アクアマリン/8

 チルットとお別れをしてから、一週間がたった。
「ただいまー……」
 残業を終え家に帰った私は、誰に言うわけでもなくそう言ってソファに座る。ボールからエネコを出せば、エネコはエネコでソファの上で大きなあくびをして丸まった。
 チルットがいなくなったからと言って、生活が大きく変わったわけではない。毎日仕事に行って、家事をして、眠りにつく。「普通」の日々が、流れている。
 ふと、ソファの上にあるアメタマやマリルの模様が入ったブランケットが目に入る。チルットが急病になったとき、ダイゴさんがポケモンセンターで私に掛けてくれたものだ。返そうとしたけれど、「ボクには可愛すぎるから」と言って断られてしまった。肌触りのいいそれを、私はそっと膝に掛けた。寒いわけではない。ただ、なんとなく。
 チルットがトレーナーの元へ帰ったので、私とダイゴさんが連絡をする理由もなくなった。あれからダイゴさんとは会うどころか電話もしていない。
 この数ヶ月、私の生活にはずっとチルットとダイゴさんがいた。仕事に行って、家事をして、眠る日常。そこに、彼らだけがいない。
 チルットを保護する前の生活に戻っただけ。わかっているのに、ぽかんと心に穴が開いたよう。
 気を紛らわそうと、テレビをつけて適当にチャンネルを選ぶ。何度かチャンネルを変えていると、とあるチャンネルで私の手は止まった。
「ダイゴさんだ……」
 テレビに映る、ダイゴさんの姿。
このチャンネルで放映されているのは、シンオウのリーグで行われているエキシビションマッチの様子だ。各地のチャンピオンと抽選で選ばれた挑戦者が対戦する形式らしい。画面右上に輝くのはLIVEの文字、今現在試合が行われているようだ。先日ダイゴさんが「今度リーグの仕事でシンオウに行く」と言っていたのはこの件のことなのだろう。
『挑戦者を迎えるのは、デボンコーポレーションの御曹司でホウエンリーグのチャンピオン! ツワブキダイゴ!』
 高々としたアナウンス、そして大勢の観客の声援を受けるダイゴさんは、とても遠い世界の人のよう。
 画面の向こうで、ダイゴさんは挑戦者のポケモンを倒していく。挑戦者三体、チャンピオン一体のハンディキャップマッチにも関わらず、ダイゴさんは挑戦者を圧倒している。
 遠い世界の人のよう、ではない。本当に遠い世界の人なのだ。私はただのデボンの平社員、一匹だけしかポケモンを持たないトレーナー。ダイゴさんは大企業デボンコーポレーションの御曹司、ホウエンリーグのチャンピオン。元より私には手の届かない人なのだ。チルットとあの人と一緒に過ごした時間は、短い夢のこと。
 ダイゴさんはメタグロス一体で挑戦者に勝利した。晴れやかな表情の少年と握手をするダイゴさんは、いつもより大人びて見えた。
 膝の上のブランケットに触れる。これを掛けてもらったあの日も、もう遠い日のようだ。抱きしめられたあのとき、感じた小さなときめき。甘い胸の痛みは、見ないふりをした。
 ダイゴさんと挑戦者はバトルフィールドから下がる。次のシンオウチャンピオンと別の挑戦者の試合までフィールド整備の時間となり、番組はCMに切り替わった。私はなんだか力が抜けて、ソファの背もたれに寄りかかる。
 夕飯、用意しなくちゃ。昨日作ったカレーがまだあるから温めるだけでいいのに、うまく体が動かない。動かないのは、残業で疲れているから。ただそれだけ。
「はあ……」
 ごろんと二人掛けのソファに寝転がる。五分だけ休んだら、冷蔵庫のカレーを温めよう。そう思って目を閉じたとき、鞄の中のポケナビがコール音を鳴らして着信を知らせた。
 こんな時間に誰だろう。ポケナビの液晶に表示された名前を確認して、私は目を丸くした。
「ダイゴさん!?」
 液晶には間違いなく「ツワブキダイゴ」の文字が表示されている。ダイゴさんはシンオウにいるはず。慌ててテレビを見るけれど、まだコマーシャルのままだ。戸惑いながら、私は電話を取った。
「もしもし……?」
『やあ。ちゃん、今いいかな』
「私は大丈夫ですけど……ダイゴさん、シンオウにいるんじゃ? テレビでやってましたよ」
