香水の話
今日の夜はダイゴさんが私の部屋に来ることになっている。簡単に部屋の掃除や身支度をして待っていると、約束の時間からほんの数分遅れてダイゴさんはやってきた。
「お邪魔するね」
上着を脱ぐより早く、ダイゴさんは少し屈んで私にキスをする。外が冷えているのためか、触れた唇が冷たくて私は小さく体を揺らした。
「あれ? 香水つけてる?」
ダイゴさんは私に顔を寄せたまま首を傾げた。
「よく気づきましたね。昼間に友達の貸してもらったんです」
ダイゴさんとの約束の時間の前、お昼の数時間友人の家に遊びに行っていた。そのとき友人がいつもつけている香水を一吹きつけてもらったのだ。
「いつもはつけてないからね。興味ないのかと思ってたけど」
「興味ないわけじゃないけど、なかなかきっかけが……。ダイゴさんはいつもつけてますよね」
先ほどキスしたときにも、ダイゴさんの香水の匂いがふわりと香った。決して主張しすぎず、近くを通ると仄かに香るほどの上品な強さの香り。優しいフローラルなノートの中に、ほんの少しの色気が混じる。
「きみも興味あるなら、今度一緒に買いに行こうか」
「え……っ、いいんですか」
「もちろん、きみがいいならね」
確かに一人で選ぶより、誰かのアドバイスがあった方がいいかもしれない。ダイゴさんならセンスも良さそう。
「じゃあ……今度お願いしますね」
「うん。楽しみだな」
自分の物を買いに行くわけでもないのに、ダイゴさんは嬉しそうに笑う。ダイゴさんはいつもそう。私の希望を叶えるとき、彼はいつも満面の笑みを私に見せる。そんなとき、私はこの人に愛されているんだなあと実感する。くすぐったくて、温かな気持ちになる。
あれから少し時間がたち、ようやく私たちは約束の香水店に行くことになった。待ち合わせのデパート前に時間通りに行けば、ダイゴさんはすでにそこで待っている。
「ごめんなさい、待ちました?」
「大丈夫だよ。少し久しぶりだね」
ダイゴさんの言うとおり、こうやって会うのは久しぶりだ。ダイゴさんが長めの出張に行っていたり、私は私で友人の結婚式や遠い親戚の法事が重なってなかなか会う時間が取れなかった。
「カロス出張だったんですよね。お疲れさまです」
「うん。おみやげ、あとで渡すよ」
「わ、ありがとうございます。……あれ。ダイゴさん、今日は香水つけてないんですか?」
ダイゴさんの側に行くといつも香るはずのあの香水が、今日は感じられない。首を傾げていると、ダイゴさんは「うん」と頷いた。
「いつも同じのをつけていたからね。ボクも新しい物を買おうかと思って」
その言葉で、今まであった漠然とした不安が確信に変わる。
「あの、ダイゴさん……」
「ん?」
「私、あんまり高すぎるお店だとちょっと……」
そう、金銭面での不安だ。話の流れでダイゴさんのおすすめの店に行くことになってから小さな不安を感じていた。その上、ダイゴさんも買おうとするお店なんて、私が見たこともない値札が貼られていそう。
「大丈夫だよ。ボクもよく行くところだから」
「すみません、余計に不安です……」
「あはは。今回は本当に大丈夫だから」
恋人にこんなことを言うのもなんだけれど、この人の金銭感覚だけは本当に信用できない。どうしよう、なにも買えずに完全に冷やかしになってしまうかもしれない。不安を抱えつつ、ダイゴさんに連れられるまま、百貨店の中に入っているお店へと向かった。
「ここだよ」
ダイゴさんが示したのは一階の奥にあるお店だ。上品な雰囲気の中に珍しく、ポケモンをあしらったデザインの小物が置いてある。
「あ……本当に思ったより安い」
ショーウインドウの香水を見てみると、確かに普段使いをするには高いけれど、特別なときにだけ使う分と思えば私でも手が届きそうな金額だ。
「ここはポケモンに優しい香水店だから。あらゆるポケモンが苦手な香りを避けてるんだ。値段を抑えていろんな人に使ってもらいたいってコンセプトなんだよ」
「へえ……ダイゴさんのポケモンはだいたいの匂いとか大丈夫そうですけど」
「ボクのポケモンが大丈夫でも、職業柄いろんなトレーナーやポケモンに会うからね」
確かに私と違ってチャンピオンのダイゴさんは多くの種類のポケモンに関わるだろう。なるほどと頷いていると、女性の店員さんが「お探しですか?」とやってきた。
