変わりゆくもの/3

 わたしたちの住む下町は小さな町だ。狭く貧しい町で、決して医療体制はいいとは言えない。そのため小さな子どもが亡くなることも悲しいことに少なくないし、幼い頃に親を亡くした子どもも多い。わたしやユーリもそんな子どもの一人だった。
 わたしは生まれてすぐに母を、五年前に父を亡くした。ユーリにいたっては、両親の記憶はほぼないと言う。
 親のいないわたしたちがここまで成長できたのは、ひとえに下町の大人たちの尽力故だろう。小さな街であるが故に、住んでいる全員が顔見知りであり、住民みんなが助け合って生活をしている。貧しい町ではあるけれど、この町に生まれてよかったと心から思っている。それはきっとユーリも同じ。
 そして、またこの下町にひとつの命が生まれた。
「ふぎゃ……」
「よしよし、いい子だね」
 温かな陽光が降る下町の昼日中。わたしは水道魔導器前の段差に座り、小さな小さな赤ん坊をあやす。この子はつい先日この広場の前の家で生まれた子だ。
「よう、なにしてんだ?」
 軽い声とともに、ユーリがひょいとわたしを後ろから覗き込んでくる。
「ユーリ」
 わたしは赤ん坊を抱きながら、ユーリの姿を一瞥する。
 包帯はしていないし、動きもおかしいところはない。先日の怪我はすっかりよくなっているようだ。わたしは心の中でほっと安堵の息を吐いた。
「ああ、がこの間取り上げた赤ん坊か。元気そうだな」
 ユーリは隣に座ると、わたしの腕の中の赤ん坊を見つめた。
「うん。取り上げたってほどじゃないけどね」
 ユーリの言うとおり、この子は三日前わたしが出産のお手伝いをしたときに生まれた赤ん坊だ。一年前にたまたまお産の現場に居合わせてから、町のおばさんたちに混じってわたしもお産の手伝いをしている。
 最初にお産に立ち会ったのは本当に偶然だった。市民街で買い出しをしたものを妊婦の家に届けたときに、いきなりお産が始まった。そのとき不運にもいつもお産の手伝いをしている女性たちが複数体調を崩しており、ちょっとでも人手が欲しいと言われ、そのまま流れで手伝うことになったのだ。それが一年たった今も続いている。
 とは言え自身が出産もしたことのない若輩者、お産のお手伝いをする町のおばさんたちのお手伝い……という具合だけれど。それでも、少しは役に立てているようだ。
「母親は?」
「元気だよ。今はお休み中だからわたしが預かってるの」
 お父さんは市民街で買い出し中。彼が帰ってくるまでの間、わたしが赤ん坊を預かることにした。
 下町はいつもこうやって過ごしている。自分の子どもでなくても、そのとき面倒を見られる人が見る。助け合って生きるのが、下町のやり方だ。
「ユーリも抱っこする?」
「遠慮しとく。そういう小っちぇえの、怪我させそう」
「ふふ」
「なに笑ってんだよ」
「ごめん、さっきフレンも似たようなこと言ってたから」
 ユーリの来る五分ほど前に、フレンも赤ん坊を見て「小さすぎて怪我させそうだ……」と怖がっていた。ユーリとフレンは正反対なように見えて、鏡のようにそっくりだ。
「あいつ馬鹿力だからなあ」
 からからと笑いながら、ユーリは穏やかな瞳で赤ん坊を見つめた。
 怪我させそう、なんて口ではそう言っていても、ふたりが小さな子どもの面倒を見ていることは下町のみんなが知っている。
 下町には孤児の集まる家がある。親のいなかったユーリは昔からそこに住んでおり、数年前にフレンも同じ家に居を移した。十五歳になった今、ふたりは年長者としてそこに住む小さな子たちの面倒を見ているのだ。
 わたしもたまにその家へ食事を作りに行くけれど、いつだってユーリとフレンは子どもたちから「兄ちゃん」と呼ばれ頼りにされている。あの慕われぶりを見れば、ユーリとフレンがどれだけ厚く子どもたちの世話を焼いているか、詳しく聞かずとも伝わってくる。
「ふ……」
「あ、笑ってるみたい」
 腕の中の赤ん坊が、くしゃりと表情を崩した。まだ小さな口が、笑った気がした。
「名前、なんて言うんだ?」
「まだないの。考え中だって」
「おまえがつけたら? 取り上げたんだろ」
「さすがにそれは……でも、一緒に考えてねって言われてるんだよ」
 この子が生まれたときのお母さんの表情を思い出す。嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。「ありがとう、名前も相談に乗ってね」と言ってくれた。
「感謝されてんだな」
 ユーリの言葉に、胸が熱くなる。
 五年前、わたしは唯一の肉親である父を亡くした。十歳のときだった。小さな子どもだったわたしがひとりでもここまで成長できたのは、下町のみんなのおかげだ。
 いつの頃からか、わたしも下町の役に立ちたいと思うようになった。下町のみんながわたしを助けてくれたように、わたしもみんなを助けられたら、と。
「お産の手伝いなんて、最初は怖かったんだけどね」