『見ててくれたんだ、ありがとう。今日のボクの試合は終わったからね。メタグロスをジョーイさんに預けたところだよ。時間ができたから、きみに電話したんだ』
「は、はい」
 わざわざ電話なんて、なんの用事だろう。私は緊張しながらダイゴさんの言葉を待った。
『ねえ、お土産はなにがいい?』
「えっ」
『お土産。シンオウはヨウカンが有名だけど民芸品もあるからね。ちゃんの好みがあれば聞いておきたいと思って』
 お土産。想像もしていなかった単語に、私は口をぽかんと開けてしまう。
 お土産? ダイゴさんが私に? 混乱する頭を、どうにか整えていく。
 ええと、お土産を買ってきてくれるということは、近いうちに会おうということ。もう会えないと思っていたダイゴさんと、また会えるということ。
ちゃん、聞こえてる?』
「あっ、すみません。聞こえてます。でもお土産って言っても……」
 ダイゴさんがシンオウに行くと聞いたときも、お土産を買ってきてもらおうなんて微塵も考えていなかった。突然「なにがいい?」なんて言われても、なかなか頭が働かない。
『じゃあボクの趣味で選んじゃおうかな。楽しみにしてて』
「は、はい。ありがとうございます」
『金曜にはホウエンに戻るから、土曜日に会えないかな』
「土曜……」
ちゃんの予定はどう?』
 土曜日はずっとチルットの通院があったからいつも予定を開けていた。もちろん今週の土曜日も予定は入れていない。
「私は予定ないので……」
『じゃあ決まりだ。ミナモを歩かない? 午前はリーグに顔を出さないといけないから……二時はどうかな』
「は、はい。大丈夫です」
『うん、楽しみにしているよ。あ、次の試合が始まるみたいだ。見に行かないと。ちゃん、またね』
 そう言ってダイゴさんは電話を切った。きっとスタジアムに戻ったのだろう。
 一方の私はポケナビを持ったまま、ソファに倒れ込むように寝転がった。
 またダイゴさんと会うことになるなんて思っていなかった。戸惑いと小さな胸の高鳴りを感じながら、私はポケナビを握りしめた。

 そして迎えた土曜日。ミナモシティに着いた私は、ダイゴさんとの待ち合わせ場所であるポケモンセンター前へ向かう。
「あ……」
 ポケモンセンターの前にはすでにダイゴさんがいる。彼も私を見つけたようで、笑顔で手を振ってくれている。
「ダイゴさん、すみません。待ちました?」
「いや、今来たところだよ」
 笑顔のダイゴさんを見て、ふと心が温かくなる。もう会う機会なんてないと思っていたから。
 それと同時に、チルットのことを思い出して胸の奥に痛みも感じてしまう。ダイゴさんと会うときは、チルットがいつも一緒だった。今まであった右手のケージの重みは、今はもうない。
ちゃん、コンテストに興味はある?」
 俯いていると、ダイゴさんの励ますような朗らかな声が降ってくる。
「ポケモンコンテストですか? 子供のころに出たことありますけど……」
「じゃあ行こう。今日のコンテストはエネコがたくさん出るんだって」
「エネコが?」
 エネコという言葉に、沈んでいた私の心はほのかに弾む。自分のエネコではなくとも、エネコがコンテストに出る様子を見られるのは純粋に楽しみだ。
「うん。会場はこっちだよ」
 ダイゴさんは私の背に手を添えて、コンテスト会場へと歩き出す。まるでエスコートをするような仕草に、私は少し気恥ずかしいような、嬉しいような、くすぐったい感情に包まれる。
 コンテスト会場はポケモンセンターからすぐ近くだ。豪華なつくりのコンテスト会場を見て、私は感嘆の息を漏らした。
「大きな会場ですね……」
「ミナモの会場は初めて?」
「はい、シダケの会場しか行ったことなくて。ダイゴさんはコンテストよく見るんですか?」
「昔はよく見たんだ。友人が出ていたからね。あ、こっちだよ」
 ダイゴさんは会場内の、かわいさコンテストが行われる場所へと案内してくれる。私たちはステージがよく見える真ん中の席へ座って、開演を待つことになった。
「ここならよく見えそうですね」
「うん、いい席が空いててよかった」
 ダイゴさんはにこりと私に明るい笑顔を向ける。きゅ、と私の心臓が小さく跳ねる音がした。
