アクアマリン/7

 土曜日の午後の、カナズミシティの噴水広場。今日も私とダイゴさんはここでチルットのリハビリ中だ。
「チル……っ」
「そう、頑張って」
 チルットは翼をはためかせて、ふわりと地面から浮いた。しかし、それも一瞬。再び地面に足をつくと、チルットは残念そうに頭を垂れた。
「チル……」
「大丈夫、このまま頑張れば飛べるようになるからね」
 私はチルットを膝の上に乗せ、チルットの青い丸い頭を撫でた。
 チルットは先週の急な体調不良から無事回復し、翼部分の怪我も順調に治ってきている。ジョーイさんからも「そろそろ飛ぶ練習をしたほうがいい」と言われたので、今日から少しずつ飛行訓練を始めることにした。
「チル~!」
 チルットは私の膝の上に乗ったまま、空を見上げて翼を羽ばたかせる。やはり鳥ポケモン、自由に空を飛びたいのだろう。
「頑張ろうね、チルット」
「チル!」
 ダイゴさんは私の膝の上のチルットに、いつもと同じ笑顔で声をかける。
 ダイゴさんの様子は、普段と変わらない。
 前にダイゴさんと会ったのは、チルットが体調を崩したときだ。あのとき私はダイゴさんの前で泣き喚いたり、ダイゴさんに抱きしめられたり抱き上げられたり……。あのときのことを思い出すだけで羞恥で顔を覆いたくなるのだけれど、ダイゴさんは普段通りの態度を私に見せている。私も最初こそ意識してしまったけれど、ダイゴさんがいつもと変わらないので、今までと同じように過ごしている。
「チル!」
 膝の上のチルットが、再び飛び立とうと羽を動かす。残念ながらすぐにぽすんとお尻をついてしまったけれど、チルットはまだまだやる気のようだ。
 それからもしばらくの間、広場でチルットの飛行練習を見守った。最初から高く飛ぶと万が一落ちたときに危ないので、今日はあまり高く飛ばないように。焦らず、ゆっくり。少しずつ飛べるようになってほしい。
 チルットの飛行練習を、私は何枚か写真に収めた。怪我の回復具合を記録する……という名目だったけれど、今はもうただ可愛いあの子を撮りたいという思いが一番強い。
「エネ~!」
 練習を続けていると、私の隣で丸まっていたエネコがチルットになにか話しかけ始めた。励ましているのかと思ったら、エネコはチルットを広場中央の噴水に誘う仕草を見せる。どうやら遊びに誘っているようだ。いつも一緒に遊んでいるチルットが飛行練習をしていてきっと寂しかったのだろう。
「チル!」
 チルットもエネコに応えるような高い声を出す。チルットとエネコは噴水近くで追いかけっこを始めた。
「エネコってば、甘えん坊なんだから」
「ふふ、仲がいいね」
「はい。とっても」
 あの子たちは最初から仲が良く、一緒に過ごすうちにその仲はより一層深まった。今では寄り添って眠ることもあるほどだ。
「……ちゃん、ちょっといいかな」
 仲良く遊ぶ様子を微笑ましく見ていると、ダイゴさんが穏やかながらも真剣な面持ちで話しかけてくる。きっと大事な話だろう。私は緩んでいた気持ちを正して、彼の言葉の続きを待った。
「チルットのトレーナーは、まだ見つからないね」
「……はい」
「そろそろトレーナーが現れなかったときのことを考えた方がいいと思ってね」
 ダイゴさんの言う通りだ。もうチルットを保護して五ヶ月がたとうとしている。これだけ時間がたってトレーナーが名乗り出ないのだから、もう「そのとき」のことを考えねばならない。けれど。
「それはもう、考えてあります」
 私はまっすぐに、広場で遊ぶチルットを見つめる。
「きみが、チルットを引き取るんだね」
 ダイゴさんの問いに、私はゆっくりと頷いた。
 最初から、もしもトレーナーが見つからなかったら私がチルットを育てていくと決めていた。もちろん、初めは「すぐに見つかるだろう」と思っていたので決心などというほどの強さではなかった。しかし、時間がたつにつれ、その気持ちは強固なものになっていった。
「きみならそう言うと思ってたよ」
 ダイゴさんは柔和な笑みを浮かべて、言葉を続ける。
「ボクもそれがいいと思う。チルットもきみに懐いているし、エネコともうまくやってるみたいだから」
「はい。ずっとエネコだけだったから、ちょっと不安はありますけど」
「今日までずっと怪我したチルットを見てきたんだから、大丈夫」
