アクアマリン/5
「チル、チル」
カナズミジムのすぐ側の噴水広場に、チルットの可愛い鳴き声が響き渡る。
今日は土曜日。いつの間にか、チルットの通院の後に「チルットのリハビリ」という名目でダイゴさんと一緒にここに来るのが習慣になった。広場で遊ぶチルットとエネコを、私とダイゴさんはベンチで談笑しながら見守るのだ。
「チルット、元気そうだね」
「はい。最近はご飯もよく食べるんですよ」
チルットを保護して、もうすぐ三ヶ月がたつ。怪我の回復は翼以外は順調で、歩ける距離もどんどん増えてきた。今は私のエネコと一緒に地面をつついて遊んでいるようだ。
「チル!」
チルットはこちらにやってきたと思ったら、ダイゴさんの前に小さな石を置いた。
「ボクにくれるのかな。ありがとう」
「ル~!」
チルットはダイゴさんと同じく石が好きなようで、二人はすっかり「石友」というやつらしい。先週もチルットはこの広場で拾った石をダイゴさんに渡していた。こんな公園の石でいいのかな、と思いつつも、ダイゴさんは毎回笑顔で受け取ってくれている。
「可愛い石だね。まん丸できみみたいだ」
ダイゴさんのチルットへの言葉を聞いて、私は先日のデボンでの残業中の出来事を思い出す。
『トレーナーに似て可愛い子だね』
私のエネコに向かって、あのときダイゴさんは確かにそう言った。エネコのトレーナーは、この私。
あのときは驚いたけれど、ダイゴさんにとっては深い意味はなかったのだろう。今チルットに声をかけたのと、同じぐらいのもの。あまり気にしないほうがいいのだろう。
「ちゃん、ボーッとしてどうしたの?」
「あ……いや、なんでもないです」
いけない、いけない。余計なことは考えないでおこう。私はベンチに座り直して、再び広場で遊び始めるエネコとチルットに視線を戻し、カメラを構えた。
「写真?」
「はい。怪我が治ってきてる記録と、思い出に」
そう言いながら、私はエネコとチルットを写真に収める。うん、可愛い。
チルットの回復具合は順調だ。元気になった様子を写真に収めておきたいと思い、先日新しいカメラを購入したのだ。エネコと遊んでいる様子を撮っていると、あっという間に枚数がかさんでしまう。いけない、今日はこのぐらいにしておこう。
「いいのが撮れた?」
「はい」
「そうだ。忘れないうちに渡しておくね」
そう言ってダイゴさんが渡してきたのは小綺麗な紙袋だ。何だろうと首を傾げながら、袋を受け取り中身を覗いた。
「あ、いかりまんじゅうですね。ありがとうございます。ジョウトに行ってきたんですか?」
「うん、リーグの用事でね。昨日帰ってきたんだ」
「忙しいんですね」
「ふふ、そんなことないよ。出張にかこつけて採掘もしてきちゃったし」
ダイゴさんは笑顔でそう言うと、「ジョウトにはスリバチ山って言ういい採掘場所があってね」と語り出す。
相変わらず石の話をしているときのダイゴさんは少年のようだ。嬉しそうに、それこそ宝石のように目をキラキラと輝かせている。話の内容の大半はわからないけれど、楽しそうなダイゴさんの横顔を眺めるのは嫌いではない。
「スリバチ山かあ……チルットも好きそうですね」
「そうだね。でも連れて行くにはちょっと遠いか……。もう少しチルットが元気になったら、流星の滝やムロの石の洞窟あたりに連れて行きたいね」
「チル?」
名前を呼ばれていると思ったのか、チルットが小首を傾げてこちらにやってくる。ダイゴさんはそんなチルットを抱き上げて、膝の上に乗せた。
「きみはどこに行きたい?」
「ル……?」
チルットは不思議そうな声で鳴くと、空を見上げた。どこに行きたいか、考えているのだろうか。
「チル~!」
「あ、こら。まだ飛んじゃだめだよ」
どこかに行きたくなったのだろうか、チルットはダイゴさんの膝の上で羽を大きく動かす。怪我はよくなっているとは言え、飛行はまだ禁止されている。私は慌ててチルットを制止した。
「もうちょっとの我慢だからね」
「チル……」
私はダイゴさんの膝からチルットを抱き上げて、よしよしと背中を撫でる。もうちょっと、もうちょっとだからね、と声をかければ、チルットは納得したように私の腕の中で落ち着き始める。
「チルット、少し疲れちゃったかな。今日はもうお開きにしようか」
「はい」
チルットは元気になったといっても、まだ体力は戻っていないのだ。あまり長く活動させるわけにはいかない。私はチルットとエネコをそれぞれケージとボールに戻し、帰り支度を整えた。
「行こうか」
