星巡り/シンオウ編

「寒……っ」
 北の大地シンオウ地方、その中の北端に位置するエイチ湖。シンオウ地方にやってきた私とダイゴさんは、その湖を目指して雪が降りしきる二一六番道路を歩いている。
「シンオウは雪深いって聞いてましたけど、ここまでなんて……。わっ」
 積もった雪に足を取られバランスを崩す。危うく転びそうになるけれど、ダイゴさんが支えてくれて難を逃れた。
、大丈夫?」
「はい、なんとか……ありがとうございます」
「ボクも気をつけないとな。シンオウは結構来てたんだけど、地下通路で採掘ばかりしてたから雪は慣れてないんだよね。雪道の装備はコトブキで整えてきたけど、それでもキツいな……」
「本当にここに伝説のポケモンがいるんでしょうか」
 伝説のポケモンがエイチ湖に出た。そんな噂を聞いたのはシンオウ地方に来てすぐのことだ。そのときのことを思い出しながら、雪の降る空を見上げる。そう、あれは数日前のこと……。

***

 シンオウ地方最大の都市、コトブキシティ。カントー地方から飛行機でシンオウにやってきた私たちは、最初にこの都市に降り立った。
「賑やかな場所ですね。人もポケモンもたくさんいる」 
 コトブキシティはトレーナーズスクールやテレビ局などの人の集まる施設も多く、行き交う人々やポケモンの数もホウエンのカナズミシティ、ジョウトのコガネシティに勝るとも劣らない。
「カナズミシティに似た雰囲気だけど、やっぱり気温が違うね」
「はい。厚着してきたけどまだ寒い……」
 冷たい北風に私は身を震わせる。南国に近い気候のホウエン育ちにはつらい気温だ。シンオウにはもっと寒い地域があるという。コトブキで防寒具を整えてからシンオウを回った方がよさそうだ。
「防寒具を買うなら登山用品店かな。シンオウにはテンガン山もあるし、品揃えはいいと思うよ」
「テンガン山って有名な霊峰ですよね。雪深い山ですし、しっかりしたものがありそうですね」
 マップを見て登山用品店の場所を確認する。さすが大都市、登山用品店も複数あるようだ。コトブキデパートに入っている店舗か、独立したお店か……。迷っていると、ふと道行く人の噂話が耳に入った。
「ねえ聞いた? エイチ湖に伝説のポケモンが出たって話」
「えー、まさかあ」
 漏れ聞こえた言葉に、私とダイゴさんは顔を見合わせた。
 シンオウに来る直前、カントーの南にあるナナシマで北へ飛ぶラティオスを見かけた。「シンオウでも会えたりして」なんて冗談半分で話していたけれど、まさか……。
 私とダイゴさんは頷き合って、噂をしていた女性の元へ駆け寄った。
「あの、すみません」
「わっ、ホウエンのチャンピオン!?」
 女性たちに話しかけると、ロングヘアの女性が驚きの声を出した。どうやらダイゴさんを知っている様子だ。
「元ですよ。あの、伝説のポケモンが出たって聞いたんですけど……シンオウの?」
 ロングヘアの女性は、うーんと首を傾げた。
「さあ、噂だからそこまでは……そもそもエイチ湖の周りは雪もすごいから見間違えたんだと思いますけど……」
「なるほど……ありがとうございます」
「あ、あの。チャンピ……元チャンピオンがなんでシンオウに? もしかしてバトルイベントとかやるんですか!?」
 女性は少し高揚した表情でそう聞いてくる。どうやらポケモンバトルが好きなようだ。
「いや、ただ旅をしているだけですよ。もし伝説のポケモンが出現したならぜひ会いたいと思いまして」
「エイチ湖、行くんですか? あそこは雪深いので気をつけて」
「はい、ありがとうございます」
 女性たちにお礼を言って、私とダイゴさんは作戦会議に入る。エイチ湖はシンオウ地方の北端に位置する大きな湖だ。コトブキからはテンガン山内部を通ってさらに長い道のりを歩かなければならない。
「なかなか険しい旅になりそうだ。しっかり準備していかないとね」
「はい!」