 ダイゴさんの穏やかな声に励まされて、私の心は軽くなる。
 広場中央で、楽しそうに遊ぶチルット。可愛いその子を見つめて、私は再び心を強く決めた。
「ねえ、ちゃん」
 ダイゴさんに声をかけられ、私は視線を彼に戻す。ダイゴさんはいつもの笑顔……いや、いつもよりも楽しそうな笑顔を見せている。
「チルットを正式に引き取ったあとも、チルットに会わせてくれると嬉しいな」
「え……っ」
「だめかな?」
 意外な頼みに、私は目を丸くした。そんなことを言われるなんて、思ってもいなかったのだ。
「だめなわけないですよ。チルットもダイゴさんに懐いてますし、きっと喜びます」
「ありがとう。嬉しいよ」
 ダイゴさんは広場中央のチルットに視線を向ける。慈しむような、穏やかな瞳だ。
「チルットの怪我はほとんど治ってきてるからね。きっと週に一回の通院も近いうちになくなるよ」
「あ……」
 ダイゴさんの言うとおり、チルットの怪我の回復具合は順調だ。病み上がりと言うことで来週は通院するよう言われているけれど、そろそろ通院の頻度が少なくなったり、定期的な通院そのものがなくなっても不思議ではない。
「それ自体はいいことだけどね。でも、せっかく仲良くなれたのに、会えなくなるなんて寂しいから」
「そうですね。チルットもきっと寂しがりますよ」
「きみは寂しがってくれないの?」
 ダイゴさんは笑顔を一度解いて、今度は薄い笑みを作る。優しくて、しかしどこか妖しさを孕んだ微笑みだ。
「えっ」
「寂しがってくれない?」
 戸惑う私に、ダイゴさんは同じ問いを繰り返す。からかうような物言いに、私の頬は徐々に熱くなる。
「だ、ダイゴさん、からかってません……!?」
「そんなことないよ? 本気で聞いてる」
「本気の顔に見えないんですが!?」
 クスクスと笑うダイゴさんの表情は、やはりからかっているようにしか見えない。だ、ダイゴさん、絶対面白がっている……!
「エネー!」
「わっ!?」
 焦っていると、突然エネコが駆け寄ってきた。エネコは私とダイゴさんの間に入って、ダイゴさんに向かって大きな声で鳴き始める。
「え、エネコ、どうしたの?」
「ふふ、ご立腹だね。トレーナーがいじめられてると思ったのかな」
「エネッ!」
 ダイゴさんの言葉に、私はぽかんと口を開けてしまう。確かにエネコはしっぽを逆立てて怒った様子をダイゴさんに見せている。エネコ、私を庇おうとしてくれているのか。
「エネコ、大丈夫。いじめられてなんかないよ」
「ネ?」
「本当」
 エネコの喉をごろごろと撫でてそう言えば、エネコは納得したのか威嚇のポーズをすぐに解いた。それどころか膝の上で丸まってすっかりリラックスモードだ。いくらなんでも変わり身が早すぎない、なんて思いつつも、エネコの行動に心が温まるのを感じた。
「ごめんね、ちょっとからかいすぎたかな」
 ダイゴさんがエネコにそう言うのを聞いて、私はじいっとダイゴさんを見つめた。
「……やっぱり、からかってたんじゃないですか」
 唇を尖らせると、ダイゴさんは「半分だけね」と笑顔で答えてくる。その笑顔がなんだか憎めなくて、私はすぐに唇を緩めてしまった。
 噴水広場で過ごしたのち、日が暮れた頃に私たちは家へと帰ることにした。今日もダイゴさんは私を家まで送ってくれている。
「今度はリーグの仕事でシンオウに行くんだ。あそこは化石がよく取れてね。時間があれば採掘にも行きたいな」
 歩きながら石の話をするダイゴさんの横顔は、相変わらず少年のようだ。「いい石が取れるといいですね」と声をかけると、彼はより一層表情を輝かせた。
「ダイゴさん、今日もありがとうございました」
「どういたしまして。また来週だね」
「はい。また」
「あ、待って」
 マンションの中に入ろうとしたとき、ダイゴさんに呼び止められる。どうしたのだろうと首を小さく傾げれば、ダイゴさんは真剣な表情で口を開いた。
「伝え忘れてたことがあってね」
「なんですか?」
「さっきの続きだよ。ボクは会えなくなったら寂しいな。チルットだけじゃなく、きみにもね」
 その言葉に、一瞬時間が止まったように思考も止まる。ダイゴさんの表情は穏やかながらもまっすぐで、からかうような雰囲気ではない。私もなにか言わなくては。そう思うのに、うまく言葉が出てこない。
「私も」
 何度か唇だけを動かして、ようやく私は声を発する。