そう言ってダイゴさんは、私の家の方へと歩き出す。
先日の残業の一件以来、ダイゴさんはポケモンセンターからの帰りも家まで送ってくれるようになった。通院のあとなんて「夕方でまだ明るいから」と最初こそ遠慮したけれど、ダイゴさんに押し切られてしまった。
「そういえば、きみはデボンの寮暮らしじゃないんだね」
「私が入社したとき、独身寮はいっぱいで。どこかのタイミングで入れたかもしれないですけど、家賃補助もあるから今のマンションのままですね」
「ああ、なるほど」
「そういえば、ダイゴさんはカナズミに住んでるんですか?」
今日まで一緒に過ごしてきたけれど、ダイゴさんの家の話はしてこなかった。勝手にカナズミ周辺に住んでいると思っていたけれど、もしかしたら違う町かもしれない。
「いや、今はトクサネに住んでるよ」
「トクサネ!?」
思っていたより遠い町の名前に、思わず大きな声をあげてしまった。トクサネはカナズミからは遠く、しかも離島。違う町に住んでいると言っても、カナズミ近くのトウカか、交通の便のいいキンセツ、カイナあたりかと思っていたのだ。
「トクサネシティから毎週カナズミに来るの大変じゃないですか……?」
「空を飛ぶを使えばすぐだから。それにトクサネに家があるって言っても、ホウエンやほかの地方を飛び回ってることのほうが多いからね」
「それはそれで忙しくて大変そうですけど……」
「半分は趣味も兼ねてるから」
兼ねているのが半分ならやはり忙しいのでは。そう思ったけれど、言ったところで首を横に振られるだろうから、その言葉は飲み込んでおいた。
「ただ、来週は土日に用事ができてしまってね。ポケモンセンターに来られないんだ」
「リーグの仕事ですか?」
「いや、今度はデボンの方でね」
ダイゴさんは顎に手を当てながら、残念そうに息を吐いた。
そうか、来週はダイゴさん来られないのか。チルットを保護してから毎週会っていたので、少し寂しいような……。
……いや。いやいや。寂しいって、そんな。
「あ、着いたね。ちゃん、次は再来週だね」
「はい。今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
ダイゴさんに一礼し、私はマンションに入った。そんなに大きなマンションではないから、エントランスから階段やエレベーターまでの距離は短い。階段を上がる前、もう一度入口を見ればダイゴさんはまだ私を見送っていた。視線が合うと、彼は優しい微笑みを見せる。
胸の奥から、甘い音が聞こえた。
私はもう一度ダイゴさんに会釈をして、自分の部屋がある三階まで駆け上がった。鍵を開けて、部屋に入ってすぐにソファに座り込む。
「はあ……」
いけない、いけない。最近、ダイゴさんといると調子が狂う。
動悸がするのは、階段を一気に駆け上がったせい。そう、それだけ。いくら毎週会っているとは言え、ダイゴさんはもともと私とはまったく身分の違う人。おかしな感情は持つべきではない。
私は飛び上がるようにソファから起き上がり、壁にかけられたカレンダー前へと移動した。
「……そうだ」
来週、ダイゴさんが来られないのなら、久しぶりにあそこに行こう。浮かれた気持ちをリセットするにもちょうどいい。
次の土曜日の午後。ポケモンセンターからの帰りに、私はとある場所に寄ることにした。
カナズミシティからトウカの森に続く道の途中に、お目当ての場所がある。ポケモン保護センターカナズミ支部、通称ポケモンの家。捨てられたポケモンや、さまざまな事情でトレーナーの元から離れざるを得なかったポケモンたちの面倒を見る施設だ。
「ちゃん、いらっしゃい」
ポケモンの家の玄関から中に入れば、すぐに園長が迎えてくれた。
「こんにちは。すみません、久しぶりになっちゃって」
「来てくれるだけでありがたいのよ。やってもらいたいことたくさんあって」
「ふふ、園長も大変ですね」
チルットを保護する前は、よくここを訪れていた。ポケモンの家は常に人手不足。部屋やケージの掃除、怪我をしたポケモンの手当てなどを手伝うためだ。
「怪我したチルットを保護して忙しかったんでしょう。チルットはその子よね? もう大丈夫なの?」
「はい、今日も午前中にポケモンセンターに連れて行ってだいぶ回復してるって」
私の言葉に応えるように、私の右手に提げられたケージの中のチルットは明るい声で鳴く。元気になったと言っても目は離せないので一緒に連れてきたのだ。
「まずは掃除をお願いできる?」
「もちろん」
