アクアマリン/10
深夜零時過ぎ。マンションの三階にある私の部屋に、ダイゴさんを迎え入れる。まさか、こんなことになるなんて。
「お邪魔します」
「ど、どうぞ」
私の部屋は1Kだ。玄関を入ってすぐの左手はお風呂や洗面台、右手にはキッチンがある。そこを抜ければ小さなリビングルームだ。リビングの扉を開けながら、私は内心『昨日片づけをしておいて本当によかった』と思った。
「あの、小さな部屋ですが」
「ううん、綺麗な部屋だよ。そうだな、ボクはソファで寝かせてもらってもいい?」
ダイゴさんは二人掛けのソファを見て、小首を傾げる。恋人でない男女が同じ部屋で寝るならベッドとソファにそれぞれ寝るのが当然の選択だろう。
「は、はい。すみません、ソファなんかで……」
「洞窟で寝袋で寝ることもあるからね。あまり気にしないで。あ……」
鞄をいつもの場所に置いていると、ダイゴさんはなにかに気づいたような声を出す。
「なにかありましたか?」
「ごめん、じろじろ見ちゃって。写真立て、使ってくれてるんだね」
ダイゴさんが見つめているのは、ベッドサイドテーブルに置かれた写真立てだ。先日ダイゴさんがシンオウのお土産としてくれたもの。
「はい。この間チルットの写真が送られてきたので、印刷して入れたんです」
「チルット、可愛いね。使ってくれてありがとう」
「そんな、こちらこそありがとうございます」
「これは流星の滝で見つけた石かな」
ダイゴさんが指すのは写真の中のチルットが首に下げている石だろう。ダイゴさんの言うとおり、あのとき見つけた、私とチルットのお揃いの石だ。
「はい。チルット、カロスでもあの石を大切にしてくれてるみたいで」
「ちゃん、よかったね」
ダイゴさんに優しい笑顔を向けられて、緊張していた心がほぐれる音がした。ああ、これなら大丈夫そう。いつものように過ごせそうだ。
「そうだ。ちゃん、お風呂入ってきたら?」
しかし、ほぐれた心はまたすぐにこわばった。
「えっ」
いや、確かにこれから寝るのだからお風呂は入らないといけないのだけれど。ダイゴさんに言われると、なんというか、その。
「あの……ダイゴさん先どうぞ。お客様ですし……」
さすがに住人の私がダイゴさんより先にお風呂に入るわけにはいかない。ダイゴさんに先に入るよう促すけれど、ダイゴさんは首を横に振った。
「ボクはいいよ。旅もしてるから慣れてるしね。洗面台だけあとで貸してもらえるかな」
「え、でも……」
「ボクは大丈夫だから。ほら、行っておいで」
ダイゴさんは遠慮の言葉を口にすると、私に笑顔を向ける。にっこりという擬音が聞こえてきそうな、あの笑顔。この笑顔を浮かべたときのダイゴさんは決して自分の意見を譲らないと、私はもうわかっている。
「じゃあ……入ってきますね。あ、冷蔵庫にお茶とかミルクとかあるので、よければ飲んでください。コップやケトルも使って大丈夫ですから」
「うん、ありがとう」
ダイゴさんの返事を確認して、私はそそくさとお風呂場へ入る。脱衣所で服を脱ぎ、浴室へ。もう遅い時間だし、今日はシャワーだけで済まそう。
最初はダイゴさんをお風呂へ入るよう促したけれど、バスルームを異性に貸すのは躊躇する部分はある。早く私にお風呂に入るよう促してくれたのも、きっと今日あったことを洗い流せるようにとの心遣いだろう。今日はずっと、ダイゴさんに気を遣ってもらってばかりだ。
……いや、今日だけではない。出会ってから、いつもそう。ダイゴさんは、いつだって優しかった。
どうしてダイゴさんは、こんなに私に優しくしてくれるのだろう。わざわざ家に泊まってまでなんて、それは。
「……やめよう」
これはきっと、こんな特殊な状況下の今考えることではない。頭を横に振って考えを振り払い、シャワーのレバーを上げた。
「痛……っ」
シャワーが右手首に当たった瞬間、ツンと刺すような痛みが走った。慌てて手首を確認すれば、赤い小さな傷がぽつぽつとついている。窃盗犯に手首を掴まれたときに、爪が食い込んでできた傷だ。
「……っ」
あのときのことを思い出してしまい、背筋が凍る。掴まれた感触が、腕にまだ残っている。
熱いシャワーを頭から浴びて、痛みを誤魔化した。こんなのたいした怪我じゃない、すぐに治るはず。大丈夫、大丈夫。言い聞かせて、私はシャワーを流し続ける。