 よく考えると、用もないのに待ち合わせをして、コンテストを見にくるなんて、まるでデートのようだ。意識し始めると心臓の鼓動が急に早く打ち始める。
「エネコ、出ておいで」
 心臓の音を誤魔化すために、私はボールからエネコを出した。私の膝の上に乗ったエネコは、ダイゴさんを見つけて上機嫌な声で鳴く。
「エネコ、こんにちは」
「ネ!」
「今日はエネコがたくさん出るんだよ。楽しみだね」
「あ……そういえば、たくさん出るってどういうことなんですか?」
 コンテストに出るポケモンは事前に公開されていないし、なにより四匹だけが出るはずのコンテストに、エネコが「たくさん」というのも不自然だ。疑問をぶつけると、ダイゴさんは足を組む。
「コンテスト本番前の前座でエネコたちがショーをするんだって。ミクリ……さっき話した友人が教えてくれてね」
「あ、なるほど」
「ショーをするエネコはマスターランクの子たちなんだって」
「へえ……マスターランクのエネコってすごく可愛いんでしょうね」
 コンテストにおけるマスターランクは最上位クラスだ。昔私のエネコが出たノーマルランクからすると手の届かないクラスと言っていい。そのマスターランクに出るエネコは、かなり手入れのされた可愛い子なのだろう。
「ボクはきみのエネコが一番可愛いと思うよ」
 満面の笑みとともに放たれたダイゴさんの言葉に、嬉しく思うと同時に気恥ずかしくなる。以前、エネコに向かってダイゴさんは「トレーナーに似て可愛い子だね」と言っていたから。
「あ、ありがとうございます」
 いや、いや、デボンで言われたあれは、きっとお世辞やおべっかの類だろう。私は髪を耳にかけるふりをして、火照った頬を手で冷ました。
「あ、始まるみたいだ」
 座席の明かりが消され、ステージだけに照明が当たる。広い舞台の上に出てきたのは五匹のエネコだ。
「わ、可愛い……」
 エネコたちが揃ってステップを踏む姿を見て、思わず声が漏れてしまう。短い足で器用に踊るエネコたちは、きらきら光って見えるぐらいに可愛らしい。
「エネ!」
「エネコも踊りたい?」
 ステージの上のポケモンを見て興奮したのだろう。私の膝の上でちょこんと座っていたエネコも見様見真似で足を動かし始める。
「真似してるんだ。可愛いね」
 ダイゴさんは私のエネコを見つめると、ふっと私に顔を近づける。
「ここだけの話、やっぱりきみのエネコが一番可愛いよ」 
 小さな声で囁かれた言葉に、私の胸は大きく弾んだ。
「私もそう思います」
 誰にも聞こえないように、私も小声でそう返した。親バカだろうけれど、私のエネコが一番可愛い。たとえお世辞でも、ダイゴさんもそう言ってくれてとても嬉しい。

 マスターランクの審査も終わり、熱気に包まれた会場を出る。しかし、私の心は興奮したままだ。
「マスターランクってすごいですね! ポケモンの見た目だけじゃなく、わざも考えられてて」
 出演者は単にかわいさがアピールできるわざだけではなく、次に出すわざとの組み合わせや、会場内のボルテージまで計算に入れてわざを繰り出していた。私が昔出たノーマルランクとはまるで違うハイレベルな戦いに、私はただただ息を呑んだ。
「コンテストもバトルと一緒で奥深いよね。ボクもコンテストはからきしだからなあ」
「そうなんですね。でもダイゴさんとメタグロスならコンテストもいいところまで行きそうですよ」
「ふふ、ありがとう。一度くらい出てみたいけど、今は時間が取れそうにないな」
 そんな話をしながら、会場出口へ歩き出す。メタグロスが出るならかっこよさ? たくましさ? 会話に花を咲かせていると、一人の少年がこちらへ駆け寄ってきた。
「あ、あの、チャンピオンのダイゴさんですよね?」
 少年は興奮した様子でダイゴさんを見上げた。きっとポケモントレーナーなのだろう。腰のベルトにはモンスターボールが四つ光っている。
「そうだよ」
「やっぱり! この間のエキシビションマッチ見ました! オレもいつかチャンピオンになります!」
 男の子は拳を握り興奮した様子だ。ダイゴさんはくすりと自信ありげな笑みを浮かべると、少年をまっすぐに見つめた。
「頑張って。きみの挑戦を待っているよ」
 ダイゴさんの言葉を聞いて、少年は嬉しそうに頬を赤らめた。そして深々と頭を下げて、コンテスト会場の奥へと走っていく。
