アクアマリン/9
日曜日の昼下がり。今日、私はカナズミ近くにあるポケモンの家へ手伝いに来ている。部屋の掃除をして、怪我をしたポケモンたちの手当てをして……。いつもの作業も一段落したため、今は休憩室でお茶を淹れている。
「あ、シンオウのお菓子だ」
休憩室の電気ポットの横に、「ご自由に」とのメモと一緒にシンオウ名物のヨウカンが置いてある。そういえば先日ダイゴさんとミナモで会ったとき、「今度ポケモンの家にも顔を出すよ」と言っていた。もしかしたらダイゴさんのお土産なのかな、と思いながらヨウカンの包みを開けた。
「あれ……」
ヨウカンを頂いていると、机に置いたポケナビが着信を知らせた。発信者はダイゴさんだ。私は慌ててヨウカンを飲み込んで電話に出る。
「もしもし」
『ちゃん、こんにちは。今いいかな』
「はい、大丈夫です」
明るい気持ちで出た私とは正反対に、ダイゴさんの声はいつもより低く真剣な様子だ。私は姿勢を正して彼の言葉を待った。
『さっき警察からリーグに連絡があったんだけど、最近カナズミ周辺でポケモン泥棒が出没してるらしくてね。ちゃんも気をつけてほしいと思って電話したんだ』
ポケモン泥棒。嫌な言葉に、わたしは顔をしかめる。
「泥棒ですか……怖いですね」
『うん、珍しいポケモンが主に狙われているみたいだ。エネコは野生ではあまり見かけないけど、手持ちポケモンとしてはメジャーだからね。ポケモン泥棒が狙うかは微妙なところかなと思ったけど……ちゃんも気をつけて』
「はい。連絡ありがとうございます。警察からリーグにこういう連絡行くんですね」
『今回の窃盗犯は組織だって強いポケモンを連れているみたいなんだ。サイユウのリーグや各地のジムに警察から協力要請があったんだよ』
なるほど、強いポケモンを持っている相手なら警察からリーグに連絡が行った理由に合点がいく。そして、同時に背筋が寒くなる。ポケモン泥棒というだけで怖いのに、強いポケモンを引き連れているとなればさらに恐怖は増す。
『ツツジちゃん……カナズミのジムリーダーやジムトレーナーも見回りをしてくれるって言ってるけど、カナズミは広いからね』
「そうですね……」
『ボクもこの件でジムのないシダケやハジツゲを見回りすることになってるんだ。デボンの仕事もあるし、しばらくゆっくり会う時間が取れそうになくてね』
「あ……」
先日ミナモで会った最後に、「今度一緒に夕飯でも」と言われていた。それを思い出して、私の心臓は小さく跳ねる。
「そんな、仕事ですし、なによりポケモン泥棒なんて許せませんから。ダイゴさんも気をつけて……って、チャンピオンに言うのもなんですけど」
『ふふ、ありがとう。ちゃん、なにかあったらすぐに連絡してね。どこにいても飛んでいくから』
「は、はい」
『またね』
電話を切って、ぬるくなってしまったお茶を一口飲んだ。
ダイゴさんの「どこにいても飛んでいく」の言葉に胸を震わせるとともに、ポケモン泥棒というワードに心をざわめかせる。
思い出すのは、チルットとチルットのトレーナーのことだ。離ればなれになったあの二人は、とてもつらい思いをしただろう。無理にポケモンとトレーナーを引き離すなんて許せない。早く捕まりますように。そう願いながらエネコの入ったモンスターボールを撫でた。
ダイゴさんからポケモン泥棒について連絡があった日から、三日がたった。残業になってしまった私は、急ぎ足で自分のマンションへと向かっている。
ポケモン泥棒の件はデボン社内でも噂になり始めていた。経理部にはまだ被害者はいないけれど、ほかの部署ではポケモンを盗まれかけた人もいるらしい。その人いわく、やはり泥棒は強いポケモンを連れていたとのこと。そんな話が社内を巡り、普段ボールからポケモンを出して連れ歩いていた人も、最近はボールに戻して過ごすようになった。かく言う私も家の外でエネコをボールから出すのは避けている。