「ダイゴさんも新しいの買いたいんですよね。私のことはいいから自分の見てきてください」
「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」
メンズコーナーへ行くダイゴさんの後ろ姿を見送って、私は先ほどの店員さんに香りの好みを伝えた。彼女はすぐにいくつかテスターを用意してくれる。
「女性用ですとこのあたりが人気ですよ」
「ありがとうございます。うーん……」
何種か嗅いでみるけれど、全体的に私には甘すぎる気がする。それを伝えればまた別の物を用意してくれるけれど、なかなかピンと来る物がない。
「もうちょっと落ち着いたほうが好きかなあ……」
「でしたら女性用よりユニセックスのものがいいかもしれませんね」
「なるほど……。でも、こんなたくさん試してると麻痺してきちゃうかも」
「ふふ、そうですね。よければお外の空気を吸ってきてもらっても大丈夫ですよ」
こちらおすすめですが、お外行かれますか? と店員さんに聞かれ、私は先に香水を試すことにした。ムエットに香水を一吹き。全体的に落ち着いた香りの中に、上品な甘さがある。今までの中で一番好みに近い。
「肌にもつけてみますか?」
「じゃあ……お願いします」
店員さんに勧められるがまま、手首にも香水をつけてもらった。うん、やはり好きな香りだ。優しい雰囲気の中に、最後に残る色香のある香りも素敵だ。
「いい香り……」
「お気に召されました?」
「はい……いいですね」
どうしよう。買ってしまおうか。お高めではあるけれど、決して手の届かない金額ではないのが悩ましい。
……でも、この香りどこかで……。
「それ、気に入ったんだ?」
「わっ!」
突然後ろから降ってきたダイゴさんの声に驚いて大きな声を上げてしまう。「驚かせないでください」と振り返ってダイゴさんの顔を見た瞬間、今度は「あ」と小さく声を漏らした。先ほどの香りの正体を思い出したのだ。そうだ、あの香水は。
「あ、つけてもらったんだ」
「え、あ、待っ」
私の制止をよそに、ダイゴさんは香水をつけた私の手首に自分の顔を寄せる。彼は一瞬目を丸くしたのち、満面の笑みを作る。
「どうされますか?」
「いや、あの」
「一つ頂けますか?」
ダイゴさんはニコニコと笑顔のまま、私の言葉を聞かずに店員さんへそう告げた。
「あ、あのダイゴさん」
「大丈夫、ボクが買うものから」
「プレゼント用にされますか?」
「いえ、自宅用で構いません」
「かしこまりました。少々お待ちください」
店員さんがバックヤードへ向かうのを見送りながら、ダイゴさんは嬉しそうに私に向かって口を開く。
「あの香り、そんなに気に入ってたなんて知らなかったな」
そう、あの香水は、いつもダイゴさんがつけているものだ。普段ならすぐに気づくのに、いろんな香りを嗅いだあとで少し鼻が麻痺していたせいか気づくのに時間がかかってしまった。
「あの香り、そんなに好きだったんだ?」
ダイゴさんは相変わらず「ニコニコ」なんて擬音が聞こえてきそうな笑顔を向けてくる。笑顔を絶やさない人だけれど、今回は本当に機嫌がいいのだ。そして、上機嫌な笑顔の中に、わずかに見えるのはからかいの色。
「……わかってるくせに!」
ダイゴさんはときどき意地の悪いことを言ってくる。全部わかっているくせに、こうやって私から言わせようとする。
「言って欲しいな。二人きりなら言ってくれる?」
ダイゴさんは少し屈んで私に目線を合わせてくる。そうやってじっと目を見つめられると、私が断れないとわかっているのだ。
「あなたを思い出すから好きなんです」、その言葉を私がダイゴさんに告げるまで、あと一時間はかからない。
*
二人でベッドの中に入ったときに、香ってきたのはあの香水の匂い。
「……っ、シャワー浴びた後にわざわざ香水つけたんですか」
「きみが好きだって言うから」
それ、絶対嘘でしょう。いや、嘘ではなくともそれだけではないはずだ。
側を通るときは仄かに香る程度の香水の匂いも、この距離だとあまりに強い。頭の中に直接伝わるほどの強い刺激に、頭がくらくらしてくる。
ダイゴさんが私の首筋に顔を寄せる。僅かに上がった体温が、香水の香りを際立たせていく。
ダイゴさんの香りに、溺れていく。心臓が、止まりそう。