「私も、会えなくなったら、寂しいです」
 それだけ言って、ダイゴさんの反応を確認しないで私はマンションの階段を駆け上がった。
 頬が、熱い。心臓が早く動くのは、走ったせいではない。息も心も苦しくて、どうにかなってしまいそう。
「わっ!?」
 自分の部屋に入り玄関でうずくまっていると、突然鞄の中のポケナビが着信を知らせた。慌ててナビの画面を確認すると、そこに映っていたのは知らない番号だ。
「……?」
 訝しみながら電話を取ると、予想もしていなかった単語が聞こえてきた。
『もしもし、カナズミ警察署ですが』


 その週の火曜日。仕事が終わったあと、家に帰った私はポケナビを起動した。「ツワブキダイゴ」の名前を探して、震える指で彼に電話をかける。
『もしもし。ちゃん、どうしたの?』
「ダイゴさん、こんばんは。あの……今いいですか?」
『……大丈夫だけど、なにかあった?』
 私の神妙な声で、用件がただ事ではないと感じたのだろう。ダイゴさんも真剣な声で問い返す。
「……チルットのトレーナーが見つかったんです」
 先日の警察署からの電話は、チルットのトレーナーが名乗り出たという件だった。
『本当に?』
「はい……今回はたぶん、本当の」
 先日の電話はただの「見つかったかも」という連絡だったけれど、先ほどジュンサーさんから追加で連絡があった。電話で聞いた限り、そのトレーナーの話すチルットの特徴と私が保護したチルットの特徴は細かい部分まで一致している。チルットのトレーナーである可能性はかなり高い。
「それで……急なんですけど、明日の午後警察署でチルットのトレーナーと会うことになったんです。その前に詳しい話をしたいので、時間取れませんか」
『明日は急ぎの仕事はないから大丈夫だよ』
 ダイゴさんは間を入れずに返事をしてくれた。
 明日会うのが本当にチルットのトレーナーだった場合、その場ですぐに引き渡しになる。ダイゴさんも、それをわかっている。
「私のマンションの近くに喫茶店があるんですけど、そこでお話しできたら」
『わかった』
 電話を切った私は、ソファの背もたれに体を預けた。そして、隣で眠るチルットを見つめる。
「……チルット」
 安静が求められていたときは、ずっとチルットはケージの中で過ごしていた。しかし、怪我のよくなった今は、こうやってケージの外で過ごすことのほうが多い。
「チル?」
「起きちゃったかな。おはよう」
「チル~!」
 目を覚ましたチルットは、私の胸に飛び込んでくる。温かい感触に、私は目を潤ませた。
 チルットを抱きしめて、優しい温もりを確かめる。もう明日には、この温かさは感じられないのかもしれない。
「チルット、大事なお話があるの」
 私はチルットの目をまっすぐ見つめた。明日のことを話さなくちゃ。重い唇を動かして、声を出す。震えた声を、チルットはずっと聞いてくれていた。


 日付の変わった翌日。私はダイゴさんをマンション近くのカフェの中で待っている。注文したコーヒーが来た直後に、ダイゴさんはやってきた。
ちゃん! ごめん、待たせてしまって」
「いえ、私が早く着きすぎただけで……」
「チルットは……寝てるのか」
 チルットはケージの中で寝てしまっている。昨日の夜にいろんな話をしたから、きっと疲れてしまったのだろう。
 ダイゴさんはアンティーク調のイスに座ると、真剣な表情で私に問いかける。
「詳しい話を、聞かせてくれるかな」
 私はうなずいて、ぎゅっとコーヒーのカップを握った。一つ息を吐いて、ジュンサーさんから聞いたことをダイゴさんへ伝える。
「チルットのトレーナーっていうのは、カロスの親子です。私たちがチルットを保護した一週間前にカロスから旅行に来てて、そこでチルットとはぐれたみたいで。旅行の日程も延長して探したけど、どうしても見つからずに警察に届けだけ出して一度カロスに帰ったって」
「届けは出してたのに、どうしてこんなに時間が……」
「それが……旅行先はジョウトだったんです。だから届けもジョウトに出してて」
「ジョウトだって?」
 ダイゴさんが驚くのも無理はない。ホウエンとジョウトは遠く離れた場所にある。
「そうなんです。この子、ジョウトから飛んできたみたいで」
