ダイゴさんがお見合いするという噂を聞く話
その日の夜。仕事を終えデボン近くの自宅に帰ってきてすぐに、ダイゴさんから電話がかかってきた。
「ねえ、今日家に行ってもいいかな。せっかくカナズミまで来たから」
「いいですけど……」
「よかった。仕事が終わったら向かうね」
ダイゴさんは噂が流れていることを知らないのだろうか。いつもと同じダイゴさんの声に、安心するような、戸惑うような。複雑な気持ちを抱きながら、小さな1Kの部屋で彼を迎える準備を始める。
「やあ、急に悪いね」
「いいえ、どうぞ」
電話の一時間後、部屋にダイゴさんがやってきた。いつものように彼を迎え入れて、「なにか飲みます?」「ありがとう。コーヒーもらえるかな」「はーい」とやりとりをして食器棚からダイゴさんのカップを取り出した。
噂の件、私から聞くべきなのだろうか。それとも黙っているべきだろうか。悩みながら薄いブルーのカップにインスタントコーヒーの粉を入れる。
「きみと目が合ったときは焦ったよ。またきみに怒られるところだった」
はは、とダイゴさんの笑い声が聞こえてくる。私はキッチンを向き彼には背を向けているから表情まではわらかないけれど、きっといつもの笑顔を浮かべているのだろう。
確かにあそこで笑いかけられたら、きっと私は今ここで怒っていたはずだ。それでも、少し、胸に小さな淀みがある。
「あ、」
淹れ終えたコーヒーをダイゴさんのもとへ持って行こうと振り返ると、ダイゴさんと目が合った。その瞬間、彼はニコリと笑顔を浮かべる。
ダイゴさんはいつもそう。待ち合わせで私の姿を見つけたときや、ふとした瞬間に目が合ったとき、嬉しそうに笑ってくれる。その笑顔を見ると、私はほんの少し気恥ずかしくて、温かな気持ちになる。
今の笑顔に、昼間の会社での逸らされた視線が重なった。
「あっ」
テーブルの足につまずいて、カップを落としてしまった。ガシャンと派手な音を立てて、カップは割れた。
「わ、大丈夫?」
「すみません」
慌ててしゃがんでカップの破片を拾うと、ダイゴさんも駆け寄ってすぐに手伝ってくれる。
「これダイゴさんのカップなのに」
「いや、もともときみの部屋にあったものだし……タオル持ってくるね」
あらかた破片を拾い終え、ダイゴさんは立ち上がる。あ、行ってしまう。ダイゴさんが私の前から、消えてしまう。私は半ば無意識にダイゴさんの服の裾を掴んだ。
「あ……っ、すみません」
慌てて手を離したけれど、掴んだ事実は消えない。当然ダイゴさんは目を丸くして驚いた表情を見せる。
「……なにかあった?」
ダイゴさんは再びしゃがんで私に視線を合わせると、心配そうな声を出す。
「部屋に来たときから少し気になってたんだ。元気がなさそうで」
「それは……」
「体調悪かったのかな。ごめん、無理に来てしまって」
「違……」
ああ、これはもう聞くしかなさそうだ。私は観念して、再び口を開く。
「……ちょっと、噂があって」
「噂?」
「……ダイゴさんがお見合いして結婚するって噂」
私の言葉に、ダイゴさんはまた先ほどと同じように驚いた表情を私に向ける。
「あー……」
そして困ったように笑うと、私の手を取って立ち上がらせる。
「ごめん、ちゃんと話すのがよさそうだ」
すぐに「そんなのただの噂だよ」と笑ってくれると期待していた。潰えた期待に心も潰れそうになるけれど、ダイゴさんの話を聞くため、私は彼と共に二人掛けのソファに座った。
「お見合いの話があったのは本当だよ」
ダイゴさんの言葉に私の心臓は大きく跳ねる。震える唇で言葉を発しようとするけれど、その前にダイゴさんは続きを話し始めた。
「でもボクにはきみがいるから、話だけで断ったんだ。相手とは会ってもいないよ。きみが心配することはなにもない」
ダイゴさんのはっきりとした声と口調、そしてなにより私を見つめる瞳が真っ直ぐで、その言葉に嘘がないことはすぐにわかった。
「きっと噂におひれがついたんだね」
「そうですね……」
「すぐ断ったから話す必要もないかなと思ってたんだけど、余計に心配かけてしまったね。ごめん」
私の頬を撫でるダイゴさんの手は温かい。いつもの彼の手のひらの温度だ。