「あれ……」
マンションまでの道を歩いていると、途中でふととある親子が目についた。父親と息子と思われる親子は、きょろきょろと辺りを見渡し、なにかを探している様子だ。五歳ぐらいの男の子は泣きそうな顔で「ルル、ルル」と震えた声で呼びかけを続けている。
もしかしたら、ポケモンを探しているのかもしれない。お節介かもしれないと思いつつも、ポケモン泥棒の件も頭によぎった私は、親子に声をかけることにした。
「あの、ポケモンをお探しですか?」
「あ、はい……」
父親と思しき男性に話しかけると、すぐに肯定の返事が返ってきた。
「青いラルトスなんです。買い物の帰りに連れて歩いていたんですけど、ほんの少し目を離した隙にいなくなってしまって……」
男性の言葉に、嫌な予感が走る。ラルトスは珍しいポケモンだ。そのうえ色違いとなればポケモン泥棒が狙ってもおかしくない。
「あの……最近この周辺でポケモン泥棒が出没してるってご存知ですか」
私は男の子に聞こえないよう、小さな声で男性に話しかける。
「珍しいポケモンが狙われているらしくて……あまり考えたくないですけど、警察に届けを出したほうがいいかもしれません」
男性は顔を真っ青にすると、男の子の手をぎゅっと握る。
「わかりました。今から警察に行ってみます」
「はい。私の思い過ごしだといいんですけど……」
「お父さん。ルル、どこか行っちゃったの?」
男の子は目に涙を溜ながら、お父さんを見上げた。私は屈んで男の子と視線を合わせる。
「私も探してみるからね」
「ほんとう?」
「うん。ルルが帰ってくるまで、いい子で待っててね」
男の子は大きく頷くと、父親に手を引かれカナズミ警察署の方へと消えていった。
あの子のラルトスは、さらわれてしまったのだろうか。ただはぐれただけで、すぐに見つかるといいのだけれど。
「……」
どうしても気になってしまい、私は少しだけ寄り道をすることにした。いつもまっすぐに行く道を左に曲がって、一一五番道路方面へ。木の多い道路の端の方をしばらく探してみるけれど、ラルトスの気配はない。
「帰ろうかな……」
捜索技術のない私がこれ以上探したところで、ラルトスが見つかる可能性は低いだろう。明日会社で同僚にラルトスを探している親子がいることを話して情報を求めるほうが建設的だ。
ふうと息を吐いてマンションへ向かおうとしたそのとき、ふと小さな鳴き声が聞こえてきた。
(ル……ル……)
か細く助けを求めるような声は耳に聞こえるというより、頭の中に直接響いてくる。おそらくエスパーポケモンのものだろう。
「……まさか」
もしかしたら、あの親子のラルトスの声かもしれない。私は居ても立ってもいられずに、踵を返して声の聞こえてくる一一五番道路の奥へ走った。
「やっぱり聞こえる……」
道路の奥へ進めば、声はより大きくなっていく。チルットを保護したあのときを思い出して、私の胸はざわつき始めた。声の主があの子のラルトスであってもなくても、この近くでポケモンが苦しんでいるのは明白だ。
声を頼りに道路を進んでいくと、道路沿いの海辺に明かりが見えた。こんな夜に海に人が? 嫌な予感がして物陰に隠れて様子をうかがうと、その予感は的中する。
明かりのそばにいるのは五、六人の大人の男女、そしてその近くにはケージに入れられた青いラルトスが見える。ケージはラルトスに対してあまりに小さく、ラルトスは全く身動きが取れていない。ケージではなく檻と形容したほうが正しいとすら思える。
ただでさえ珍しいラルトスの、色違い。ほぼ確実にあのラルトスは先ほどの親子のラルトスだ。もし彼らが迷ったラルトスを保護したのなら、あんな檻のようなケージに入れるはずがない。
もしかして、彼らが件のポケモン泥棒なのかもしれない。私は息を殺しながら、そっと彼らの会話に耳をそばだてた。