 どうしてこんなに長い間チルットのトレーナーが見つからないか不思議に思っていたけれど、届けを出した場所が違うのなら頷ける。さすがにホウエンとジョウトの警察も、ポケモンの行方不明情報を頻繁に共有しているわけではない。
「ご家族はカロスに帰ったあともジョウトには探しに来てたみたいなんですけど、さすがにホウエンのほうには来ていなくて」
「いくら鳥ポケモンでも、まさかチルットがジョウトからホウエンに行ってるとは思わないよね……」
 ダイゴさんは顎に手を当て、真剣な表情を見せる。
「……チルットのトレーナーの可能性は、高いんだよね」
「はい。チルットが行方不明になった時期も合ってますし、細かい特徴も一緒で、なにより……チルットの足に、ピンク色のリボンをつけてたって」
 私たちがチルットを見つけたとき、あの子は確かに足にピンク色のリボンをつけていた。先端が焦げてしまっていたけれど、ジュンサーさんから聞いたカロスの親子がつけたというリボンと色や材質までぴったり同じ。チルットのトレーナーである可能性は、限りなく高い。
「チルットには話したの?」
「はい。もし違った場合はがっかりさせてしまうけど、今回はたぶん……大丈夫ですし。エネコともちゃんとお別れをさせたいから」
「そっか……」
 話しているうちに、ダイゴさんの頼んだコーヒーがやってくる。時計を確認すると、警察署へ行く時間が迫っていた。
「行こう」
 ダイゴさんはコーヒーをすぐに飲み干して立ち上がる。私は重い腰を上げて、彼に続いた。

 喫茶店を出れば、強い日差しが私たちに降ってくる。憎らしいくらいの快晴に、私は顔を歪めた。
「チル……」
 ケージ中のチルットが、小さな声で鳴く。視線の先は、青い空だ。
「チルット……」
「ル……」
 思えばチルットはこうやって空を見上げることが多かった。飛びたいのかな、なんて思っていたけれど、きっと違う。
「ジョウトからホウエンに飛んできたのも、ずっと空を見てたのも、カロスに帰ろうとしてたのかも」
 どうしてずっと気づかなかったのだろう。チルットが故郷を求めていること、すぐに気づけたはずなのに。
「……行こう」
 ダイゴさんは私の肩に触れる。大きな手に背中を押され、私は再び足を前に出した。

 警察署に着くと、すぐにジュンサーさんに奥の部屋へと案内された。ここに、チルットのトレーナーがいる。震える唇を噛みながら、私は部屋へと入る。中にいるのは母親と思しき女性と、五歳ぐらいの女の子だ。
「チル!」
 入ってすぐに、チルットが大きな声で鳴き始める。そしてケージから飛び出して、女の子の方へ飛んで行った。
「チルット!」
 女の子はチルットを、両手を広げて迎える。嬉しそうに抱き合う二人を、私は見ていることしかできなかった。
 詳しい照合なんてしなくても、これだけでチルットのトレーナーがこの子だとわかる。見知らぬトレーナーとポケモンが、こんなふうに抱きしめ合うことなんてあるわけがない。
ちゃん……」
 ダイゴさんの手が、私の肩に触れる。そのまま肩を抱き寄せられ、私は彼にほんの少し体を預けた。
「詳しく照会しますね。個体情報が……」
 ジュンサーさんは女の子にチルットを抱きしめさせたまま、書類で確認を始める。次々に「合」にチェックが入れられていく様子が見えてしまう。
「あの……」
 ただ立ってその様子を見つめていると、母親と思われる女性が神妙な表情でこちらへやってきた。
「あなたがチルットの面倒を見てくださったんですよね。ジュンサーさんから聞きました」
「別にそんな、たいしたことは」
「チルット、火事に巻き込まれて大変な怪我をしていたって。こんなに長い間看病してくださって、本当にありがとうございます」
 こちらが焦ってしまうほどに深々と頭を下げられて、私は慌てて「顔上げてください」と女性の肩に触れた。
「ちゃんとお礼をしたいのですが、すみません、今回はすぐにカロスに戻らないといけなくて……」
「本当に気にしないでください。私が勝手にやったことですから」
 そう、私が勝手にやったことだ。なにかを求めていたわけではない。求めることがあるとすれば、チルットが幸せになって欲しいという思いだけ。そしてそれは、今叶ったのだ。
「はい、照合も完了しました。あなたのチルットで間違いないです」
 ジュンサーさんは女の子に笑顔を向けた。これでチルットは正式に彼女たちの元へ戻るのだ。