***

 そうしてコトブキで準備を整え出発したのが数日前。今はやっとテンガン山を越え二一六番道路に入ったところだ。
 テンガン山を越えてからエイチ湖までの道は雪深いと聞いていた。聞いていたけれど、想像以上の雪に尻込みしてしまう。
「こんなに降ってるなんて……キッサキまで行けますかね」
「いや、この近くにロッジがあるはずだから、そこで休ませてもらおう。雪慣れしてないボクたちの足で一気に行くのは危なそうだ」
 マップを開いてロッジの場所を確認するけれど、そのマップの上にもすぐに雪が積もってしまう。その雪をはたいて、マップを鞄に入れた。
「そうだ、はぐれないようロープをつないでおこうか。はい」
 ダイゴさんに渡されたのは赤い色のロープだ。この地帯は雪がひどいときはホワイトアウトになるそうだ。もしそうなれば目の前のダイゴさんの姿も見えなくなる。地図を見る限りロッジはそう遠くはなくすぐに到着するだろうけれど、念には念を入れておいたほうがいい。
「ふふ、赤い糸だ」
 ベルトに赤いロープを結んでいると、ダイゴさんが嬉しそうに微笑んだ。
「も、もう……こんなときに」
は嬉しくない?」
 ダイゴさんは首を傾げてそう問いかける。その聞き方は、ずるい。あまりのずるさに、私は唇を尖らせた。
「……そんなこと言われたら、解きにくくなるじゃないですか」
 これが赤い糸ならば、ロッジに着いたあとも解けなくなってしまう。ダイゴさんと結ばれた糸を自分の手で解くなんて、そんなの、嫌に決まっている。
「ああ、そうだね、ごめん」
「もう……」
「赤い糸は、ちゃんと繋がってるしね」
 追い打ちをかけるようなダイゴさんの言葉に、私の頬が一気に熱くなる。こんな気温が低い中で、私の周りだけ夏が訪れてしまったよう。
「わっ!」
 固まっていると、強い風が吹き付けた。雪の塊が飛んできて、私もダイゴさんも大きな声を出してしまう。
「急いだ方がよさそうだ、行こう」
「は、はい」
 ダイゴさんは先ほどまでの柔和な表情を一気に引き締め、方位磁石に従い北へ歩き出す。距離が離れすぎないよう、一定の距離を保って私もそのあとについて行く。
「あ、あれがロッジですかね」
 少し歩いた先に、さっそくロッジが見えてきた。あれが「ロッジ雪まみれ」だろう。天気が崩れきる前にロッジにたどり着けそうだ。
「そうだね。……っ!?」
 もうすぐロッジだというのに、突然ダイゴさんは立ち止まる。どうしたのだろうとダイゴさんの後ろから彼の視線の先を覗くと、木の陰に小さなポケモンが浮いていた。
 大きさは三十センチぐらいだろうか。頭がピンク色で、目尻が少し上がったポケモン。まったく見たことがない上に、どこか神秘的な雰囲気から、直感的に伝説のポケモンであることがわかった。
「ダイゴさん……!」
「うん、追いかけてみよう」
 ダイゴさんは今の場所に目印としてステッキを刺すと、そっとピンク色のポケモンのほうへ歩き出す。気づかれないように静かに近づいて……と思ったけれど、ピンク色のポケモンはじっとこちらを見つめ始めた。そして、短い腕を振り始める。その動きは、まるで私たちを手招きしているようだった。
 警戒は解かず、ピンクのポケモンに近づいていく。すると、その先にピンク色のポケモンとほぼ同じ大きさの、頭が黄色いポケモンが現れた。おそらくラティオスとラティアスのように、繋がりのあるポケモンなのだろう。黄色のポケモンは目を閉じているけれど、しっかりとこちらを認識しているようだった。
「私たちを……呼んでいる?」
 言葉はわからないけれど、そんな気がした。あの子たちは私たちを呼んでいる。吸い込まれるように、黄色のポケモンの元へ歩き出す。
「あ……」
「また別のポケモンだ」
 黄色のポケモンがいる先に、また別のポケモンが現れる。青い頭のポケモンだ。この子もピンク色の頭をしたポケモンの仲間だろう。青いポケモンは木のそばでくるくると回ると、じいっと真下を見つめ始めた。
 下に何が? おそるおそる移した視線の先に、信じられないものが映る。
 そこにあったのは、一つの段ボール箱。その中に草タイプのポケモンであるチェリンボの姿が見える。
「チェリンボ……!?」
 雪の降りしきる中、草タイプのポケモンが野ざらしになっている。衝撃的な光景に、私は思わず走り出す。深い雪に何度も足を取られながら、やっとの思いでチェリンボの元へたどり着く。
「冷たい……!」
 チェリンボの体はすっかり冷え切って、凍傷も至るところにできている。息は絶え絶えで、今にも事切れてしまいそう。
「これを!」
 隣のダイゴさんが、すかさず自分のマフラーでチェリンボを包む。
「ロッジに連れて行こう。少しでも温めないと」
「はい!」
「ボクが先導するからついてきて!」
 私はマフラーごとチェリンボを抱え、ダイゴさんとともにロッジへ走った。
 あの三匹のポケモンたちは、いつの間にか姿を消していた。

「あったかい……」
 ロッジのストーブの前で、私はほっと息を吐いた。ロッジの方が入れてくれたあまいミツ入りのホットミルクが体に染み渡る。
「寒かったでしょう、暖まってくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 ロッジのスタッフに会釈をして、私は小さなポケモン用ベッドをのぞき込んだ。そこには毛布を何枚もかけられたチェリンボが横たわっている。
「心配だね」
 ダイゴさんも私と同じように心配そうにチェリンボを見つめた。
 ほんの十分ほど前、このロッジに入った私たちはスタッフに事情を話し、チェリンボの手当てを始めた。キズぐすりと氷なおしを塗って、ストーブの前でチェリンボを温めた。目に見える傷は手当てしたけれど、チェリンボは相変わらずうなされたままだ。
「それにこのメモ……」
 私はポケットから一枚のメモを取り出した。チェリンボが持っていたメモだ。ルーズリーフに書き殴られた「可愛がってください」という雑な文字。
 この子は、トレーナーに捨てられたのだ。
「こんなところに置いていくなんて……」
 ポケモンを捨てるだけでも許せないのに、よりによって草タイプのポケモンをこんな雪の中に置いていくなんて。「可愛がってください」という文面がむしろ怒りを増幅させる。本当にそんなことを思っているならば、雪の中に捨てるなんて選択肢はなかったはずだ。
「ちぇり……」
 ベッドで横になるチェリンボが、苦しそうな声を上げる。凍傷が痛むのか、それとも……。
「なんだか様子がおかしいね」
「はい……傷が痛むわけじゃないのかな……」
 チェリンボの苦しみ方は物理的な痛みによるものとは違って見える。もっとなにか、精神的なもののような……。
「もしかしたら、悪夢を見ているのかも」
 ロッジのスタッフの女性が、チェリンボをのぞき込む。
「悪夢……ですか?」
 突飛な言葉に、私はつい聞き返してしまう。女性は小さく頷くと、ゆっくりと口を開いた。
「私の出身のミオシティには、昔から悪夢にはまりこんで目を覚まさなくなる子が出るんです。私も悪夢にはまってしまった子を見たことがあるけど、その苦しみ方とそっくりで……」
 にわかには信じがたい話だけれど、この状況でこの女性が嘘を話すはずもない。なにより、彼女の瞳は真剣そのものだ。彼女の話すことは本当なのだろう。
「悪夢から覚ます方法はないんですか?」
 そう問いかけたのはダイゴさんだ。女性は「確か……」と顎に手を当て考える仕草を見せる。
「ミオの近くの満月島に悪夢から目覚めさせる道具があるはずです。三日月の羽って言ったかな……」
「満月島……」
 ダイゴさんはすぐにマップを開いて、満月島の場所を確認する。満月島はミオの北にある小さな島のようだ。
「満月島に行くならミオから船が出ているはずです」
「ミオか……少し遠いな」
「そうですね……空を飛ぶのもこの天気じゃ危なそうです」
 窓の外はいつの間にか猛吹雪になっている。この天気で外に出るのは自殺行為だろう。傷ついたチェリンボにとってはなおさらだ。
 「明日は晴れの予報ですよ」とスタッフの女性が教えてくれたので、今晩はロッジでお世話になることにした。