「エキシビションマッチ、見た人多いんでしょうね」
 こうやって知らない人から話しかけられると実感するけれど、ダイゴさんは本当に有名人だ。昨日テレビで見た人が、私の目の前にいるというのは少々不思議な感覚だ。昨日は遠い人のように感じたはずのダイゴさんが、今はこんなに身近に感じる。
「きみも見てくれてたんだよね」
 私たちは出口に向かって歩きながら、先日シンオウで行われたエキシビションマッチの話をし始める。
「はい。ダイゴさん、勝ってましたよね。おめでとうございます。ああいうのって挑戦者に花を持たせるのかと思ってましたけど……」
 ダイゴさんだけでなく、ダイゴさんの次に出てきたシンオウの女性チャンピオンも挑戦者を完封していた。挑戦者は抽選で選ばれた子供だし、チャンピオン側は手を抜くのかと思っていたけれど、そういうわけではないようだ。
「基本的には本気でやるよ。挑戦者側だって手加減は望んでいないだろうから」
「そっか。わざわざ応募して挑戦したがってる人たちですもんね」
「あんまり差がありすぎるときは別だけどね。ポケモンが大怪我したら危ないから。さて。ちゃん、次はデパートに行かない?」
 コンテスト会場から出たところで、ダイゴさんは小首を傾げて私に誘いかける。
「いいですね。私も買いたいものがあるので」
「へえ。なにか聞いてもいい?」
「エネコのクッションです。よく遊ぶから今のはもうボロボロで」
「いいね。じゃあ、行こうか」

 デパートに着いた私たちは、まっすぐにグッズ売場である五階へ上がった。エレベーターのドアが開けば、カラフルなグッズが目に入る。
「エネコ、出ておいで。どれにしようか」
 エネコをボールから出して、クッション売場の前へ連れていく。前に使っていたクッションはピンク色の丸いものだったけれど、今回はどれがいいのだろう。エネコは見本のクッションをじいっと見つめたり、前足で繰り返し踏んでみたりと真剣に吟味しているようだ。
「ふふ。エネコ、真剣だね。邪魔しない方がいいかな」
「はい、そうですね」
 ダイゴさんと一緒に、クッションの感触を一つ一つ確かめるエネコを見守った。最終的にエネコはまん丸の水色のクッションが気に入ったようで、前足で何度かそれを指してみせる。
「じゃあそれにしようね。レジは……」
 エネコを抱き上げてお会計へ行こうとすると、ふとぬいぐるみ売場が目についた。ソーナノやエネコのぬいぐるみが飾られた棚の中で、私の目を引いたのはチルットドールだ。
「かわいい……」
 不意に口から言葉が零れる。先日トレーナーの元に帰したあの子にそっくりな、まあるいチルットドールだ。可愛い可愛いあの子を思い出して、私の胸に小さな痛みが走る。
 思わず手を伸ばして、チルットドールに触れた。ふわふわの感触まであの子にそっくりだ。
 欲しい、な。そんな感情が頭をよぎるけれど、首を小さく横に振る。ぬいぐるみなんて、私の柄ではない。
「あっ」
 手を引っ込めようとすると、隣のダイゴさんがひょいとチルットドールを手に取った。
「ねえ、ボクが買ってもいい?」
「え……」
「きみにプレゼントするよ。どう?」
 甘い問いかけに、私はダイゴさんの顔と目の前のチルットドールを交互に見つめる。可愛い可愛いあの子にそっくりな、丸い頭のチルットのぬいぐるみ。とても欲しいけれど、でもそんな、ぬいぐるみを贈られるような年でもない。
「ああ、聞き方が悪かったかな。きみのエネコに贈るよ」
 返事を淀ませていると、ダイゴさんはにっこりと笑顔を作って私の腕の中のエネコに視線を向ける。エネコはいつの間にかじいっとチルットドールを見つめて、らんらんと目を輝かせている。
「ほら、エネコは欲しいみたいだよ」
「ネ!」
 エネコは大きく首を縦に振り、短い前足をチルットドールへと伸ばす。エネコは相当にこのチルットのぬいぐるみが欲しいようだ。でも、ならば余計にダイゴさんに買ってもらうわけにはいかない。
「あの、それなら私がお金出しますから」
「ダメ」
「えっ」
 エネコが欲しいものなら私が買わなければ。そう思ったけれど、ダイゴさんはチルットドールを高々と掲げてしまう。私が手を伸ばしても届かない。
