変わりゆくもの/2

「まったくもう!」
 思うだけでは収まらず、怒りの声がわたしの口からこぼれ落ちる。
 下町、自宅前。わたしはブラシと桶を持って自宅周辺の掃除に勤しんでいた。
 ふつふつと沸き上がる怒りで、ブラシを持つ手にも力が入る。目の前のしつこい汚れに怒っているのではない。ユーリに腹を立てているのだ。さんさんと降り注ぐ太陽の光すらも、今は恨めしい。
「やあ、。精が出るね」
「フレン」
 ブラシで石畳の地面を擦っていると、フレンがやってきた。フレンはユーリと同じく下町の有名人で、わたしと同い年の幼馴染みだ。
「聞いたよ、またユーリと喧嘩したって?」
 フレンの爽やかな笑顔に毒気を抜かれかけたけれど、「ユーリ」という名前を聞いてわたしは再び顔をしかめた。
「またって……フレンだってしょっちゅうユーリと喧嘩してるじゃん」
「それは否定しないけど……今回はどういう理由で?」
 フレンの穏やかな口調に、わたしも心を落ち着けようと息を吐いた。できるだけ怒りを出さずに、淡々と数時間前の出来事をフレンへ話し出す。
「本当は今日、ユーリの紹介で市民街で仕事する予定だったの」
 下町の住民は、子どもも含め市民街へ働きに出ている者も多い。その多くが日雇いで、ある程度馴染みの仕事先はあるものの、日々違う仕事に勤しむのが常だ。わたしやユーリも例外ではない。
「それなのに今朝になって急に『やっぱ紹介の話、なしな』って言ってきて。理由も教えてくれないし……」
 仕事自体がなくなったのならわたしだって怒りはしない。そういうことなら今までも少なくない回数あったから。しかし、聞いてもユーリは曖昧にはぐらかすだけ。結局最後まで理由を話してはくれなかった。
 そのあと市民街で別の仕事を探したけれど、今日はどこもいっぱいで仕事にありつくことはかなわなかった。おかげで今日一日を無駄にしてしまった。
「ああ、あれか……」
 フレンはわたしの話を聞き終えると、顎に手を当て目線を上に移す。なにか事情を知っている様子だ。
「理由、知ってるの?」
「あ、いや……」
 フレンは体の前で両手を振って誤魔化す仕草をするけれど、それで引き下がるわたしではない。ずいと一歩フレンに近づいて「知ってるんでしょ」と重ねて聞けば、フレンは観念したように頬をかいた。
「その……危ない仕事だったみたいだからね。にやらせたくなかったんじゃないかな」
「え……」
「僕も人づてに聞いた話だけど……なんでも軽作業だって触れ込みで人を集めて、ロクな装備もなしに危険な現場で発掘作業をさせるとか……」
 ふつふつとしていた怒りが、急速にしぼんでいく。そんな話、わたしはまったく聞いていない。
「……それならそう言えばいいのに」
 わたしは石畳の地面を見つめながら、かすれた声で呟いた。ひとりで勝手に怒って、わたし、バカみたいじゃない。
「ユーリの悪い癖だよね。でも、に余計な心配かけたくなかったんだと思うよ」
「……ユーリは今仕事?」
「そうみたいだ。夕方には帰ってくるんじゃないかな」
「そっか。教えてくれてありがとうね、フレン」
「どういたしまして」
 市民街へ向かうフレンの後ろ姿を見送って、わたしはうつむいた。
 丸い桶の中の水に、情けない自分の顔が映っている。



 陽が沈みかけ、下町の水道魔導器周辺は夕焼け色に包まれている。
 わたしは子どもたちの遊ぶ声を聞きながら、空き家の壁に寄りかかり市民街へ続く坂道を見つめている。今は市民街で仕事をしてきた下町の住人の帰宅の時間帯だ。
「あ、!」
 女友達のひとり、ウラが坂道の途中からわたしの元へと駆け寄ってくる。彼女も仕事帰りのようだ。
「誰か待ってるの?」
「うん、ちょっとね」
「そっかあ、今日うちで夕飯食べよって誘いたかったんだけど……」
