ダイゴさんがお見合いするという噂を聞く話

 ダイゴさんの家で一晩過ごしてから、三日がたった。今日は水曜日、ダイゴさんが出社する日だ。
「ねえねえ、知ってる?」
 仕事の最中、隣の席の先輩が悪戯っぽい笑顔で話しかけてきた。
「なんですか?」
「うちの会社にダイゴさんっているじゃない。社長の息子の」
 突然出てきた恋人の名前に、心臓が跳ねる。私は飲んでいた缶コーヒーをデスクに置いて、一つ息を吐いた。
「ダイゴさんがどうしました?」
 きっと「今日出社してるらしいよ」という話が振られるのだろう。そう思って聞き返したのに、先輩の口からはまったく想像していなかった言葉が出てきた。
「ダイゴさん、結婚するんだって」
「…………え?」

 同僚が集まったランチのときも、その話題で持ちきりだった。噂をまとめると、ダイゴさんがどこかの令嬢とお見合いして、結婚間近だという話らしい。その話題は昼休憩が終わってもなお続く。
「いいな~。わたしも玉の輿乗りた~い」
「よく言ってるよねえ、それ」
 同僚たちが盛り上がっている隣で、私はパソコンと向き合った。
 彼女たちがこの話題に花を咲かせるのも理解できる。リーグチャンピオン、大企業の御曹司、その上容姿も整っている人だから、みんながこういった話題に熱が入るのも仕方ない。
 そう、仕方ない。自分に言い聞かせながら乱暴にキーボードを叩いた。
 人の噂なんて、おひれがつくもの。お見合いだの結婚だの、なにかの間違いのはず。間違いに決まっている。だって私は、なにも聞いていないのだから。
 ダイゴさんは優しい人、そして誠実な人だ。恋人である私に隠れてお見合いをしたり、ましてや結婚を決めたりなんて、そんなことをする人ではない。私が一番知っている。
「……っ」
 ずっと画面を凝視していたせいか、目の乾きがひどいことに気づく。鞄の中からいつもの目薬を取り出そうとして、先日ダイゴさんからもらった石に指が当たる。お守りのようにポーチの中に入れていたのだ。
 手の平に乗せた小さな石は、淡い光を放っている。スカイブルーの輝きは、ダイゴさんの瞳のよう。
 私がこの石に惹かれたのはとても単純な理由だ。この石を見ていると、ダイゴさんを思い出すから。ただそれだけ。「例の噂、なにかの冗談ですよね?」と心の中で水色の石に語りかけるけれど、当然答えは返ってこない。
「あ、噂のダイゴさんだ」
 隣の先輩の言葉に、私はぱっと先輩の視線の先を見た。確かにそこにいるのはダイゴさんだ。うちの部署にダイゴさんが来るのは珍しい。
 ダイゴさんはどうやら部長と話があるようで、経理部の入り口で待つダイゴさんの元へ、うちの部長が小走りで向かっている。
「噂、本当なのかなあ。ねえ、どう思う?」
 先輩のため息に私は「いやあ、どうでしょう」と返すのが精一杯だった。
 どうでしょう、じゃない。なにかの間違いに決まっている。そう、間違いのはず。ダイゴさんは優しい人、私に黙ってそんな話を進めるはずがない。
 しかし、彼の周りは? 大企業であるデボンの跡取り息子となれば、縁談を申し込みたい人間は多くいるだろう。ダイゴさんがそれを断れなかったら? 私にはまだ言えていないだけ? さまざまな考えが巡っては消えていく。
「やっぱり、ああいう人はわたしたちとは住む世界の違う人間と結婚するんだねえ……」
 私の返事を無視するかのような先輩の言葉に、胸にナイフが刺さったかのような痛みが走る。乾いた喉を少しでも潤そうと唾を飲み込めば、ゴクリと低い音が鳴る。
「あ……」
 入り口で話すダイゴさんと、目が合った。
 が、その視線はすぐに外される。
 いや、それは当たり前のこと。恋人であることは社では秘密だと言ったのは私の方。ここでアイコンタクトなんてされたらシンプルに困る。
 そう。そう。当然のこと。モヤモヤする必要なんて、どこにもない。
 目の乾きのせいで、視界が霞む。目に映るダイゴさんの姿も、靄がかかったように朧気だ。私は手のひらの水色の石を握りしめた。
「痛……っ」
 右手の人差し指に鋭い痛みが走る。慌てて痛みの場所へ視線を向ければ、小さな傷ができており、そこから血が出ていた。いつの間にか石が欠けていて、尖った部分で切ってしまったらしい。ポーチに入れていたポケットティッシュで押さえると、じわりと赤い血が白いティッシュに広がった。しかもポーチの中に目薬は見当たらない。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだ。
 私は目をぎゅっと閉じた。ほんの少し瞳を潤して、再びパソコンに視線を向けた。もう入り口の方は見ないようにして。