「すみません、一人で勝手に心配して落ち込んだりして……」
ダイゴさんは誠実な人だ。私になにも言わずに、お見合いをして結婚を決めるなんて、そんなことをする人ではない。私が一番わかっている。
「?」
ダイゴさんは驚いた表情で私の目元を撫でる。その仕草で、ようやく私は自分が泣いていることに気づいた。
「そんなに不安にさせてしまったんだね。ごめん」
「違……」
今回の噂を耳にして、不安を感じたのは確かだ。けれど、それはただの引き金に過ぎない。
ダイゴさんは優しい人、誠実な人。わかっているのに、不安が消えなかった理由。
「ダイゴさん……」
私はダイゴさんの手を握る。うまく力が入らない中で、できるだけ強く。そして、小さな声で言葉を絞り出した。
「行かないで……」
きっとダイゴさんからしたらあまりに唐突で意味の分からない言葉だろう。それでも、私から出た言葉はそれだった。
「どこにも行かないよ。突然どうしたの?」
ダイゴさんは戸惑った様子で私の顔をのぞき込む。
「……他にもなにかあった? 話してくれたら嬉しいな」
優しい声に促され、私は少しずつ言葉を紡ぎ出す。
「私は、ダイゴさんと住む世界も違うし」
昼間の先輩の「ああいう人はわたしたちとは住む世界の違う人間と結婚するんだね」という言葉がずっと心に棘となって刺さっている。
私はただのデボンの平社員。ポケモンが強いわけでもないし、どこかの令嬢でもない。ダイゴさんは、どうして私を選んだのだろう。ずっとずっと心の隅で思っていたことが、今日あふれ出した。
「物に執着もないから、私のことも置いてどこか行っちゃうんじゃないかって」
ダイゴさんは物に執着がない。高価なものでも珍しいものでも、ひょいと人に渡してしまう。そんな人だから、ある日突然私の前からいなくなってしまいそうな、危うい雰囲気を持っているように思えて仕方ない。
ダイゴさんは優しい人、誠実な人。そんなことをする人じゃない。わかっている。でも、それでも、ずっと不安が消えない。消えない不安が、形を持って襲ってくる。
「ごめんなさい、ダイゴさんはそんなことする人じゃないって、わかってるんです」
「それでも不安だったんだね」
私の勝手な言い分を、ダイゴさんは否定せずに聞いてくれる。温かな口調に、また一つ涙がこぼれた。
「不安にさせてしまってごめんね」
ダイゴさんは私を抱き寄せて、子供をあやすように私の背中を優しく撫でた。大きな手のひらの感触が、私の背中を少しずつ温める。
「大丈夫。きみを置いてどこかに行ったりしないから」
甘い声が私の耳元に響く。優しくて、温かくて、空のように澄んだ声だ。
「ボクはね、確かにいろんなものをすぐに人に渡してしまうし、あまり物に固執しないかもしれない」
ダイゴさんは私の頬を両手で包んで、私の目をじっと見つめる。ダイゴさんの水色の瞳は、あの石とそっくりだ。
「でもそんなボクにも手放したくないものはあるんだよ。なにかわかる?」
穏やかな微笑みと共に尋ねられ、私は答えられず唇を震わせた。
「のことだよ」
ダイゴさんの言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。痛くて、息ができないぐらい苦しくて、そして甘い響きにまた涙があふれ出る。
「のことだけは離さないよ。離したくないんだ」
ダイゴさんは頷くだけでなにも言えない私を抱きしめたまま、言葉を続ける。
「別に世界だって違わない。同じ場所に住んで、同じ物を見ているよ」
「はい……」
「ボクはずっとのそばにいるよ。のそばじゃないと、ボクのほうがダメになりそうだ」
「……ダメになります?」
「なるよ」
ダイゴさんは目を丸くして「当然だろ?」と言わんばかりの表情で私を見つめる。子供っぽい表情がなんだか可愛くて、私は思わず笑ってしまった。
「やっと笑った」
「あ……」
優しい言葉にとともに頬をそっと撫でられて、自分の心がだいぶ落ち着いていることに気づく。ダイゴさんにたくさん言葉をかけられたおかげだろう。涙を拭って、ダイゴさんに預けていた体を起こした。
「すみません、泣きわめいちゃって……」