 消灯後もチェリンボのことが気になって仕方ない。私はどうにも眠れず、隣にいるダイゴさんを起こさないよう、雑魚寝状態の布団からそっと抜け出した。枕元に置いておいたカーディガンを羽織って、チェリンボの様子を見に行く。
「うなされてる……」
 白いベッドで眠るチェリンボは、ひどくうなされている。苦しそうに、悲しそうに、喘ぐように口を開いては声にならない声を出している。
「大丈夫……明日にはミオへ向かうからね」
 チェリンボの毛布をかけ直して、小さく声をかけた。大丈夫、大丈夫……満月島へ行ければ、きっと大丈夫。
「眠れない?」
「っ!」
 突然後ろから聞こえた声に、私は驚いて肩を揺らす。慌てて振り向けば、そこには心配そうな表情を浮かべたダイゴさんがいた。
「すみません、起こしましたか」
「大丈夫、ボクも心配だったからね」
 ダイゴさんは私の隣に立つと、チェリンボの様子を窺った。
「傷は治ってきてるかな。薬が効いてるみたいだ。たださっきより冷えてきたし毛布を増やそうか」
「あ……そうですね」
 ご自由に、と書かれた棚から毛布を一枚取り出す。チェリンボにその毛布をかけると、少し表情が和らいだ気がした。
「ボクたちも休もう。明日は早く出発しなくちゃいけないしね」
「……はい」
 ダイゴさんに促され、私は布団に戻った。毛布をかぶっても、チェリンボのことが頭から離れない。
 あんなに弱って、大丈夫だろうか。やっぱり無理にでも明るいうちにミオへ向かった方がよかったかな。いや、でも吹雪の中あんなに弱ったチェリンボを移動させるのは……。
 頭の中でぐるぐると考えが巡る。ぎゅうっと掛け布団を握っても、不安な心は消えない。
「ほら、目をつぶって」
 隣の布団で横になるダイゴさんに、ぽんぽんと胸の辺りを叩かれた。まるで子供を寝かしつけるような仕草だ。
「明日の朝一番にミオへ向かおう」
「はい、もちろん……」
「そうしたら、すぐにチェリンボもよくなるよ」
「……はい」
「だから、大丈夫。今は明日に向けて体を休めよう。ほら、おやすみ」
 ダイゴさんの優しい声に包まれて、私は目を閉じた。
 ダイゴさんと一緒にいると、きっと大丈夫と思える。不安な気持ちが凪いでいく。安心感に包まれる。
 私の意識は、優しいまどろみに落ちていった。

 次の日、朝一番にロッジの方々にお礼を言ってロッジを出た。エアームドに乗って晴れた空を飛び、まずはコトブキシティへ。そこから西に位置するミオシティへ入った。
「港町って感じですね。えっと、満月島までの船は……」
「何個か船があるな。ボクが見てくるから、はここでチェリンボを見ていて」
「はい」
 運河に停泊している船はいくつかある。ダイゴさんは船乗り場を回って満月島行きの船を探し始めた。
「もう少しだからね、チェリンボ」
 腕の中にいるチェリンボに、そっと声をかけた。チェリンボは毛布に包まれたまま、荒く呼吸をしている。薬が合ったのか傷や凍傷はよくなったけれど、やはり悪夢にうなされているのだろう。
「あ、船、あったみたい」
 遠目にダイゴさんが手を振るのが見えた。満月島行きの船を見つけたのだろう。
「満月島に行けるよ」
「ちぇり……」
 チェリンボに声をかけながら、私は船へと向かった。

「ポケモンが悪夢にうなされるとはね……」
 満月島の船の中で、船員の男性がぽつりと呟いた。
「ミオでは悪夢に取り込まれる子が昔からいるって聞きましたけど……」
「ああ。うちも前に息子が悪夢にはまってね……だからてっきり人間だけの話だと思ってたんだけど、ポケモンでも取り込まれる子がいるんだな」
「リ……」
 私の腕の中にいるチェリンボは、また苦しそうな声を出す。
「大丈夫、うちの息子も三日月の羽をもらって治ったんだ。お前ももうすぐ治るよ。ほら、満月島が見えてきたぞ」
 船員の男性は大きな手でチェリンボを撫でると、窓の外を指さした。その先にある小さな島、あれが満月島なのだろう。
「満月島……神秘的な雰囲気だね」
「はい。なんだか不思議な島……」
 私はダイゴさんの言葉に小さく頷いた。遠目に見るだけで、満月島は厳かな雰囲気を纏っていることがわかる。
「満月島にはクレセリアって伝説のみかづきポケモンがいるんだ。そのせいだろうな」
「クレセリア……ですか」
「ああ。三日月の羽はクレセリアの羽だって言われてるんだよ」
 満月島、三日月の羽、悪夢にうなされる子供……。言い伝えが一つに繋がる。「もうすぐだよ」、そうチェリンボに伝えて、満月島を見つめた。

 船が走ること数時間。ようやく私たちは満月島に到着した。「三日月の羽は島中央部にあるはずだ」という船員の男性の言葉に従い、木々をかきわけ島中央部を目指し歩いている。
「チェリ……チェリ……」
 腕の中のチェリンボは変わらず苦しそうなままだ。私はチェリンボに振動を与えないよう、慎重に、しかし足早に歩いていく。
「中央部はこのあたりかな」
 マップを見つめるダイゴさんが口を開く。木々のない開けた場所、ここが島の中央部のようだ。
「三日月の羽は……あっ!」
 草むらのない土の地面に、一枚の羽が落ちている。ピンク色の大きな羽はどこか神々しさを纏っている。間違いない、これが三日月の羽だ。
 ダイゴさんはそっとその羽を手に取ると、チェリンボの体の横にそれを置く。
「お願い……」
 チェリンボ、目を覚まして。悪夢から帰ってきて。祈るようにチェリンボを見つめていると、三日月の羽が光を纏い始める。
「なに……!?」
「羽が……!」
 三日月の羽の光はどんどん強くなる。白い光が当たり一面に広がって、あまりの眩しさに私は一瞬目を閉じた。
「あ……」
 そして、再び目を開けたときには三日月の羽は消え去っていた。
「チェリンボ!」
 慌ててチェリンボに声をかける。
 悪夢から目を覚まさせるという三日月の羽はなくなった。もし今ので目を覚まさないとなると……。
「チェリ……」
 チェリンボはゆっくりと目を開ける。ぼんやりとしていた瞳は次第に力を取り戻す。
「チェリ……?」
 チェリンボはぱっちりと目を開くと、何度か瞬きをする。眠っている様子もうなされている様子もない。悪夢から無事覚めたようだ。
「よかった……!」
 私はチェリンボをぎゅっと抱きしめた。ああ、よかった。本当によかった。この子が助かって、本当によかった。
「よかったね」
「はい……」
 ダイゴさんに目の下を拭われて、ようやく私は自分が泣いていることに気づいた。安心して涙腺が緩んでしまったのだろう。
「チェリ……」
「あ、寝ちゃった……」
 チェリンボは再び目を閉じると、すうすうと寝息を立て始める。一瞬また悪夢に襲われてしまったのかと思ったけれど、前と違って顔色はいい。うなされている様子もなく、きっと眠っているだけなのだろう。
「疲れちゃったのかな」
「そうですね、怪我もしてましたし」
「船も待たせてあるしミオに戻ろうか。チェリンボも休ませたいから、今日はミオに泊まろう」
「はい」