「色違いのラルトスが手に入るなんて、今日はラッキーだね」
「ああ。カナズミは珍しいポケモンを連れ歩いてる奴が多くて助かるな。いちいち野生で探すより、盗んで売る方が手間も金もかからねえ」
彼らの会話に、私は背筋を凍らせた。やはり彼らはポケモン泥棒なのだ。まさか泥棒と鉢合わせてしまうなんて。思ってもいなかった出来事に、恐怖で体が震え出す。
「……っ」
どうしよう。どうすればいい? 混乱する頭の中に、ふと浮かんだのはダイゴさんの言葉だ。
『なにかあったらすぐに連絡してね』
そうだ。電話だ。ダイゴさんに電話をしなきゃ。ああでもだめだ。ここで電話をしたら彼らに気づかれてしまう。
私は心を落ち着かせるために、一つ、二つ息を吐いた。まだ震えは止まらないけれど、少しだけ頭の中はクリアになった。
私は足音を立てないように、彼らから少しずつ距離を取る。声は届かないけれどラルトスはしっかり視認できる場所まで離れ、鞄からポケナビを取り出してダイゴさんに電話をかけた。
『もしもし。ちゃん、どうしたの?』
「ダイゴさん、あの、ポケモン泥棒を見つけたかもしれなくて。青いラルトスを檻に入れてる人たちを見つけたんです」
自分でも驚くような早口でまくし立ててしまったけれど、ダイゴさんは冷静な口調で私に言葉を返す。
『ちゃん、落ち着いて。その泥棒とは距離は離れてる?』
「は、はい。こっちから見える距離ですけど、声は聞こえないと思います。私も向こうの声は聞こえないので」
『じゃあそのまま小声で電話を続けて。場所はどこ?』
「一一五番道路の……流星の滝の近くの海辺です」
『わかった。ボクも今からそっちに向かう。きみは見つからずにそこから離れられそう?』
「ん……、たぶん……」
『難しそうなら隠れていて。警察に電話をするから、一度電話を切るよ。いいかい? 絶対に無理はしないで』
「はい、わかりました」
電話を切った私は、木陰に隠れたまま泥棒と思しき集団の様子をうかがった。
ダイゴさんが冷静に話してくれたので、私も少し頭が冷えた。はっきりした頭で、今の状況を考える。
泥棒との距離は取れている。少しずつ離れればおそらく見つかることはないだろう。ラルトスを残して離れるのは心苦しいけれど、相手は強いポケモンを持っているという話だ。私一人でラルトスを助けることはできない。今はダイゴさんと警察が来るのを待って、彼らを案内することが私にできる最善の行動だ。
私はそっと、足音を立てないようにカナズミの方向へ歩き出す。一歩、二歩、三歩、歩みを進めたところで、足にこつんとなにかが当たる。
「ラルトス!?」
足下を確かめると、そこには青いラルトスがいる。どうしてここにラルトスが。慌てて海辺を確認すれば、ケージの中のラルトスはいなくなっており、泥棒と思われる集団が慌てている様子が見える。この子は間違いなく、先ほどまで捕まっていたラルトスだ。
そうか、ラルトスはテレポートが使えるポケモンだ。テレポートを使ってここに逃げてきたのかもしれない。
「る……」
ラルトスは小さな手でぎゅっと私の足を掴んでくる。助けを求めるような仕草に、私は躊躇わずラルトスを抱き上げ走り出した。
まだラルトスがここにいることに、彼らは気づいていない。このまま走って人の多いカナズミの大通りまで逃げられれば……!
ラルトスを抱きしめたまま、私は全速力で一一五番道路を駆け抜ける。早く、早くカナズミシティへ。人の多いところへ出られれば、もし彼らに見つかっても助けを呼べる。だから、一秒でも早くカナズミへ。
しかし、私の甘い考えはあっさり砕け散る。
「見つけたぞ!」
「……っ」
カナズミシティまでもう少しのところで、集団の一人に見つかってしまった。
「行け、バクーダ!」
男はボールを投げ、私たちの進行方向にバクーダを出した。だめだ、もう逃げられない!