園長に案内されたのは保護して時間のたったポケモンのいる部屋だ。ここにいるポケモンはこの家にも慣れた穏やかなポケモンが多いはず。
私はチルットの入ったケージを部屋の隅に置いて、気合いを入れるために腕をまくった。さて、まずはここを綺麗にしなくては。
「ちゃん、今いい?」
一通り部屋の掃除を終えると、別の部屋のポケモンを見ていた園長が私のいる部屋に顔を出す。
「どうしました?」
「今日はデボンから視察が来る予定でね。そろそろ来ると思うんだけど」
「デボン?」
この施設はデボンからの支援を一部受けている。デボンから視察が来てもおかしくはないのだけれど……。
「……もしかして」
今日という日付に、デボンからの視察。そんなタイミングがいいわけがないと思いつつ、とある思いが私の頭に浮かぶ。
「あ、来たみたい」
インターホンが鳴り、園長が正面玄関へと向かう。私もそのあとを慌ててついて行った。園長が開けた扉のその先にいるのは。
「ダイゴさん!?」
私の思ったとおり、そこにいたのはダイゴさんだった。
先週ダイゴさんは「デボンの用事でポケモンセンターに来られない」と言っていた。そして今日ここに来るのがデボンからの視察となれば、この家に来るデボンの人間はダイゴさんだろうと考えるのが自然の流れだ。とはいえ、私がここに来るのと視察が重なるなんて。
「ちゃん、どうしてここに?」
「私はたまにここに手伝いに来てて……」
「お知り合い?」
「ええ、まあ……」
園長の言葉に曖昧に頷くと、園長は嬉しそうに言葉を弾ませた。
「ダイゴさんは前にも来てくれたことがあるのよ。視察って言ってもいろいろ手伝ってもらっちゃって」
「ふふ、今日もそのつもりですよ」
「助かるわあ。この間怪我したポケモンを保護したの。手当てをお願いしても?」
「もちろん」
「ちゃんもいい?」
私は園長の言葉に頷いた。ダイゴさんの登場に慌ててしまったけれど、もともと今日は一日ここを手伝うつもりで来ている。
園長に案内され、私とダイゴさんは指定されたポケモンの手当てを始める。私はスバメ、ダイゴさんはナマケロだ。
「ちゃん、ここにはよく来るの?」
園長が別部屋に移動したあと、ダイゴさんはナマケロの包帯を解きながら、私にそう問いかける。
「まあ、それなりに……。チルットから目が離せなかったので最近は来てなかったんですけど、今はチルットも落ち着いてきたので」
「エネコしか持ってないのに、ずいぶんチルットの世話が手慣れてるなと思ってたらこういうことだったんだね。エネコもあまりバトルが好きじゃないらしいのに、傷ついたポケモンの世話も慣れてるし、包帯の巻き方もきれいだし。ここに頻繁に来ていたのなら納得だよ」
ダイゴさんは流暢に話しながらも、テキパキと、しかし優しい手つきでナマケロの手当てを続けていく。傷の手当てに慣れているのはさすがはチャンピオンといったところだろうか。
「どうしてポケモンの家にボランティアに?」
「どうしてって……」
そう聞かれても、きちんとした理由があるわけではない。少し考えたのち、わたしは「たまたま?」と答えておいた。
「ふうん?」
……なんだか疑われているような気がするけれど、深く突っ込まないでおこう。そのほうがいい気がする、うん。
「ダイゴさんこそ、前にもここに来てたんですね」
私のことから話を逸らすべく、私はダイゴさんに問い返す。
「うん。デボンはホウエン各地の保護施設を支援してるから、施設がきちんと運営されてるかたまに見に来ないとね。午前はシダケの保護施設に行ってきたんだ」
「へえ……視察なのに手伝ってていいんですか?」
「ここはもともと会計もクリアにしてるし、どっちかっていうと備品や人手……支援が足りてるかの確認かな」
「それだと……」
「足りてないみたいだね」
ダイゴさんの言うとおり、ここの施設は備品も人手も足りていないのが現状だ。カナズミという大都市の近くだけあり、人間に捨てられたポケモンも多いのだけれど、人手不足のために保護はまったく追いついていないらしい。
「本当は一方的な支援じゃなくて、継続できる枠組みを作れればいいんだけどね。さすがにボクだけじゃそれは難しいか……」
ダイゴさんは眉を下げ、困ったような笑みを浮かべる。初めて見る彼の表情に、私は思わず彼に声をかけた。
「あの、ダイゴさん……」
「おやじにも相談してみるよ。あとリーグにも。こういうときはこの立場は便利だね」
ダイゴさんは言いながらナマケロの包帯を巻き終えると、ナマケロを小さく抱き上げた。