 私たちは再び船に乗り、ミオへ戻った。船上では船員さんもチェリンボが悪夢から戻ったことを喜んでくれた。
「はあー……」
 ホテルの部屋に入って、ソファに横たわる。はしたないと思いつつ、力が抜けてしまったのだ。
「テンガン山に入ってからずっと気を張ってたからね。お疲れさま」
「ダイゴさんも」
 険しい山であるテンガン山、激しい雪道、そして傷ついたチェリンボ……。思い返せば確かにハードな道のりだった。ようやく一息つけたといったところだろう。
「チェリンボも疲れただろうね」
「本当に」
 チェリンボは部屋に備え付けられた小型ポケモン用のベッドですやすやと眠っている。船の上からずっと寝通しなあたり、この子の疲れが窺える。
「ちぇ……」
「あ、起きたかな」
 チェリンボの目が、薄く開く。何度か瞬きをしたのち、チェリンボは飛び起きた。
「チェリ? チェリ?」
「おはよう、チェリンボ」
「チェリ……?」
 チェリンボはベッドの上で、あたりをきょろきょろと見渡し始めた。まるでなにかを探しているかのよう。
「なにか探して……あっ」
 そうだ。この子は二一六番道路で捨てられてからずっと悪夢にうなされていたのだ。きっと、まだ捨てられたことに気づいていない。
 この子は、自分のトレーナーを探しているのだ。
「チェリンボ……」
 悪夢から覚めてよかった、なんて思った自分の安易さを痛感する。悪夢から覚めても、この子にはつらい現実が待っているのだ。
「チェリンボ」
 ダイゴさんはチェリンボの前で片膝を立てて座り、チェリンボをじっと見つめる。
「きみのトレーナーはね……遠くに行ってしまったんだ」
「ちぇり?」
「……もう、会えないんだ」
 ダイゴさんは「捨てられた」とは言わず、しかし「もう会えない」とはっきりと告げた。チェリンボはぽかんと口を開けたまま、ダイゴさんを見つめた。
「チェリ?」
「……ごめんね」
「チェリ! チェリ!」
 チェリンボはなにかを訴えるように強く鳴き始める。「信じない」と言わんばかりに頭を横に振ってぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「チェリンボ……っ!」
 私は耐えきれずチェリンボを抱き上げた。チェリンボは私の腕にしがみついて、大きな声でむせび泣く。
「ごめんね……」
「チェリ……っ!」
 ホテルの部屋に、チェリンボの泣き声だけが響き渡った。

 ほどなくして、チェリンボは泣き疲れたのか再び眠ってしまった。私はチェリンボをベッドに寝かせて、そっと毛布をかけた。
「チェリンボ……」
 泣きはらしたチェリンボの目を見て、心が痛む。チェリンボはきっとトレーナーのことが大好きだった。トレーナーはなにを思ってチェリンボをあんな場所に置いていったのだろう。育てられない事情があったとしても、雪の降る場所に置いていくなんて……。
 じわりと悔しさと悲しみの混じった涙が浮かんでくる。なんで、どうして。そんな思いがずっと胸をよぎっている。
「ただいま」
 眠るチェリンボを見つめていると、出かけていたダイゴさんが帰ってきた。ドアへ駆け寄ると、ダイゴさんは一枚のメモを見せてくる。
「ホテルのスタッフに聞いてきたよ」
 そのメモにはシンオウにあるポケモンの保護施設がいくつか書かれている。
 チェリンボが眠ってすぐ、ダイゴさんとチェリンボをどうするべきか話し合った。このまま私たちの旅に連れて行くか、それともシンオウの保護施設に預けるべきか。チェリンボがどちらを選ぶにせよ、シンオウの保護施設の情報は先に調べておいたほうがいいだろうという話になり、ダイゴさんがホテルスタッフに保護施設のことを聞いてくることになったのだ。
「いくつかあるけど、おすすめはヨスガシティの教会だって。小さなポケモンが多い施設だし、ヨスガは晴れの日も多いからチェリンボには向いてそうだね」
「なるほど……」
 ほかの施設の詳細もメモに記されているけれど、ほかの施設は北の雪深い場所にあったり、大型ポケモンを専門としていたり。チェリンボを預けるのならダイゴさんが話す通りヨスガの施設がよさそうだ。
「やっぱりヨスガですかね。チェリンボに聞いてみてオーケーするならですけど」
「チェリンボはまだ寝てるんだね」
「はい……」
「……はっきり話しすぎたかな」
 ダイゴさんは眉を下げ、悲しげな表情を見せる。おそらくチェリンボに「もうトレーナーと会えない」とはっきりと言ったことを気に病んでいるのだろう。
「でも、いつかわかることですから。下手に誤魔化したら、私たちのことも信じてもらえなくなるかも……ううん。人間のことを信じられなくなってしまうかもしれない」
 「トレーナーは出かけてるだけだよ、大丈夫すぐに会えるよ」、そう言うのは簡単だ。だけれど、この一瞬を誤魔化したところでチェリンボが捨てられてしまった事実は変わらない。置いて行かれたことを理解し、さらには嘘まで吐かれたとなったら、チェリンボが人間不信に陥る可能性もある。「捨てられた」という言葉は使わずに、しかし誤魔化さずにはっきりと話したダイゴさんの対応はきっと正解に近いものだったはずだ。
「明日チェリンボに聞いてみましょう」
「そうだね。一応ヨスガの道のりも調べておこう。ここからヨスガへ向かうなら……」
 二人でマップを開いて、ヨスガまでの道を確認する。ヨスガシティはコトブキシティからテンガン山を挟んで東の町だ。
「あ……」
 ダイゴさんは地図を見ながら、顎に手を当てる。ルートを迷っているのだろうか?
「ダイゴさん、気になることがあります?」
「あ、いや……。チェリンボを見つけたときに三匹のポケモンがいただろう?」
 二一六番道路にいた三匹のポケモン。おそらく伝説のポケモンと思われるあのポケモンのことだろう。私は頷いてダイゴさんの言葉に耳を傾けた。
「シンオウには三つの湖があって、そこにポケモンが眠っているって知り合いに聞いたことがあるんだ。もしかしたらあのポケモンのことなのかなって」
「あ……」
 なるほど、ダイゴさんの言うことには一理ある。私たちが見た三匹のポケモン、そして湖の数も三つ。その可能性は十分にあるだろう。
「もしそうなら挨拶をしたいですね。きっとあの三匹のポケモンが、チェリンボのことを教えてくれたと思うから」
 あの三匹のポケモンがいなかったら、私たちは二一六番道路でチェリンボを見つけることはなかっただろう。もしあのままチェリンボが誰にも見つけられずに放置されていたら……。考えただけでぞっとする。
「うん。湖は三ヶ所……シンジ湖、リッシ湖、エイチ湖。一番近いのはシンジ湖か」
「チェリンボのことが決まったら行ってみましょう」
「そうだね」
 ダイゴさんはマップの湖の場所に印をつけた。リッシ湖はここから近いフタバタウンのすぐそば、リッシ湖はシンオウ中央東あたり、エイチ湖はチェリンボを見つけた二一六番道路の先だ。