「だ、ダイゴさん!?」
「買ってくるね」
「ま、待って!」
 ダイゴさんはすたすたとレジへ向かうと、私が財布を出している間に颯爽とカードで支払いを済ませてしまう。結局私はエネコが選んだ水色のクッションのお金だけ支払うこととなった。
「ダイゴさんってこういうとき本当に強引ですよね……」
「ふふ、そうかな」
 会計を済ませ屋上に移動した私たちは、ミナモデパートの屋上のベンチに腰かける。小さく唇を尖らせる私の隣で、ダイゴさんは私の拗ねた様子など気にもせず、いつものような笑顔を浮かべている。
「はい、どうぞ」
 ダイゴさんは贈答用のリボンで装飾されたチルットドールを私に差し出す。私は可愛いそれを、両手でしっかりと受け取った。
「ありがとうございます」
 ふわふわの、まあるい頭のチルットドール。可愛いあの子にそっくりな、可愛いぬいぐるみ。エネコも嬉しそうに、チルットドールに鼻を寄せている。
「可愛い……」
 この子は本当にあの子に似ている。丸い頭も、顔のつくりもそっくりだ。じっと見つめていると、視界が涙で歪み始める。
「はい」
 涙で滲む視界に、グレーのハンカチが飛び込んでくる。ダイゴさんがハンカチを差し出してくれたのだ。
「だ、大丈夫ですから」
 私は慌ててハンカチを持ったダイゴさんの手を押し戻す。大丈夫、すぐに涙は引っ込むはずだ。
「こういうことを言うのは、よくないかもしれないけど」
 ダイゴさんはハンカチをぎゅっと私の手に無理矢理握らせ、言葉を続ける。
「きみの大丈夫は、大丈夫じゃないよ」
 ダイゴさんは右手の人差し指で、私の目元を拭った。
 ずっとダイゴさんの前で「大丈夫」と言ってきた。残業が続いたときもそう、チルットとお別れしたときもそう。そして、今も。それが私の強がりだと、ダイゴさんはずっと気づいていたのだ。
「……っ」
 はらりと、涙が一筋頬を伝う。私は躊躇いながらも、ダイゴさんのハンカチを使って涙を拭った。
「……チルットと、さよならしたくなかった?」
 ダイゴさんからの問いに、答えを迷う。少しの間考えて、私は口を開いた。
「一緒にいたかった、けど、トレーナーの元へ戻れたらいいとも思ってました」
 それが私の本心だ。ずっとチルットと一緒にいたかった。これからの時間すべてをチルットと過ごしていたかった。それでも、チルットが元のトレーナーのところへ戻れたら嬉しいとも思っていた。どちらも私の心からの思い。
「……きみは優しいね」
「ダイゴさんだって、いつも優しいですよ」
「あれ、強引だって言ってなかった?」
「ふふ、そうでしたね」
 ダイゴさんの冗談に乗ってみたけれど、ダイゴさんはいつだって優しい。強引なところもあるけれど、それも優しさから来ていることがわかるから、私の心はいつもくすぐられてしまうのだ。
 どうしてダイゴさんは、いつもこんなに私に優しくしてくれるのだろう。彼が優しい人だから? ただそれだけなのか、それとも。小さな疑問は見ない振りをして、私はチルットドールを撫でた。



 それからも私はダイゴさんとミナモの町を歩いた。海辺を散歩して海のポケモンを眺めたり、おしゃれなカフェでお茶をしたり。そうして過ごしていればあっという間に日が沈む時間になり、ダイゴさんの提案で私たちは灯台へ登ることになった。
「ミナモの灯台って登れるんですね」
「意外と知られてないよね。ミナモの海がよく見えるんだ。そろそろ展望エリアだよ」
 灯台の長い階段をようやく登り切り、展望エリアに出た。その瞬間、広がる景色に私は感嘆の息を漏らした。
「わあ……」
 灯台から見えるミナモの海。夕陽が放つオレンジ色が海の青と混じり合って、幻想的な光景を作っている。私もホウエン生まれのホウエン育ち、ホウエンの海が綺麗なことは知っていたけれど、今まで見てきたどの海より美しい景色に、思わず息を呑む。
「すごい、こんな綺麗な景色が見られるんですね」
 隣に佇むダイゴさんに興奮気味に語りかけると、ダイゴさんがじっとこちらを見つめているのに気がついた。その顔には笑顔が浮かべられているけれど、いつもの笑顔とはほんの少し違う。優しさの中に、かすかに色気のようなものが見える。