 偶然お産に立ち会ったあと、正式にお産の手伝いに誘われたとき、本当は怖かった。けれど、産婆の中でも一番ベテランのイーラおばさんに「私だっていつまでできるかわからないからね」「誰かが引き継いでくれると嬉しいんだよ」と言われた。下町の中で巡っていく役割をわたしが繋ぐことができるのならと、心を決めた。
「怖かったけど、でも……。ただの手伝いでも、下町のみんなの役に立てるなら嬉しいなって思って……」
 下町の役に立ちたい。下町のためになにかしたい。心からそう思っているから。
「へえ」
「あ……」
 ユーリの声に、わたしははっと我に返る。お産の高揚がまだ残っていたのだろうか、つい興奮してぺらぺらと余計なことまで話してしまった気がする。急に恥ずかしくなって、わたしは慌てて口を押さえた。
「へ、変なこと言っちゃった。笑わないでね」
「笑うわけねえだろ」
 そう話すユーリはほのかな笑みを浮かべている。からかうような笑みではない、優しく穏やかな笑みだ。そんなユーリの表情を見て、わたしの心は温かくなる。
 そうだ、笑うわけがない。だって、きっとユーリも同じことを思っているから。
「ありがと」
「別に礼言われることじゃねえだろ」
「いいじゃない、お礼ぐらい受け取ってよ。減るものじゃないし」
「どういう理屈だよ……」
「あ、ユーリ兄ちゃん!」
 ユーリと話していると、路地のほうから何人かの子どもたちがやってきた。ユーリと同じ家に住む子どもたち、つまり孤児だ。
「ねえ聞いてよー! ハンクスじいちゃんがね」
「あ! 先にぼくが話すのー!」
 あっという間にユーリの周りに子どもたちが集まって、ユーリの取り合いが始まった。誰が最初に話すの、誰が最初に遊ぶの、子どもたちの可愛らしい声が響く。ユーリが子どもたちから慕われているのがよくわかる光景だ。
 孤児だったユーリが下町の大人たちに助けられたように、今はユーリが子どもたちを助けている。下町は、こうやって巡っていくのだ。
「おまえら、静かにしろよ。赤ん坊ぐずっちまうぞ」
 ユーリの言葉に、他の子より背の高い十歳の少年がこちらを向いた。名前はトマ。トマはわたしの腕の赤ん坊を見ると、にっと歯を見せて笑う。
「ユーリとのあかんぼ?」
 トマの言葉に、わたしの頬がかあっと熱くなる。
「産んでません!!」
「ふぎゃあ……」
「あっ……」
 思わず大声で反論したら、機嫌のよかった赤ん坊が泣き出してしまった。わたしは慌てて赤ん坊を小さく上下に揺らしてあやす。
「わわ、よしよし」
「あーあ、泣いちゃった」
「おまえのせいだぞ」
 トマはユーリに小突かれて、「えー」と唇を尖らせた。反省していなさそうな様子に、わたしも小さくため息を吐く。
「この子のお母さんに失礼でしょ。そういうことは冗談でも言わないの。わかった?」
「はーい」
 厳しい口調でたしなめたけれど、トマはふいと顔を背けてしまう。わたしやユーリの言葉などどこ吹く風と言った具合だ。
 まったく、あとでしっかりお説教しないと。そう思いつつ、わたしはちらりと隣のユーリを横目で見つめた。
 ユーリはいつものあの涼しい顔をしている。先ほどの言葉に動揺する様子など微塵も見られない。
 少しだけ、胸が痛む。慌てているのはわたしだけ。意識しているのは、わたしだけ?
「ねえねえユーリにいちゃん。また甘いお菓子作ってよ。砂糖もらえたって聞いたよ!」
「おまえ、耳聡いな。しゃーねえ、作ってやっからみんな帰るぞ」
 女の子の言葉に、ユーリは腰を上げる。言葉とは裏腹にその表情は生き生きとしたもので、ユーリの心の内が伝わってくるよう。
 口には出さないけれど、ユーリもきっとわたしと同じことを考えている。自分を守り、育ててくれたこの下町に恩返しをしたいという思い。ユーリもこの下町が好きなのだ。直接聞かなくたって、伝わってくる。
 わたしばかりがユーリのことを意識しているようで寂しかったけれど、下町への思いは同じ。今はそれでも、いいかな。
「行ってらっしゃい」
 赤ん坊を抱っこしたまま、ユーリと子どもたちに小さく手を振る。すると、ユーリはこちらを振り返り、にっと笑った。
もあとで来いよ。とっておき食わしてやるから」
「いいの?」
「でかい仕事終えたんだからな、労いだよ」
 大きな仕事、というのはお産の手伝いのことだろう。わたしはただの手伝いでそんな大層なことはしていないのだけれど、そう言ってくれるのならお言葉に甘えよう。
「ありがと、あとで行くね」
「おう」
 ユーリはお菓子作りがうまいのだ。ありあわせのもので名前のないお菓子を器用に作ると、子どもたちの間でも評判が高い。わたしも以前食べさせてもらったけれど、そのおいしさに驚いたものだ。またあのお菓子が食べられると思うと、今から期待が膨らむ。
 心を弾ませていると、トマが「へー」と言いながらからかうような笑みを見せる。またこの子は……とお説教をしようとしたら、先にユーリがトマの額を軽く小突いた。
 ふと、腕の中の赤ん坊が笑った気がした。