 次の日の朝。外はさわやかな快晴だ。窓から差し込む朝日を眩しく思いながら、私はチェリンボにポロックを食べさせる。
「チェリンボ、おいしい?」
「ちぇり」
 チェリンボはまだ元気がないようだ。それも仕方ない。トレーナーに置いて行かれてしまったのだから。それでも食欲はあるようで、私はほっと胸を撫で下ろす。
「ねえ、チェリンボ。これからのお話をしていい?」
 食事を終えたチェリンボに、私は声をかける。
「ここから東にあるヨスガシティにね、チェリンボみたいなポケモンがたくさんいる場所があるの。チェリンボ、そこで暮らすのはどう?」
「チェリ?」
 私はホテルのスタッフからもらった保護施設のパンフレットをチェリンボに見せた。この教会は草タイプのポケモンも多く保護しているようで、チェリンボの進化系であるチェリムの姿もある。
「それか……私たちはね、今世界中を旅してるの。一緒に来る?」
「チェリ……?」
 チェリンボはパンフレットと私を交互に見つめた。悩んでいるのだろう。「ちぇ……」と小さな声を漏らす。
 しかし、チェリンボは次第にパンフレットの写真を見つめ始めた。私のほうは見ずに、じっとそこに映る草タイプのポケモンたちに釘付けになっている。
「こっちがいいかな」
「ちぇ……」
 チェリンボは少し気まずそうに視線を泳がせる。私に悪いと思っているのだろうか。
「いいんだよ、大丈夫。ヨスガまで私たちが送っていくからね」
 チェリンボの頭を撫でると、チェリンボはぱっと笑顔を見せてくれた。うん、きっと、これでいい。これがチェリンボにとって最善の選択だ。
 チェリンボを撫でていると、キィと扉が開く音がする。朝から出かけていたダイゴさんが戻ってきたのだ。
「ダイゴさん、お帰りなさい」
「ただいま」
 私は一人ダイゴさんに駆け寄って、そっとチェリンボの選択を彼に教えた。ダイゴさんは穏やかな笑顔で「わかった」と言ってくれた。
「これ、湖のポケモンについての言い伝えが書いてある本だよ。司書さんに見つけてもらったんだ」
「わ、ありがとうございます」
 そう、ダイゴさんが行っていたのはミオの図書館だ。あそこは蔵書量が多く、きっと湖のポケモンについて書かれた本もあるのだろうと睨んでいたのだ。
「どれどれ……」
 私とダイゴさんはソファに座り、本を開いた。本のタイトルは「シンオウの湖の伝承」、本の最初のページには二一六番道路で見たポケモンとそっくりの絵が描かれている。
「やっぱりあのポケモンたちは湖のポケモンみたいだね」
 ダイゴさんはさらに次のページを開いた。
 三つの湖にはポケモンが眠っており、それぞれ感情、意志、知識を司っている。名前はエムリット、アグノム、ユクシー。二一六番道路で見たあの頭がピンク色で目尻の上がったポケモンがエムリット、三角形の青い頭のポケモンがアグノム、頭が黄色く目をつぶったポケモンがユクシーだ。その三匹に関するさまざまな言い伝えが書かれており、二人して読みふけってしまう。
「ちぇり!」
「わっ」
 真剣に本を読んでいると、いつの間にかチェリンボが私たちのそばにやってきていた。チェリンボはソファに乗って本を見つめている。
「ちぇり! チェリ!」
 チェリンボは頭の葉で本を指す。高い声で鳴き、なにかを訴えているようだ。
「もしかして、きみも湖のポケモンにお礼を言いたいのかな」
 ダイゴさんの問いかけに、チェリンボは「チェリ~!」と明るい声で答える。どうやら正解のようだ。あのときチェリンボの意識はなかったと思っていたけれど、深層でポケモンの存在を感じ取っていたのだろうか。
「そっか。じゃあヨスガに行く前に湖に一緒に行こうね」
「チェリ!」
 チェリンボは嬉しそうにその場でぴょんぴょんと飛び跳ねる。
 明るいチェリンボの表情を見て、私とダイゴさんはお互い笑顔で頷いた。



