお礼を言うと、電話の向こうのダイゴさんが「ふふ」と笑い声を漏らす。
『きみがチルットを見てくれてるんだし、これぐらいはね。ねえ、これから毎週土曜にポケモンセンターに行くのかな』
「はい。仕事帰りだと遅くなりますし、土曜に行こうかなと思ってます」
 デボンは土日も営業しているけれど、経理部は土日が休みの部署だ。通院は自然と土曜か日曜の二択になる。土曜を選んだことに深い意味はないけれど、これからも土曜に通院する予定を立てている。
『ボクもときどき一緒に行っていいかな。少し気になるんだ、チルットのこと』
「でも……お忙しいんじゃ?」
『ふふ、きみの想像よりは忙しくないから安心して』
 そうは言っても私よりは忙しい身だと思うのだけれど。とはいえ、言い方からして毎週というわけではなさそうだ。私に断る理由は一つもない。
「私の方はもちろん大丈夫ですよ」
『よかった。今週も行けそうだから、この間と同じ時間でいいかな』
「はい、わかりました」
 また土曜に、と言って私たちは電話を切った。
「土曜か……」
 正直なところ、ダイゴさんとポケモンセンターに行くのは先日の一回だけだと思っていた。毎週というわけではなさそうだけれども、これからダイゴさんと頻繁に会うことになりそうで、また少しドキドキしてきた。