「ラルトス、もう一回テレポートできる!?」
「ル……」
一か八かラルトスのテレポートで逃げられればと思ったけれど、腕の中のラルトスは恐怖のためか大きく震えている。怪我をしているわけではないようだけれど、この状態ではわざを繰り出すどころでない。ダメだ、私のエネコで応戦するしかない!
「エネコ、出てきて!」
「エネ!」
ボールから出たエネコは、しっぽを逆立ててすぐに臨戦態勢になる。エネコも今が非常事態なことがすぐにわかったようだ。
「おいおい、ずいぶん可愛いポケモンだなあ」
「……っ」
男は余裕の笑みを浮かべながら、バクーダの隣へ立つ。
どうしよう。どうすればいい? 真っ向勝負ではエネコに勝ち目はない。それなら搦め手を使うしかない。
「エネコ、うたう!」
うたうの成功率は決して高くはない。それでもほとんどダメージを与えられない攻撃を繰り出すより、幾分か逃げられる確率は上がるだろう。
エネコは私の指示を受けてすぐ、バクーダより先にわざを仕掛けた。
「バーク……」
「あっ、おい!」
「やった!」
一か八かの賭けだったけれど、うたうは無事に成功した。バクーダは眠り状態になってしまい、わざを出すことはできなくなった。
この隙に逃げよう。再び足を前に出そうとしたけれど、その足は後ろに戻さざるを得なくなった。
「手持ちポケモンが一匹なんて誰が言った?」
「……っ」
男がもう一匹のポケモンを繰り出してくる。私たちの進路を完全に塞ぐのは、ノーマルタイプのバクオング。明らかに先ほどのバクーダよりレベルが高い上に、バクオングの特性は「ぼうおん」、エネコのうたうは効果がない。エネコが真っ向から戦って勝てる相手じゃない!
「バクオング、さわぐ!」
「エネコ!」
バクオングの攻撃をまともに食らってしまい、エネコは地面に倒れ込む。エネコをボールに戻さなきゃ。腰のボールに右手をかけた、そのとき。
「痛……っ!」
男が私の右腕を掴んでくる。強い力で握られ、爪が食い込んで手首に強い痛みが走った。
「痛い目に遭いたくなきゃそのポケモンを渡せ!」
耳をつんざくような男の声に、私の背中に恐怖が走る。
エネコはもう戦えない。ラルトスも戦えるような状態ではない。私一人ではもうこの状況から脱せない。でも。
「る……」
左腕の中のラルトスが、不安そうな表情でぎゅっと私の服を掴む。脳裏に浮かぶのは、あのチルットのトレーナーの女の子のことだ。「もう会えないかと思ってた」と泣いたあの子の表情。もう誰にもあんな思いさせたくない。
「離さない……」
「あ?」
「絶対離さない!」
敵わないのはわかっている。それでも私は絶対にこの子を離さない。こんなやつに、この子を渡さない。絶対に渡したくない。
「この女……っ!」
「……っ」
男が私の腕を掴んでいるほうとは反対側の手を振り上げる。咄嗟に身構えた瞬間、視界の端からピンク色のものが弾丸のように私の横を駆け抜ける。
「ネーッ!」
「ぐぁっ!?」
「エネコ!?」
ピンク色の正体は私のエネコだった。エネコは男の腹にものすごい勢いでたいあたりで突撃する。あまりの衝撃に男は怯み、私はその隙に掴まれた腕を振り払う。
「ネ……」
「エネコ!」
エネコは攻撃後の着地に失敗すると、そのまま地面に崩れ落ちた。もうエネコは限界だ。私はすぐにエネコをモンスターボールへ戻す。
「……っつ! このやろう……っ」
エネコの攻撃がみぞおちに入ったのだろう。男はまだまともに立ててはいない。この隙に少しでも遠くに逃げないと。
「あっ!?」
私はラルトスを抱えたまま足を前に出す。しかし、足はもう限界だったのかすぐに石につまずいてしまった。立ち上がろうとしたけれど、目の前に再びバクオングが現れる。
「もう逃げられねえぞ」
男は腹をおさえながらも、ゆっくりと私に近づいてくる。
だめだ。今度こそ逃げ場がない。