 ミオの図書館に本を返したあと、私たちはさっそくミオを出発した。ヨスガの前に湖を回るなら、最初はミオから近いシンジ湖だろう。マサゴタウンを通って、シンジ湖までの道を歩く。
「この辺りは静かですね。コトブキシティやミオシティとは全然違う……」
 マサゴタウンも二〇一番道路も、町並みや道路の雰囲気も落ち着いている。今まで歩いた二つの町に比べ、ゆったりとした時間が流れているようだ。
「伝説の湖が近いことも関係してるかな。あ、ここだね」
 二〇一番道路を西へ歩いていると、シンジ湖の入口を示す看板が目に入る。ここが伝説のポケモン、感情の神エムリットがいると言われている湖だ。私は緊張しながら、看板の先へ足を踏み入れた。
「チェリ!」
「わっ、チェリンボ、落ち着いて」
 一緒に歩くチェリンボが突然はしゃぎ出す。自分を助けてくれたポケモンに会えそうで嬉しいのだろうか。
「わ……広い湖」
 少し歩くと、すぐに湖が見えてきた。かなり広い湖で、向こう岸はこちらからは見えない。
「昔は火山だったらしいですね。火山がこんなふうになるんだ……」
「ね。あ、真ん中に洞窟があるね。本には書かれていなかったけど……入ってみよう」
「はい」
 もしかしたらあそこにエムリットがいるのかもしれない。私たちはダイゴさんのポケモンに乗り、湖の真ん中の洞窟へ入った。
「ここか……」
「思ったより広いですね」
 洞窟の中は一間の大きな空間となっている。しんと静まりかえった内部は、時折水が落ちる音がするだけだ。雫の音が洞窟内に反響して、まるで音楽のような音を奏でている。
 不思議な空間だ。洞窟の外は一般的な湖の雰囲気だったのに、内部はまるで別世界のような神秘的な空気に満ちている。厳かで、指を動かそうとするだけでも緊張感が走るほど。
「ちぇり……」
 地面を歩くチェリンボは、私の足下に体を寄せた。この子も緊張しているのだろう。チェリンボを安心させようと、私は「大丈夫」と言ってチェリンボの頭を撫でた。
「ポケモンはいないね」
 伝説のポケモンどころか、ズバットなど洞窟によくいるポケモンすらいない。大きな岩のような隠れられる場所もないため、どこかに潜んでいるとも考えにくい。
「エムリットは戻ってきてないのかな。それとも……」
 水の落ちる凛とした音が、洞窟内に響く。どこまでも澄んだ美しい音だ。
「またここで、眠っているのかもしれません」
 この神々しい雰囲気。きっと、エムリットはここにいる。そんな気がする。
「チェリ!」
「チェリンボも同じ意見みたいだね。じゃあお礼を言おうか。きっと通じるよ」
 私たちはその場で手を合わせ目をつぶる。あのとき、チェリンボの場所を教えてくれてありがとうございました。無事、こんなに元気になりました。
 祈っていると、ふと小さな声が聞こえてきた。くすくすという、笑い声のような高い声。私は慌てて目を開き、あたりを見渡す。しかし、私たち以外人もポケモンも誰もいない。
「ダイゴさん、今の聞こえました……?」
「うん……。もしかしてエムリットが……?」
 考え込んでいると、再び同じ笑い声が聞こえてくる。洞窟全体に響くような、しかしどこか遠い声。
「そう思っても……いいですよね」
 確証はない。今の声らしき音もただ洞窟の音が反響してそう聞こえただけかもしれない。でも、今はエムリットが応えてくれたと思いたい。
「チェリ~!」
 チェリンボはぴょんぴょんとその場で跳ね始める。チェリンボもエムリットにお礼を言えて嬉しいのだろうか。
「チェリ! チェリ!」
「わっ、よしよし」
 チェリンボは高くジャンプして、私の胸のあたりに飛びついた。心なしかチェリンボも明るくなったような……。
「チェリ!」
「ふふ、元気になってよかった」
 チェリンボを抱きしめて、赤い頭を撫でた。
 エムリット、ありがとう。もう一度エムリットにお礼を言って、私たちはシンジ湖を出た。



 シンジ湖からリッシ湖は距離がある。クロガネシティからテンガン山内部を通って一度ヨスガへ。ヨスガの教会でチェリンボの事情を先に話して、ノモセシティからリッシ湖へ向かう。二一三番道路まで来ればリッシ湖はもう目前だ。……けれど。
「疲れた……」
 リッシ湖のほとりにあるホテルグランドレイク。シンジ湖からずっと歩き通しで疲弊した私たちは、このホテルの一室で一晩休むことにした。
「ここまで長かったからね。今日はゆっくり休もう」
「はい」
 時刻はすでに夕暮れ時。夜の湖を渡るのは危ないし、今晩はもうここでゆっくりしよう。
「ちぇり……」
「チェリンボも疲れたね、お疲れさま。こっちおいで」
 ボールに入ることのできないチェリンボも、ほぼずっと歩き通しだった。この子も相当に疲れただろう。私はチェリンボを膝に乗せ、ゆっくりとポロックを食べさせる。小さな口で桃色のポロックを食べる様子が可愛らしい。
 ポロックを一個食べ終えたら、次はお手入れの時間だ。沼地や浜辺を歩いてついた汚れを落としていく。綺麗になったら、今度は疲れた体のマッサージ。チェリンボの小さな体を、優しくほぐしていく。
「ちぇり~……」
 マッサージを続けていると、チェリンボは瞼を落として眠たそうにし始めた。次第にうとうとと船を漕ぎ、いつしか完全に眠りに落ちる。
「おやすみ」
 私はそっとチェリンボを抱き上げ、寝室にあるポケモン用のベッドへ移した。このまま朝まで寝てしまうかな。
「よく寝てるね」
「はい、起こさないようにしましょう」
 チェリンボの毛布を持ってきてくれたダイゴさんと小声で頷き合う。私たちは寝室から出て、リビングルームへ移動した。全面窓のカーテンを開ければ、綺麗な海が一望できる。
「綺麗な海……豪華なホテルですね」
 リッシ湖のほとりに建つこのホテルは、リッシ湖も海もどちらも眺められるという贅沢な立地だ。実際かなり人気のホテルで、今回は直前キャンセルがあった部屋にたまたま入ることができたのだ。
「ずっと野宿やポケモンセンターに泊まっていると体が休まらないからね。たまにはこういうところでしっかり休まないと」
「そ、そうですね……」
 ダイゴさんの言うことはもっともなのだけれど、それにしてもさすがにこのホテルは豪華すぎでは……。こういうときの支払いについてダイゴさんはいつも「は気にしなくていいよ」と言うけれど、実際いくらかかっているのか非常に気になる……。
「? ここは嫌だった?」
「い、いえ……十分すぎます」
 十分というか、私には身に余るというか。しかしチェリンボもリラックスしているようだし、まあいいかな。
「あ……日が沈んでく」
 水平線に、オレンジ色の夕陽が沈んでいく。海と太陽が混じり合う光景は、どこか神秘的で美しい。
「こんな景色も見れるなんて、本当にいいホテルですね」
「新婚旅行で来る人も多いみたいだよ。ボクたちもここにする?」
 思ってもみなかったダイゴさんの返答に、私は頬を熱くした。見上げたダイゴさんの表情は、いつものあのにっこりとした食えない笑顔だ。
「だ、ダイゴさん、すぐそういうこと言うんだから……」
「本気だよ?」
 ダメ押しのような言葉に、私の頭は沸騰寸前だ。
 そんなこと、わかっている。いくら食えない表情をしていても、ダイゴさんは冗談でこんなことを言う人ではない。
 私は黙って、ダイゴさんへ体を寄せた。彼の肩に頭を乗せて、口を開く。
「ダイゴさんとなら、どこでもいいですよ」
 ホウエン、カントー、ジョウト、シンオウ……ほかにも行ける場所はたくさんある。ダイゴさんとならば、きっとどこだって楽しいに決まっている。
 ダイゴさんは私の肩に腕を回し、私を抱き寄せる。そして、そっと耳元で甘い言葉を囁いた。
「ボクも同じだよ」
 オレンジ色の夕焼けの光の中、キスをした。
 今話したことは、きっと遠い未来の話じゃない。