「また今度にするよ。おばさんとおじさんによろしくね」
「うん、伝えとくー」
 家に帰るウラに手を振って、再び坂道を見やる。すぐに目当ての人物はそこに姿を現した。
「ユーリ」
 声をかけると、ユーリは目を丸くする。朝まで喧嘩をしていた相手が話しかけてきて驚いたのだろう。
「……おう」
「その怪我、どうしたの?」
 ユーリの頬や腕には切り傷や殴られた跡とおぼしき傷がある。朝にはなかった傷だ。
「ちょっとな」
「また騎士団と揉めたの?」
「そんなとこ」
「手当てするよ、座って」
 持ってきていた救急箱をユーリに見せると、ユーリは再び目を丸くする。
「なんで救急箱持ってんだよ」
「ユーリが怪我して帰ってくるような気がしたからね」
「ふーん……」
 ユーリは特に反抗することもなく、水道魔導器前の段差部に腰かけた。わたしも隣に座り、ユーリの傷の手当てを始める。
「今朝のことだけどさ……」
 ユーリの腕に包帯を巻きながら、わたしはゆっくりと話し出す。
「危ない仕事だからわたしに紹介するのやめたって、フレンから聞いたよ。怒ってごめん」
 まずは誤解で怒ったことを謝らなければ。謝罪の言葉を伝えると、ユーリは「フレンのやつ……」と不満そうに口を尖らせた。
「ありがとね」
「別に。オレが紹介した仕事でなんかあったら後味悪ぃだろ」
 ユーリは大人しくわたしの手当てを受け入れながら、ぶっきらぼうな口調で答える。
 ユーリはいつだって大事なことを言わない。きっと、知らないうちにユーリに守られていることがたくさんあるのだろう。
「……前もわたしの家を覗いてた男を追い払ったって、ハンクスさんから聞いた」
「じいさんもかよ……。お喋りが多い町だな」
 ユーリは苦い顔で、大げさにため息を吐いた。
「ときどきいるんだよ、一人暮らしや女だけの家見つけようとするやつだ。市民街か他の区画から来てるんだか知らねぇけどさ」
「そう……」
 そんなこと、わたしは知らなかった。なにも聞いていない。なに一つ、知らない。
「この怪我も、本当は仕事の紹介断ったからじゃないの?」
 わたしは手当ての手を止め、ユーリの目をじっと見つめた。
 ユーリがわたしに紹介しようとしていた仕事は危ないものだったという。そんな仕事なのだから、斡旋を断ったらなにかされてもおかしくはない。
「違ぇよ」
 ユーリはふいと視線を逸らして、吐き捨てるようにそう言った。
 ユーリはわたしの目を見てくれない。嘘を吐いているのは明白だ。
 わたしの心に、握り潰されるような鈍い痛みが走る。
「わたし、守られてばっかりじゃない」
 わたしはうつむいて、絞り出すように声を出した。
 ユーリへの怒りでいっぱいだった朝の自分が恥ずかしい。ユーリはわたしを守ってくれていただけだったのに。ユーリはわたしに文句を言われても、ただ黙ってそれを受け入れて、余計な心配をかけないようにと気を遣っていた。すべて、わたしの一人芝居だったのだ。
「……オレが勝手にやってることだろ」
 わたしはなにも答えずに、ユーリの手に包帯を巻いた。昔は同じぐらいだった手も、もうユーリの方が一回り以上大きい。
 子どもの頃は守られるばかりではなかったはずだ。ユーリは幼い頃から喧嘩が強かったけれど、強いからこそ年上グループに目をつけられることもあった。少しの年の差ならユーリは年上でも勝ってしまうのだけれど、年齢差が広がればそういうわけにもいかない、ましてや子どもの頃の年の差は今よりずっと大きい。そんなときはわたしが間に入ったり、加勢に入ったり……余計なことするなと怒られたこともあるけれど、子どもなりにユーリを守ろうと必死だったのだ。
 いつの間にか、わたしが守られてばっかりだ。しかも、子どもの頃とは違う、体だけじゃない、心まで守るような方法で。