お風呂を終えてバスルームを出ると、ダイゴさんがキッチンで作業をしていた。
「お疲れさま。キッチン、借りてるよ」
「はい。あ、ココアですか?」
「うん。ちゃんの分もあるよ」
「わ、ありがとうございます」
「勝手に淹れてごめんね。座って待っててくれる?」
「そんな。嬉しいですよ」
ダイゴさんはココアを淹れ終えると、二つのカップをソファの前のローテーブルへ持ってきてくれる。しかし、私に一つを渡した瞬間、にこやかだったダイゴさんの顔が突如曇った。
「……ダイゴさん?」
「ごめんね。ちゃん、右手を出してくれるかな」
「はい」
突然の表情の変化に戸惑いつつも、私は指示通りダイゴさんのほうへ右手を出す。すると、ダイゴさんはソファの隣に置いた自分の鞄から包帯を取り出した。
「怪我してたんだね。気づかなくてごめん」
ダイゴさんは私の右手首の爪痕部分に、そっと包帯を巻き始める。
「だ、ダイゴさん。そんな、たいした怪我じゃないから大丈夫です」
「いいから」
ダイゴさんは私の言葉をぴしゃりと遮る。
私の手首に視線を落とすダイゴさんの目は、どこか悲しげだ。怪我をした私よりダイゴさんの方がつらそうで、私はなにも言えなくってしまう。
「……はい、終わり。これはおまけだよ」
ダイゴさんは包帯を三回巻いたところで、包帯の上に一枚のシールを貼った。よくよく見れば、そのシールはエネコの頭の形をしている。
「これ、エネコですか?」
「そう。デボンでモンスターボールにデコレーションするシールの企画が進んでるんだ。その試作品をもらったから」
「あ、そういえば聞いたことあるような……」
デボンの新商品でシールの企画があると耳に挟んだことがある。これがその試作品なのか。
じっと自分の右手首を見つけた。爪の跡が包帯で見えなくなり、可愛いエネコのシールが光っている。もう手首を見ても、怖くない。それどころか温かな気持ちに包まれる。
「ダイゴさん、ありがとうございます」
顔を上げると、ダイゴさんが優しい瞳で私を見つめていることに気がついた。目と目が合って、私の心臓は大きく跳ねる。穏やかだけれどまっすぐで力強い瞳に、目を逸らそうと思っても、逸らせない。
……違う。逸らしたく、ない。このまま、ダイゴさんの瞳を見つめていたい。ダイゴさんの瞳に、見つめられていたい。
どれぐらいの時間、そのまま見つめ合っていただろう。先に口を開いたのはダイゴさんだった。
「……ココア、冷めちゃうね」
ダイゴさんは私から目をココアに移すと、カップを手に取った。
「そう、ですね」
私も慌ててココアを口にする。少しだけ温度は下がってしまっているけれど、優しい甘さのココアは心に沁み渡っていく。
「そろそろ寝ないといけないね。洗面台だけ借りるよ」
無言のままココアを飲み終えたダイゴさんは、ソファから立ち上がる。
「はい。あっ、歯ブラシとかあります?」
「旅してる身だからね、一通りはいつも持ってるんだ。気遣いありがとう」
そう言って洗面台へ向かうダイゴさんの背中を見送って、私は空になったカップをシンクへ持って行った。
なにをするにも、右手の手首は視界に入る。目に映るのが赤い爪痕ではなく可愛いエネコのシールであることが、こんなにも安心感を呼ぶなんて。穏やかな気持ちのまま、私は二つのカップを洗った。
私はダイゴさんと入れ替わりに洗面所へ入り、眠る準備を整える。リビングへ戻れば、ダイゴさんがソファのクッションを眠りやすいように動かしていた。
「ダイゴさん、これ掛けてください」
「ありがとう」
掛け布団をダイゴさんに渡せば、もうあとは電気を消して眠るだけだ。
本当は客人であるダイゴさんにソファで寝てもらうのは心苦しい。背の高い彼はソファでは狭くて寝苦しいだろう。ただ、ダイゴさんに「私がソファで寝ます」と言ったところで、固持されるのは目に見えている。
「……電気、消しますね」
「うん。おやすみ、ちゃん」
枕元に置いたリモコンで、部屋の照明を消した。家電の小さな明かりだけが部屋の中に光っている。
横向きになり、ぎゅ、と布団を握る。今日はたくさんのことがありすぎた。早く眠りたいのに、様々な感情が頭を巡ってしまって眠れそうにない。
「……ダイゴさん、起きてます?」
小さな声で問いかける。話を聞いてほしい気持ちが半分、眠っていてほしい気持ちが半分だった。
「起きてるよ」