 手続きが終われば、警察署内に長居するわけにはいかなくなる。私たちは署の外に出て、チルットと親子を見送ることになった。
「お姉ちゃん!」
 署の外に出た女の子はチルットを抱きしめたまま、私の元へ駆け寄ってくる。私は地面に膝をついて、女の子と視線を合わせた。
「お姉ちゃん、チルットのこと助けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
「わたしね、チルットともう会えないかと思ってたの」
 女の子の目の端には、小さな涙の粒が光っている。
 紡がれた言葉が、私の胸にずんと重く響く。きっとずっと、この子は不安に押し潰される日々を過ごしてきたのだろう。たくさん涙を流してきたのだろう。
「会えてとっても嬉しい!」
 女の子の腕の中のチルットは、女の子と同じように顔を綻ばせている。チルットの笑顔はたくさん見てきたけれど、こんな安心したような優しい表情を、私は初めて見た。
「もう手を離さないようにね」
「うん!」
「ねえ、少しだけいいかな」
 ダイゴさんも私と同じように屈むと、女の子に優しい口調で声をかける。
「チルットとお別れをさせてもらってもいい? カロスは遠いからね」
「うん! はい、チルット、バイバイだって」
 女の子はあっさり了承すると、私にチルットを差し出した。
「チルット……」
 私はチルットを受け取って、そっと抱きしめる。ずっと怪我をしていたから、患部を刺激しないようにとチルットを抱きしめる機会はほとんどなかった。温かな感触に、涙がこぼれそうになる。
「……」
 今、泣いてはいけない。私は大きく息を吸って、涙を無理矢理飲み込んだ。
「チル……」
「チルット、カロスでも元気でね」
「ル……」
 チルットもお別れがわかっているのだろう。か細い声で、寂しげな声を出す。
「大丈夫、おうちに帰れるんだよ」
「チル……」
「エネコ、出ておいで」
 ボールからエネコを出せば、エネコもすぐにチルットに駆け寄った。昨日の夜もずっと一緒に遊んでいたけれど、最後の挨拶とばかりに二人は頬を擦り合わせた。
 その様子を見ていたダイゴさんが、すっとチルットの頭に手を伸ばした。大きな手で、チルットの丸い頭を優しく撫でる。
「きっと会いに行くよ。元気でね」
「チル!」
 これでお別れの挨拶も終わりだ。チルットを、女の子に帰さなくては。
 私は最後にぎゅっとチルットを抱きしめる。温かい、小さないのち。あのとき私が守らなくちゃと思ったか細いチルットはもういない。私の役目は、終わったのだ。
「バイバイ、元気でね」
 そう言ってチルットを女の子の腕の中へ帰した。ケージについた、赤い石のストラップと一緒に。
 そして、お母さんのほうは何度も頭を下げながら、女の子はチルットを抱きしめたまま大きく手を振って、空港へ続く道へ消えて行った。
「行ってしまったね」
「はい……」
 土曜に連絡を受けてからあっという間だった。お別れは思っていたより、ずっとあっさりと終わってしまった。
 空になったケージのドアが、きい、と小さく鳴る。もうここに、あの子が入ることはない。
「きみは優しいね」
「え……」
「あの女の子の前で泣いたら、あの子がチルットを連れて帰るのを躊躇ってしまうと思ったんだろう?」
 心の内を見透かされたような言葉に、私は胸を押さえた。優しいダイゴさんの声を聞くと、抑えていた感情が溢れそうになってしまう。
「それは……」
「もう泣いても大丈夫だよ」
「そんな、私はだいじょう……」
 ダイゴさんの私を包み込むような瞳。その目に見つめられて、堪えていた涙が零れた。
「う……っ」
 一度零れてしまえば、もう止められない。止めどなく流れる涙を、私は拭うこともせずに流し続けた。
 もうチルットは私の元にはいない。家に帰ってもあの子はいない。もう包帯を替える必要もない。ご飯の用意もいらない。可愛らしい丸い頭を撫でることもない。
 わかっている。あの子は家に帰れたのだ。トレーナーの元に帰れた。ずっと帰りたかった場所に、帰ることができた。そんなことはわかっている。
 それでも、寂しい気持ちが溢れて止まらない。
ちゃん」
 ダイゴさんは私の名前を呼ぶと、そっと私を抱き寄せた。
 私はダイゴさんの胸に顔を埋めて、ただただ涙を流していた。