 次の朝、私たちはホテルグランドレイクをチェックアウトし、すぐそばのリッシ湖へ入った。シンジ湖同様、リッシ湖もかなりの大きさの湖だ。
「綺麗な湖……」
 リッシ湖の大きな水面に、朝日がキラキラと反射する。風で起きた波が、その光を宝石のように輝かせている。
「朝の湖もいいね。ここにいるのは……意志の神アグノムか」
「青い頭のポケモンですよね。アグノムもあの湖の真ん中の洞窟にいるんでしょうか」
「行ってみよう」
 シンジ湖と同じように、ダイゴさんのポケモンに乗って湖中央部の洞窟へ。洞窟内部は大きな広間のような形になっており、シンジ湖の洞窟とかなり似た雰囲気だ。
「アグノムは眠っているのかな」
 洞窟内はぽつ、ぽつ、と水滴が落ちる音が響くだけで、ポケモンがいる様子はない。アグノムは洞窟内で眠っているのだろうか。
「ちぇり……」
 アグノムの姿が見えず残念なのか、チェリンボはしゅんと頭の葉っぱを垂らしてしまう。
「大丈夫、きっと祈れば伝わるよ」
 私は屈んでチェリンボを撫でる。チェリンボは「チェリ!」と明るく返事をしてくれた。
「じゃあお礼を言おうか」
 私たちは三人並んで、目をつぶる。アグノム、チェリンボの場所を教えてくれてありがとうございました。チェリンボもこんなに元気になりました。
 祈りを終えて、目を開けた。洞窟内は相変わらずしんと静まりかえっている。アグノムにお礼は届いただろうか。不安に思っていると、洞窟の天井から水滴が一粒落ちた。先ほどまでの水音と違う、澄みきった鮮やかな音が洞窟内に響き渡る。
「アグノム……?」
 なぜか、アグノムが今そこにいた気がした。姿も見えない、声も聞こえない。それでも、水滴が落ちた瞬間、アグノムはそこにいた。そんな気がした。
「アグノム、応えてくれたのかな」
 ダイゴさんは天井を見上げ、小さく呟く。きっとダイゴさんも同じように思ったのだろう。
「チェリ!」
 チェリンボは凛とした表情で、大きな声で鳴いた。洞窟内に反響した声は、きっとアグノムにも届いただろう。



 リッシ湖を出た私たちは、エイチ湖へ行く前にヨスガシティへと戻った。町の教会に併設された保護施設にチェリンボを届けるためだ。
「チェリンボ、ここだよ」
 施設には事前に話していたため、チェリンボの受け入れはスムーズに進んだ。いくつかある部屋の中でも、小型の草タイプのポケモンがいる部屋、そこがチェリンボの新しい家だ。
「ちぇり?」
「ここがね、チェリンボの新しいおうち。これからここで暮らすんだよ」
「チェリ……」
 チェリンボは辺りをきょろきょろと見渡すと、不安そうに私とダイゴさんを見つめる。新しい環境が不安なのか、それとも、私たちとの別れを惜しんでくれているのか。
「チェリンボ、また会いにくるよ」
 ダイゴさんはチェリンボの頭をよしよしと撫でる。チェリンボは「ちぇ~!」とくすぐったそうに表情を崩した。
「元気でね、チェリンボ」
 私はチェリンボを抱き上げて、ぎゅっと抱きしめた。ほのかに温かなチェリンボの体が、愛おしい。
「ナーエ?」
 いつの間にか一匹のポケモンが私の足下にやってくる。頭に葉っぱの生えた四つ足のポケモン、ナエトルだ。ナエトルはチェリンボを呼んでいる様子だ。
「チェリンボ、ナエトルだよ。お友達になれるかな」
 私はチェリンボをナエトルの隣に座らせる。チェリンボは警戒している様子を見せているけれど、すぐに打ち解けたようで笑顔でなにか話し始める。そして、チェリムやナゾノクサ、マダツボミがいる部屋の中央部へと二匹揃って駆けていった。
「大丈夫そうだね」
「……はい」
 チェリンボが施設に馴染めるかが心配だったけれど、問題なさそうだ。施設やスタッフの雰囲気も明るく、ここになら安心してチェリンボを預けられる。
「チェリンボ!」
 大きな声でチェリンボのことを呼んだ。チェリンボは明るい表情でこちらを振り返る。
「バイバイ」
 チェリンボに手を振って、別れを告げた。チェリンボも頭の葉を揺らして応えてくれた。
「……バイバイ」
 もう一度、小さく呟いた。バイバイ、チェリンボ。元気でいてね。涙をこらえていると、ダイゴさんが私の背中に触れた。
「行こう」
 穏やかな優しいダイゴさんの声。私は頷いて、楽しそうにポケモンたちと遊ぶチェリンボを目に焼きつけた。そして、手を繋いでダイゴさんと一緒に外へ出る。
「……寂しいね」
 施設を出て、すぐにダイゴさんが呟いた。
 シンオウに来てから、ずっとチェリンボと一緒にいた。そんなチェリンボとの別れは、ぽっかり胸に穴が開いたよう。
「はい……でも、きっとこれがチェリンボにとって一番だから」
 評判のいいこの施設なら、きっとチェリンボは心も体も健康に過ごせるだろう。チェリンボが幸せ、それがなによりの私の願い。
「無理しなくていいんだよ」
 ダイゴさんが、私の頬を大きな手のひらで包む。「無理なんてしていない」、そう言おうと思ったのに、ダイゴさんの手の温かさにその言葉は溶けてしまった。
「う……っ」
 こらえていた涙が溢れ出す。チェリンボの幸せが私の願い、その思いに嘘はない。ただ、それでも別れの寂しさが消えてなくなるわけではない。
 寂しい、寂しい、寂しい。ほんの短い旅だったけれど、ずっと一緒にいたのだから。
 私はダイゴさんの胸に顔を埋めて、ただただ涙を流した。