「バクオング、もう一度さわぐだ!」
男の指示に、バクオングは大きく口を開ける。
やられる。私はぎゅっと目をつぶってラルトスを抱きしめた。せめて、この子だけでも守りたい。
「……っ」
しかし、いつまでたっても攻撃はやってこない。どういうことだろう。おそるおそる目を開けると、そこに見えたのはバクオングではない。
そこにいたのは、青黒い無機質な鋼の肌の、四つの足の大きなポケモンだ。
「メタグロス……」
私の目の前に、バクオングを威嚇するようにメタグロスが立っている。そして、その傍らに佇むのは。
「ダイゴさん……」
チルットを見つけたあのときと、まったく同じ。夜の暗闇に映える青みの入ったダイゴさんの銀色の髪。そしてなにより、私を見つめる温かな瞳。
「ちゃん、遅くなってごめんね」
ダイゴさんは私に笑顔を向けると、すぐに男へ向き直す。
「ボクと戦う気かい?」
聞いたことのないダイゴさんの冷たい声に、私は身を震わせた。背を向けているため私からは表情が見えないけれど、それでも彼の怒りが手に取るようにわかる。
「……っ、バクオング! おい!」
「よく鍛えられているけれど、その分物分かりもいいね。敵わないことがわかっているみたいだ」
「グ……」
「いい子だね」
ダイゴさんはそっとバクオングを撫でる。バクオングは力の差を理解したのだろう、メタグロスと戦う意志はないようだ。
「ほかの仲間は警察が捕まえたよ。大人しくしてたほうが痛い思いをしないで済むと思うけど、まだ戦う気かな」
「……っ! クソッ!」
男は降参の意だろう、バクオングをボールに戻すと両手を上げた。ダイゴさんは自身のユレイドルをボールから出し、男の腕を縛るよう指示を出す。
これでもう、大丈夫。男は捕まって、危険はなくなったのだ。
「そうだ、ラルトス!」
咄嗟に腕の中のラルトスを確認する。まだ戸惑った様子ではあるけれど、先ほどのように脅えて震えているわけではない。ざっと見る限り怪我もなさそうだ。
「ちゃん、怪我はない?」
ラルトスの背中を撫でていると、ダイゴさんの声が聞こえてくる。男の拘束を終えたのだろう。
ダイゴさんの声は先ほどの冷たい声ではない。いつものあの、優しくて温かい声。ぱっと顔を上げれば、地面に片膝をついたダイゴさんと目が合った。
「はい、だいじょう……」
私は大丈夫、そう言おうとしたのに、言えなかった。
「あ……」
唇が震えて、うまく言葉が発せない。唇だけではない。手もがくがくと大きく震え出す。心臓もバクバクと不安定な鼓動を打っている。
大丈夫、じゃない。そう、大丈夫ではなかった。怖い。怖かった。とてもとても、怖かった。
「ダイゴさん……っ」
張りつめていた糸が切れたのか、私の目からはらはらと涙が零れる。恐怖の涙なのか、安心した涙なのか、自分でもわからない。
「ちゃん、怖かったね。もう大丈夫だよ」
ダイゴさんはそう言って、私をそっと抱き寄せた。
「ダイゴさん……」
「ボクが来たから、大丈夫。怖いことはなにもないよ」
慈しむようなダイゴさんの声色に、私は彼に身を預けた。
ダイゴさんの腕の中は温かい。ダイゴさんに抱きしめられていると、震えはだんだんと収まって、次第に心が凪いでいく。涙が再び溢れるけれど、もう恐怖の涙ではない。
ダイゴさんの胸に顔を寄せて、私は目を閉じた。ドクン、ドクンと心臓の鼓動が聞こえてくる。大きな鼓動だけれど、安定したリズムのそれは私とダイゴさんのどちらのものかわからない。わからないけれど、子守歌のように私の心を落ち着かせる。
ダイゴさんの腕の中は、いつも穏やかな空気が流れている。魔法がかかったかのような、甘くて優しい不思議な場所。
体の震えは、いつの間にかなくなっていた。
「ちゃん、ジュンサーさんが来たよ」