いい大人が勝手に一人で不安になって泣きわめいてしまうとは。冷静になってみると恥ずかしい上に、ダイゴさんにも申し訳ない。決まりが悪くて私は下を向いた。
「いいんだよ、このぐらい」
「……ダイゴさん、怒らないんですか?」
「どうして?」
「だって……ダイゴさんを疑うようなこと言ったのに」
ダイゴさんが私を置いてどこかに言ってしまいそう、なんて、ダイゴさんのことを信用していないとも取れる言葉だ。ダイゴさんは文句の一つも言わなかったけれど、さすがの彼も疑われていい気はしなかっただろう。
「信用していても不安になることはあるからね。ボクにだってそういうことはあるし、怒るわけないよ」
ダイゴさんはよしよしと言わんばかりに私の頭を大きな手で撫でる。あまりにも甘い言葉に、私は息を吐いてダイゴさんに体を寄せた。
「……ダイゴさん、私に優しすぎますよ」
もっと怒ってもいい場面なのに、ダイゴさんはそうやってすぐに私を甘やかす。こんなに甘やかされていると、いつの日かどろどろに溶けてしまいそう。
「のことが好きだから、優しくするし甘やかすよ。一生ね」
ときびり甘い言葉をかけられて、自分の頬が熱くなったのを感じる。この人は本当にどこまでも私のことを甘やかす。「不安になることなんて、なにもないんだよ」という声が聞こえてきそう。
「不安になったら、いつでも言って。いつでも何度でも、同じ言葉を返すよ」
「……ありがとうございます」
ダイゴさんの言葉が心に沁み入っていく。
ダイゴさんは優しい人、誠実な人。また不安になることはあるかもしれない。けれど優しすぎるこの人は、何度でも私を抱きしめてくれるのだろう。
あれから数日。欠けてしまった水色の石はダイゴさんが研磨してくれた。以前よりなめらかな手触りになった石は、どこを触っても怪我をすることはないだろう。
「きみがこんなに一つの石に思い入れを持ってくれるなんてね。もしかして石に目覚めた?」
ダイゴさんは期待の面持ちで私を見つめてくるけれど、残念ながらその期待に沿うことはできない。
「いや、申し訳ないですけどそうではなく……」
「そうか、残念……。でも、ならどうして?」
いつもの私なら、ここで素直に言うのは恥ずかしくてなんとか誤魔化していただろう。しかし、先日ダイゴさんの前で泣きわめいたり彼を疑うようなことを言ったりとした件がやはりどこか申し訳なくて(ダイゴさんは気にしなくていいと言ってくれているけれど)、今回ばかりは素直になることにした。
「それは……」
「それは?」
「この石がダイゴさんの瞳の色に似ていたので……」
う。改めて口にするとやはり恥ずかしい。羞恥の感情がふつふつと湧いてきて、居たたまれず目を泳がせる。
「……」
「あ、あの、ダイゴさん……」
しかも、ダイゴさんがなにも言ってくれないのが羞恥に拍車をかける。一言でもいいからなにか言って欲しい。ちらりとダイゴさんへと視線を戻せば、彼は目を丸くして私を見つめている。
「わっ」
そして次の瞬間、ダイゴさんはぎゅっと私を抱きしめた。
「今日はずいぶん可愛いことを言うね」
「た、たまには……」
「いや、はいつも可愛いけどね」
抱き寄せられているから、嬉しそうなダイゴさんの声が耳元に響く。ふわふわとした息が小さく耳を刺激する。くすぐったくて身をよじると、ダイゴさんは石を持っているほうの私の手を取った。
「でも少しこの石に妬けるな」
「い、石に妬かないでください……」
「だって、いつもと一緒にいるんだろう?」
少し膨れた顔をしたダイゴさんを見て、思わず笑いが漏れる。冗談ではなく本気で嫉妬しているようだ。子供みたいなことを言うダイゴさんが可愛くて、私は彼を抱きしめ返す。
「ダイゴさんも、ずっとそばにいてくれるんでしょう?」
この間そう言ってくれたじゃないですか。そう返せば、ダイゴさんは優しい笑みを浮かべて私の額にキスをした。
「そうだね、そうだよ」
「そうでしょ?」
「それでも、やっぱりこの石には妬けるんだけどね」
「もう」
ダイゴさんの言葉にくすくすと笑っていると、「本気なんだけど」と拗ねられてしまった。
こんな小さなやりとりが、愛おしい。