 ヨスガシティにチェリンボを預けたあと、私たちはまた二一六番道路へ来ていた。エイチ湖にいる知識の神ユクシーにお礼を伝えるために。
「寒……っ」
 チェリンボを見つけたあのときと同じく、二一六番道路はひどい雪だ。二一七番道路へ入っても、その雪は止む気配がない。
「チェリンボも来られたらよかったけど……どっちにしろこの雪は厳しかっただろうね」
 ダイゴさんの言葉で、チェリンボのことを思い出す。あれはリッシ湖を出た直後のこと……。

***

 リッシ湖の洞窟から出て、私とダイゴさんはタウンマップを開いた。次の目的地であるエイチ湖はここから北だ。だけれど……。
「チェリンボ、これからエイチ湖に行くよ」
 ダイゴさんはチェリンボにできるだけ視線を合わせるために、その場で屈む。そして、まっすぐにチェリンボに問いかける。
「でも、エイチ湖に行くには二一六番道路を通らなくちゃいけないんだ」
「チェリ……?」
「……雪の降る道だ。きみにはつらい道かもしれない」
 チェリンボはハッとした表情を見せると、体を震わせた。ダイゴさんの言葉の意味が、チェリンボもわかったのだろう。
 二一六番道路は、チェリンボがトレーナーに置いていかれた場所。雪の降る中で、ひどい捨てられ方をした場所だ。
「チェリッ! チェリッ!」
 チェリンボは嫌だと言わんばかりにふるふると首を横に振る。つらそうなその動作に、私は思わずチェリンボを抱き上げた。
「チェリンボ!」
「チェリ……っ!」
 チェリンボの背中を撫でて、どうにか宥めようとする。しかし、チェリンボは体を震わせたままだ。
「大丈夫。連れて行かないよ」
「チェリ……」
「怖いことはもうないから、大丈夫だから」
「ちぇ……」

***

「……チェリンボにはかわいそうなことを思い出させてしまったかな」
「でも、仕方ないです。聞かないで連れてきてもトラウマを呼び起こしてしまうし……逆に一緒に湖も回ろうと言ったのに、なにも聞かずにヨスガに預けるのは不誠実ですよ」
「……うん。そうだね。ありがとう」
 ダイゴさんは眉を下げ、少しばかり悲しそうな表情を見せる。ダイゴさんがこんな表情を見せるのは珍しい。
 もしかしたら、リッシ湖のあのやりとりをしたときから、ダイゴさんはチェリンボを泣かせたことをずっと気に病んでいたのかもしれない。
「私、ダイゴさんのそういうところ好きですよ」
 ダイゴさんは誠実だからこそチェリンボに問いかけたし、優しいからこそ今も傷つけたかもしれないと悩んでいる。私はダイゴさんの、そんな誠実で優しいところが好きなのだ。
「ありがとう」
 ダイゴさんははにかむと、大きく瞬きをした。目を再び開けたときは、いつもの明るいダイゴさんだ。
「ロッジのスタッフにもチェリンボの報告ができてよかったね。彼女も安心してた」
「はい。私たちが出発してからずっと心配してたみたい」
 二一六番道路にあるロッジ雪まみれ。最初にチェリンボを拾ったとき、あそこでチェリンボの手当てをさせてもらった。一緒に面倒を見てくれた彼女にもいい報告ができてよかった。
 そんな話をしながら、二一七番道路を歩いていく。雪深い道は歩くだけで一苦労だ。道の途中で見つけた無人の小屋で休ませてもらい、さらに北へ進んでいく。降りしきる雪の中、凍えながら、足を震わせながら、やっとの思いでエイチ湖へたどり着く。
 今までの湖と同様、私たちはエイチ湖の真ん中の洞窟へ入った。内部はシンジ湖、リッシ湖とそっくりだ。
「やっぱりポケモンはいないね」
「はい。ユクシーはきっと眠っているんでしょうね」
 私とダイゴさんは瞼を閉じてユクシーへ祈りを捧げる。
 ユクシー、チェリンボを助けてくれてありがとうございます。チェリンボは今、ヨスガの新しい家で楽しく過ごせています。本当に、本当にありがとう。あなたたち湖のポケモンたちのおかげで、チェリンボは今幸せにしています。
「……」
 ゆっくりと目を開ける。すっと、自分の中に風が吹いた気がした。
「今のは……ユクシーかな」
 その風をダイゴさんも感じたのだろう。「はい、きっと」と私はゆっくりと頷いた。
「もし……もしもいつかチェリンボが行けるようになったら、連れてきたいね」
「はい、もちろん。暖かくして来ましょうね。一緒にユクシーにお礼を言いたいです」
 いつかまた、チェリンボに会いに来よう。そして、チェリンボがこのことを乗り越えられたら、一緒にこの湖に来たい。そんな日が来ることを、心から願っている。
「あれ……」
 洞窟から出ると、あんなに降っていた雪が止んでいた。それどころか空は青く晴れ渡っている。
「こんな短い間に晴れるなんて……」
「珍しいね……でも、これならエアームドの空を飛ぶが使えそうだ。……っ!?」
 聞こえてきたのは、風を切る音。ホウエンの流星の滝で、ジョウトのコガネシティで、カントーのナナシマで聞いたものと同じ音。この音は……。
「ラティオス……!」
 上空高くにラティオスが飛んでいる。またラティオスに会えるなんて。驚きとともに高揚感で心がいっぱいになってしまう。
「やっぱりラティオスも世界を旅してるのかな」
「そうしたら私たちとルートまで一緒なんて、すごい偶然ですね」
「……」
「ダイゴさん?」
 ダイゴさんは顎に手を当て考える仕草を見せる。どうしたのだろうと顔を覗くと、ダイゴさんは真剣な表情をふっと崩した。
「いや、なんでもないよ。次の町へ急ごうか」
「はい!」
 そう言って私たちは、手を繋いで歩き出す。次の町へ向かうために。