ダイゴさんに声をかけられ、私は顔を上げる。向こうから数人のジュンサーさんがこちらへ走ってくるのが見えて、再びほっと息を吐いた。
「ラルトス、もう大丈夫だよ」
「る……?」
腕の中のラルトスに声をかければ、ラルトスはおそるおそると言った様子で辺りを見渡した。
「ラルトスも怪我はないみたいだね」
「はい。さっきまではすごく脅えてたけど……もう大丈夫そう」
ラルトスは人の感情を読み取るポケモンだ。私の安心感がラルトスにも伝わったのだろう。
ジュンサーさんを迎えるために、私はダイゴさんから体を離そうとする。しかし、ダイゴさんは左腕はほどいたけれど、右腕は私を離さない。私の肩を抱く格好だ。
「あの、ダイゴさん」
ダイゴさんの顔を見上げるけれど、ダイゴさんは首を横に振るだけだ。肩を抱かれたままジュンサーさんを迎えることになり、私は少し頬を赤らめた。
「警察です。あなたが窃盗団を見つけた方ですね。お怪我はありませんか?」
ジュンサーさんは優しい声で私に言葉を掛けてくれる。穏やかな雰囲気に、私は安心して彼女の言葉に答えた。
「私に怪我はないです。この子も見る限り怪我はなさそうですけど、ジョーイさんに見てもらえますか」
「さわられたラルトスですね」
「はい。たぶん捜索願が出てると思います。カナズミに色違いのラルトスを探してる家族がいたので」
ジュンサーさんは私からラルトスを受け取ると、「調べてみます」と力強く頷いた。
「お話を聞かせてほしいので、このあとあなたも署に来ていただけますか?」
「もちろん。でも、その前にポケモンセンターに行きたいです。私のエネコが怪我をしてしまって……」
「署にポケモンセンターも併設されています。署に着いたらまずエネコを治療してもらいましょうか」
「はい、お願いします」
「警察署まではパトカーに乗ってください。すぐ着きますから」
気づけばすぐにそこに複数台のパトカーが止まっている。いつの間にここに来ていたのだろう。
「ちゃん、立てるかい?」
ダイゴさんは私の肩を抱いていた手をほどくと、自身のスーツの上着を私にかけた。そしてそっと私の体を支えて、立ち上がるのを手伝ってくれる。
「ありがとうございます」
肩を抱かれるのも、体を支えられるのも、恥ずかしい気持ちはあるけれど、それでも彼に触れられている安心感が、なによりも強い。
警察署に着いてすぐ、私たちは併設のポケモンセンターでエネコを預けた。
「えね……」
受付の簡易ベッドに横たわるエネコは、苦しそうに肩で息をしている。かなり弱っている様子だ。
「ごめんね、エネコ」
「ネ……」
そっとエネコを撫でれば、いつもより体温が高いことに気づく。熱まで出ているようだ。
「無理させてごめんね」
エネコは続けて何度かバトルをすると熱を出す体質だ。普段は連続で戦わないよう気をつけているのだけれど、今日はエネコに無理をさせてしまった。弱ったエネコを見ると、申し訳ない気持ちが溢れてくる。
「エネコ、きみは大事なトレーナーを守りたかったんだね」
ダイゴさんは優しい瞳で、エネコに声をかける。
私ははっとエネコとダイゴさんを交互に見やる。そうだ、今私がエネコに言うべきは「ごめんね」ではない。
「エネコ、ありがとう」
私を守ってくれてありがとう。あのときエネコが男にたいあたりをしてくれたから、私は無事でいられた。
ありがとう。私はもう一度エネコにお礼を言って、ピンク色のまあるい頭を撫でた。
「エネ!」
エネコは嬉しそうな、元気な声で答えてくれた。
ほどなくして、奥からジョーイさんがやってくる。エネコの診断が下ったのだろう。
「エネコちゃん、怪我はしていますが重傷ではありません。ただ、熱も出ていますし、一晩入院して様子を見させてもらってもいいですか」
「もちろん。お願いします」
むしろジョーイさんにしっかりと見てもらえるのなら、その方が安心だ。私はエネコの前足を握って、再びエネコに声をかけた。