 なにを話せばいいかわからず、わたしはただ黙って手当てを続けた。ユーリもなにも言わないから、わたしたちの間には沈黙だけが流れている。
 いつしか陽も落ちて、周囲で遊んでいた子どもたちもいなくなった。近所の家から漏れ聞こえる団欒の声だけが響いている。
 ユーリの頬の傷の泥を、水道魔導器の水で湿らせたハンカチで拭う。「汚れるぞ」と言われたけれど、「洗えばいいから」と答えた。
「はい、手当て終わり」
「サンキュ」
 ユーリは肩を回して包帯の具合を確認する。ひとまず問題なかったようで、「いい感じだな」と呟いている。
 ユーリもフレンも幼い頃からなにかと傷が絶えないタイプなので、幼馴染みのわたしはすっかり怪我の手当てに慣れてしまった。わたしに限らず、ユーリやフレンと仲のいい人たちはみんなそう。
「……ユーリも危ない仕事しちゃだめだよ」
 包帯やガーゼを救急箱に戻しながら、ユーリに言葉をかける。
 ユーリはただでさえ騎士との揉め事やらフレンとの鍛錬やらで怪我が多い。これ以上傷を増やすような真似はしてほしくない。ましてやリスクの高い仕事は、怪我の危険度も騎士やフレンの相手とは桁違いだろう。
「オレも仕事は選んでるよ」
「ん……」
 口ではそう言うくせに、こうやって怪我をしてるじゃない。心の中で呟いた。
 ユーリの背は高くなった。それでも中身は変わらないと思っていた。
 実際、皮肉屋で口と態度が悪いところは相変わらず。正義感が強くて優しいところも変わらない。
 でも、ユーリは大人になっている。幼い頃とはもう違うのだ。
 ユーリがわたしを守ろうとしてくれたことに、感謝の気持ちはもちろんある。けれど、ユーリはいつも大切なことを言わないし、なんでもひとりで抱えようとしてしまう。
 それが、少し寂しい。
「わっ」
 俯いていると、ユーリがわたしの頭をぐしゃっと撫でてくる。突然のことに、わたしは目を白黒とさせてしまう。
「ちょ、なにするの」
「やりにくいんだよ、おまえがしおらしいとさ」
 しおらしい。思ってもみなかった言葉に、わたしは目を丸くする。
「なによそれ、どうせいつもは気が強い女ですよ」
「そう、その感じ」
「ユーリ!」
 ユーリは怒るわたしを見て、からかうような笑みを浮かべる。
「気ぃ強え女」
 軽く笑うユーリを見て、わたしもふっと気持ちが軽くなる。
 ああ、また気を遣われてしまった。
 寂しい気持ちはまだ消えはしないけれど、ユーリの気遣いをふいにしたくはない。わたしは「誰のせいよ」と大げさに唇を尖らせてみせた。
「さて、帰るか」
 ユーリはひょいと救急箱を持つと、わたしの家のほうへと歩き出す。どうやら家まで送ってくれるつもりらしい。
「わ、待ってよ」
 わたしは慌ててユーリを追いかけて、ユーリの手から救急箱を取った。怪我をしているくせに、人の荷物まで持とうするんだから。
 本当は送ってもらうのも遠慮した方がいいのかもしれないけれど、変な男がうろついているという話もある。わたしの家は水道魔導器からほど近いけれど、それでもユーリが一緒に来てくれるのはありがたかった。
 軽い世間話をしていれば、あっという間にわたしの家に着く。一人暮らしのため、当然家に明かりはついていない。一緒に住んでいた父は五年前に亡くなった。
「手当て、サンキュな」
「こっちこそありがと」
「礼はもう言われたよ」
「家まで送ってくれたでしょ」
「ああ、そっちね」
 仕事の件も含めて言ったんだけどね。言ったところでその言葉は受け取ってはくれないだろうから、それはわたしの胸に秘めておいた。
「じゃあな、たまにはうちに飯食いに来いよ」
 ユーリは後ろを向いて、ひらひらと右手を振る。
 その手に呼応するように、黒髪のポニーテールが揺れていた。