「よし、終わった。ナマケロ、頑張ったね」
「ナーマ?」
「さて、ボクは園長のところに行くよ。力仕事もあるみたいだから」
「わかりました。私はまだほかに手当てする子がいるので」
「うん。帰るときは声をかけてくれると嬉しいな。家まで送るから」
「え……っ」
私が返事をする前に、ダイゴさんは園長のもとへ行ってしまう。今日も送ってくれるのか。嬉しいけれど、少し恥ずかしいような。照れくさい気持ちを抱えながら、私は手当てを終えたスバメを撫でた。
「すっかり遅くなっちゃったね」
今日の手伝いを一段落させた私とダイゴさんは、カナズミのポケモンの家を出た。外はすでに日が暮れている。
「ちゃん、今日はお疲れ」
「ダイゴさんこそ。明日も視察なんですか?」
「明日はキンセツとミナモにね。キンセツには初めて行くからちゃんと見ないとな」
「やっぱり忙しいんですね」
ダイゴさんはたびたび「きみが思ってるより忙しくないよ」と言っているけれど、こうやって聞くとやはり忙しいようだ。隣を歩くダイゴさんを見上げると、彼はふっと笑顔を見せてくる。
「きみほどじゃないよ」
「え、私は別に……。あっ、経理部のことなら今は決算も終わって定時に帰れてますよ?」
「いや、そっちじゃなくて」
この間残業を手伝ってもらったから忙しいと勘違いされているのかと思ったら、どうやら違うらしい。ならばどうして忙しいと思われたのだろう。首を傾げていると、ダイゴさんは「園長から聞いたよ」と言葉を続ける。
「カナズミのポケモンの家にはずっと前から頻繁に通ってるみたいじゃない」
「えっ」
「最初に来たときひどく傷ついたゴニョニョがいて、どうしてもその子のことが放っておけないって言って何度も来るようになったって」
「ま、待って」
「ゴニョニョの傷が無事に治って新しいトレーナーの元へ行っても、ほかの子のことも気になるからってまた来るようになったんだって?」
「そ、そうですけど……」
「新しい子が来るたびにその連続で、あの子が気になる、この子のことが放っておけないって言って、もうずっと来てくれていてありがたいって、園長が言っていたよ」
え、え、園長のおしゃべり……! 恥ずかしいからダイゴさんには言わなかったのに!
「デボンに入社したのも、あそこがデボンの支援を受けてるからだって」
「そ、そんなことまで……」
「別に隠すことじゃないのに」
「それはそうですけど……だからって自分から言うものでもないし……」
「遠慮深いのはきみの美点の一つだけどね」
ダイゴさんにまっすぐな笑顔を向けられ、私は自分の頬が熱くなるのを感じた。視線を合わせていられなくて、口ごもりながら下を向く。
「それにデボンに入ったのは、大企業だから安定してるっていうのもあるし……」
「そっか」
俯いたままだけれど、ダイゴさんが笑顔をこちらに向けているのがわかる。おそらく、また照れ隠しだと思われているのだろう。
「でもね、ボクは本当にいいことだと思ってるよ。働きながらああやって手伝いに行くのは大変だろう?」
「まあ……大変じゃないって言ったら嘘になりますけど」
ポケモンの家に手伝いに行けばほぼ丸一日が潰れてしまう。平日仕事をして、休日を手伝いに使えば自由時間は限られる。
それでも、私はあのカナズミのポケモンの家に行く。私はポケモン勝負も得意ではなかったし、何匹もポケモンを手元で育てられるほどの器用さもない。けれど、ポケモンのことが好きだから、こういう形でポケモンに関われたらと、そう思っているから。
「きみはポケモンが好きなんだね」
ダイゴさんの優しい声が、耳に響く。温かな声に思わず顔を上げると、彼は穏やかな笑顔で私を見つめていた。
「ダイゴさんもそうでしょう? チャンピオンだし……見ていればわかりますよ」
チャンピオンになるほどの人なのだから、ポケモンのことが好きに決まっている。それに、ダイゴさんのチルットやナマケロに対する表情や手つき、そしてなによりメタグロスを見ていれば、ダイゴさんがポケモンを大切にしていることがよくわかる。
「そうだね、ボクも好きだよ。ボクはバトルが好きだからそっちばかりだけど……ポケモンとの関わり方は一つじゃないしね」
それは以前、私がダイゴさんに言った言葉だ。繰り返された言葉に頬を熱くすれば、ダイゴさんは再び笑う。
「一人だけだと限界があるけど……、ポケモンと人が、いろんな関わり方をできたらいいと、ボクも思ってるよ」
ダイゴさんは夜空を見上げる。私も同じように空を見れば、そこにはたくさんの星が輝いていた。