「エネコ、明日迎えに来るからね」
「ネ!」
エネコの入院の手続きをしたあとは、警察の事情聴取だ。初めての聴取は緊張したけれど、ダイゴさんがずっとそばにいてくれたので幾分か安心して受けることができた。
事情聴取が終わって警察署を出たのは、日付が変わる直前だった。
「ダイゴさん、今日は本当にありがとうございました」
いつものようにダイゴさんに家に送ってもらう道すがら、私はダイゴさんに今日のお礼を言った。
「すみません、無理しないでって言われてたのに」
「自分から無茶したわけじゃないだろう? 事情聴取のときに言ってたじゃないか。ラルトスがきみのところに助けを求めにテレポートしてきたんだから、あれがきみの最善の行動だったんだよ」
ダイゴさんの言葉に、私はほっと息を吐いた。あのときは考える余裕もなかったけれど、ダイゴさんにそう言ってもらえて心が軽くなる。
「あ……着きましたね」
そんな話をしていれば、あっという間に私の家に着いてしまった。もうダイゴさんとお別れかと思うと、物寂しい感情が湧いてくる。
「ちゃん、今夜は一人だよね。戸締まりはしっかりとね。気をつけて」
「え? あ……そっか」
そうだ、エネコは入院しているから、今日は完全に一人なのか。あの部屋に、一人。あんなことがあったあとに、一人で夜を、明かすのか。
「……っ」
あ、まずい。自覚したら急に恐怖が襲ってきた。一晩、たった一人きり。今までだってエネコがいない夜はあったけれど、今日はわけが違う。
どうしよう。友達に連絡しようにも、みんな私の家からは少し離れた場所に住んでいるし、平日のこんな夜遅くに電話をするのは気が引ける。ほかに、頼れる人は。
「あ……っ」
気づけば私の右手はダイゴさんの服の袖を掴んでいた。完全に無意識の行動に、私は慌てて手を離した。
「す、すみません。気にしないでください」
まずい。引き留めるような行動をしてしまった。これでは行かないでと言っているようなものだ。私は慌てて両手を体の前で振って「大丈夫」とアピールするけれど、その手もかすかに震えている。
「……ちゃん、不安だよね」
私は手を引っ込めて震えているのを隠そうとしたけれど、ダイゴさんに隠し通せるわけもない。どうすればいいかわからずに、私は下を向いた。
少しの間、沈黙が走る。「大丈夫」と言いたい。けれど、言えない。だって、「大丈夫」ではないから。
「今日、ボクが泊まっていこうか」
「えっ!?」
沈黙を破ったダイゴさんの言葉に、私は大声を上げてしまう。
泊まる!? え!? ダイゴさんが? 私の家に!?
「い、いやでもそんな」
確かに一人で夜を過ごすのは怖い。だからと言って、恋人でもない異性を部屋に上げて夜を過ごすのは、それはその、なんというか。それこそまずいというか。
「大丈夫、なにもしないよ。怖がっている女性になにかするような悪い男じゃないから」
「それは……わかってます……」
今までダイゴさんと過ごしてきて、ダイゴさんが優しい人であることは十分にわかっている。本当に私を心配して申し出てくれていることも、わかっている。
「それに、なによりきみを傷つけたくないから」
降ってきた言葉に、私の胸は強く震えた。
傷つけたくない。ダイゴさんの言葉が、頭の中でリフレインする。心が締めつけられて、甘い痛みが走る。ダイゴさんの優しい声が、ぎゅっと私の心を強く掴んで離さない。
「……ダイゴさん」
唇が震える。心が震える。
こんなことを頼むのは、本当はよくないとわかっている。それでも、私の唇は自然と言葉を紡ぎ始める。
「頼っても、いいですか」
頭ではよくないとわかっていても、ダイゴさんに掴まれた心が勝手に言葉を発してしまう。
この人に、頼りたい。この人に甘えたい。心が強く訴えている。
「もちろん。お邪魔するね」