ダイゴさんはすぐに答えてくれた。物音がしないので、おそらくソファで横になったままだ。
「……迷惑かけてごめんなさい」
今日はたくさん、本当にたくさんダイゴさんに迷惑をかけてしまった。ポケモン泥棒から助けてもらって、警察の事情聴取もずっと隣にいてくれた。そのうえ、一人の夜が怖いからって甘えてしまった。ずっとずっと、私はダイゴさんに頼ってばかりいる。
「迷惑じゃないし、きみが謝ることはなにもないよ」
「でも……」
「きみはなにも悪くないよ。きみは泥棒からポケモンを助けたんだから。謝るようなことは、きみはなに一つしていないよ」
ダイゴさんの言葉が、胸に沁みていく。枕がじわりと涙で濡れた。
「……ありがとうございます」
嗚咽をこらえて、やっとの思いで言葉を紡いだ。声は震えていたから、私が泣いていることに、きっとダイゴさんも気づいただろう。
「ボクはね、きみがボクを頼ってくれて嬉しかったんだよ」
深夜の静かな部屋に、ダイゴさんの甘い声が響く。
家族や恋人以外の男性と同じ部屋で一夜を過ごすなんて、普通なら恐怖を感じたっておかしくない。しかし、今私の心はとても落ち着いている。トクン、トクンと心臓がゆっくりと鼓動を打って、穏やかな感情に包まれる。
ダイゴさんの傍は、安心する。一緒にいると、心が溶けていく。優しさの海に、包まれていく。
「……ダイゴさん」
どうしてこんなに優しくしてくれるんですか。そう聞きたかったけれど、やめた。今この状況で、聞いてはいけない気がした。
「……おやすみなさい」
だから私は、それだけ言って布団をかぶり直した。今ならきっと、眠れるだろう。
「おやすみ」
ダイゴさんの甘い声は、私を深い眠りへと誘ってくれる。私の意識は、夜に沈んでいった。
次の日の朝。目を覚ましたのは七時前だった。昨晩は遅かったからまだ眠っていたいところだけれど、早めにエネコを迎えに行きたい。重い体を無理矢理起こして、ベッドから出る。
ベッドに座ったまま、ソファに視線を向ける。はみ出たダイゴさんの足が見えたから、彼がまだ眠っていることがわかった。
私はダイゴさんを起こさないよう、そっと静かに洗面台へ向かった。
朝の準備を整えて洗面所からリビングへ戻れば、ダイゴさんはソファに腰かけていた。
「おはよう、ちゃん」
「おはようございます」
「洗面台、借りるね」
ダイゴさんはいつもの笑みを見せると、寝起きとは思えないほど爽やかな表情でリビングを出た。
もしかしたらダイゴさんは私より早くに起きていたのかもしれない。寝起きの姿を見られるのは恥ずかしいだろうと、気を遣ってくれたのだ。
それなら私は朝ご飯の用意をしていよう。朝ご飯なら目玉焼きとトーストが無難だろうか。フライパンや卵を出して準備していると、朝の支度を終えたダイゴさんが洗面所から顔を出した。
「ダイゴさん、朝ご飯は目玉焼きとトーストでいいですか?」
「もちろん。ありがとう。ボクも手伝おうか?」
「キッチン狭いですし、大丈夫ですよ。ソファで待っててください」
「うん、わかった」
目玉焼きとトーストならたいして手間もかからない。私は作り終えた朝食を持って、ダイゴさんの待つリビングへ戻った。
「ちゃん、ありがとう。いただきます」
「いえいえ。いただきます」
小さなローテーブルの向かいに座るダイゴさんが、トーストを一口かじる。さく、と音と爽やかな音が部屋に響いた。
「おいしいね、ありがとう」
「あ、いえ……」
ダイゴさんはコーヒーを一口飲むと、今度は目玉焼きに口に運ぶ。半分ほど目玉焼きを食べれば、再びトーストをかじった。
自分の朝食に口をつけずにダイゴさんの食事風景を見つめていると、視線に気づいたのか、ダイゴさんは小首を傾げて私に微笑みかけてくる。
「す、すみません。一緒に朝ご飯なんて、変な感じで」
そう、不思議な感じだ。ふわふわと浮いたような不安定さと、温かい風に乗っているかのような心地よさ。不思議な感覚に包まれて、なかなか食事が進まない。
「わかるよ。朝ご飯を一緒に食べるなんて、なかなかない機会だから」
「で、ですよね。不思議な感じで」
とはいえ、食事をしないわけにはいかない。私もトーストをかじって、跳ねる心臓を抑えながら朝食を食べ始める。
「朝ご飯を終えたらエネコを迎えに行くのかな」
ダイゴさんは食事を進めながら、おもむろに食事後の話題を口にする。