「うん、とっても綺麗だ」
 私をまっすぐに見つめたまま、ダイゴさんはそう言った。今の「綺麗」は、海のことなのか、それとも。今私の頬が熱いのは、きっと夕陽のせいではない。
「ダイゴさ……」
「うおー! 海でっけぇー!」
 ダイゴさんの名前を呼ぼうとした瞬間、突然後ろから男の子の声が聞こえてくる。慌てて後ろを振り向けば、親子連れが展望台へ上がってきたところのようだった。
「穴場だと思ってたんだけどな、結構人が来ているね」
「そ、そうですね」
 ダイゴさんは手すりに肘をつくと、苦笑気味に目尻を下げた。私はどうしたらいいかわからずに、指を絡めてふうと息を吐いた。
「これはちょっと計算外だな」
 計算って、なんの計算なのだろう。聞いてはいけない気がして、私は別の話題を振ることにした。
「あの、ダイゴさん。渡したいものがあって」
 荷物になってしまうからと思ってずっと渡せないでいたけれど、日が暮れ始めた今ならいいだろうと、ダイゴさんに紙袋を一つ差し出した。
「ミアレガレットなんですけど、チルットのトレーナーの親御さんからお礼に送られてきたんです」
 チルットを迎えに来ていた母親のほうが、カロスの空港に着いてすぐにカナズミの警察署に送ってくれたらしい。昨日カナズミ警察署から連絡があり、仕事帰りに受け取ったのだ。
「ボクももらっていいの?」
「もちろん。ダイゴさんも一緒にチルットを保護したんですから。それに結構量があって、私とエネコじゃ食べきれないので」
「そっか。じゃあ遠慮なく。ありがとう。ミアレのお菓子はおいしいよね」
 ダイゴさんは紙袋を覗くと、嬉しそうに笑みを見せる。
「よければこれから定期的にチルットの写真を送りたいから、連絡先を教えてくれないかって手紙も入ってたんです。昨日のうちにメールしておいたので、チルットの写真が送られて来たらダイゴさんにも見せますね」
「写真か。それならちょうどいいね」
 ダイゴさんはそう言うと、自分の鞄を開けて一つの包みを取り出した。白い紙で包装されたそれは、ちょうど両手ぐらいの大きさだ。
「はい、シンオウのお土産」
「あ……ありがとうございます」
 そうだ、今日はもともと「シンオウのお土産を渡すよ」というダイゴさんの誘いで会うことになったのだ。開けていいですかと聞けば、ダイゴさんはすぐに頷いてくれた。
「あ……写真立て?」
 そこに入っていたのは一枚の写真が入るフォトフレームだ。透明なガラスの土台に、真鍮のフレームが重ねられたそれはシンプルだけれどとても美しい。
「前にチルットの写真を撮っていたから、それを飾れたらと思ったんだ」
「あ……」
「でも送られてきた写真を飾るのもいいかもね」
 最初にお土産と聞いたときは、それこそヨウカンかなにかを買ってきてくれるのかなと思っていた。私のことを考えてくれた贈り物に、私の心はどうしようもなく疼く。
「ダイゴさん、ありがとうございます」
 もらった写真立てを、ぎゅっと握った。冷たいはずのガラスがとても温かく感じる。
「どの写真入れるか迷っちゃいますね」
「定期的に変えるのもいいかもね」
「ふふ、確かに」
 向こうで子供たちのはしゃぐ声が聞こえる中で、私とダイゴさんはくすくすと笑い合う。日が沈むまで、私たちはずっとそこで言葉を交わした。

 カナズミに帰ってきたのは、すっかり夜も更けた頃だった。
「ダイゴさん、今日はありがとうございました」
 いつものようにマンションの前まで送ってくれたダイゴさんに、私は小さく頭を下げる。
「チルットとお別れして落ち込んでる私を、励まそうとしてくれたんですよね」
 エネコが出るコンテスト、チルットドールの贈り物、そして海という開けた綺麗な景色。ダイゴさんが私を元気づけようとしてくれたのは明白だ。
「ふふ、そうだね。でも、それだけでもないよ」
「え……」
「おやすみ、ちゃん。今度はディナーでもご一緒できたら嬉しいな」
 笑顔のダイゴさんに促され、私はマンションの中へ入っていく。
 どうしてダイゴさんは、こんなに私に優しくしてくれるのだろう。ただ優しい人だから? それとも。
 小さな期待が、胸の高鳴りとなって私の胸に大きく響き始めていた。