「はい、そのつもりです」
「ボクも一緒に行くよ。エネコの顔、見たいからね」
「本当ですか? エネコも喜びますよ」
エネコはもうすっかりダイゴさんに懐いている。退院のときにダイゴさんの顔を見たら、エネコもきっと安心するだろう。
食事を終えた私たちは、マンションを出てカナズミ警察署へ向かった。併設のポケモンセンターに入れば、ジョーイさんがすぐにエネコを連れてきてくれた。
「エネ~!」
エネコは私の姿を見つけるやいなや、大きくジャンプをして私の胸に飛び込んでくる。よかった、もう体調はまったく問題ないようだ。
「エネコ、がんばったね。今日はおうちに帰れるよ」
「エネ! エネ!」
エネコはご機嫌な様子を隠さない。ダイゴさんにも笑いかけて、甘えた声で鳴いている。
「もうすっかり元気みたいだね」
「ネ~!」
「ふふ、よかった」
本当にエネコは元気そうだ。明るい様子に私はほっと胸を撫で下ろす。
「エネコ、昨日は本当にありがとう」
「ネ!」
エネコがいなかったら、きっと私は大怪我をしていただろう。改めて感謝の気持ちを伝えると、私の腕の中でエネコは胸を張る仕草を見せた。
エネコの退院の手続きを済ませ、警察署を出たのは午前十時を過ぎていた。
「昨日のラルトス、トレーナーの元に帰れたみたいだね」
ダイゴさんの言葉の通り、ポケモンセンターから出たときに会ったジュンサーさんが、昨日の色違いのラルトスが無事トレーナーと会えたことを教えてくれた。やはりカナズミでラルトスを探していた親子があのラルトスのトレーナーだったらしい。
「はい。よかったです」
ラルトスとトレーナーが離ればなれにならずに済んで本当によかった。昨日は泣きそうだったあの男の子も、今は安心しているだろうか。
「そういえばもう十時だけど、今日は休みを取ったの?」
「いえ、さっき会社に電話して事情を話して午後から出勤するって言っておきました。休もうかとも思ったんですけど、仕事してた方が気が紛れそうだから」
「そっか。無茶はしないでね」
「はい」
「じゃあ一度家に帰るのかな。家まで送るよ」
ダイゴさんの言葉に、心臓が小さく跳ねる。
まだ午前中で、日は高い。明るいこの時間に送ってもらう必要なんてないのはわかっている。だけれど。
「ありがとうございます」
私はダイゴさんの素直に申し出を受け入れた。あともう少し、一緒にいたいから。安心する彼の隣に、もう少しだけいたい。
警察署から私のマンションまでの間は、穏やかな時間が流れていた。二人でなんでもない話をしながら、ゆっくりと道を歩いていく。甘くて、幸せな時間。
マンションの前に着いて、私はいつものように送ってくれたお礼をダイゴさんに伝えた。
「どういたしまして」
「本当に、昨日からたくさんお世話になってしまって」
「たいしたことはしていないよ」
ダイゴさんは軽くそう言うけれど、昨日のダイゴさんは「たいしたこと」をしてくれた。何度お礼を言ったって足りないだろう。
「ちゃん、自覚はないかもしれないけど、きっとすごく疲れているだろうから、あまり無茶はしちゃダメだよ」
「はい」
「なにかあったら連絡……」
ダイゴさんはいつものにこやかな表情でそう言い掛けたと思ったら、真剣な表情で口元に手を当てた。何かを考える仕草を見て、私は首を傾げる。
「なにもなくても、いつでも連絡してね。待っているよ」
ダイゴさんは笑顔を私に向ける。ただ優しいだけではない、甘さを孕んだ胸をくすぐる表情だ。
「は、はい。ありがとうございます」
私はもう一度お礼を言って、マンションの階段を上った。途中でマンションの入り口を確認すれば、ダイゴさんはまだ私を見送ってくれていた。
甘い表情が、私の心をくすぐった。
ダイゴさん、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか。甘い期待が、心の中でどんどんと膨らんでいく。
「ツワブキダイゴ」は、遠い世界の人だと思っていた。多少関わりがあったところで、私とは住む世界の違う人なのだと。でも、もうそんな考えで気持ちに蓋をすることはできない。
ダイゴさんのことが、好き。好きで好きで、気持ちが溢れてしまいそう。
ダイゴさん、どうしてこんなに優しくしてくれるんですか。私はもう、あなたで心がいっぱいです。