変わりゆくもの/4
「わあ、びっしゃびしゃだあ」
「おねえちゃん、くすぐったいよう」
下町の水道魔導器の周辺に響く、子どもたちのはしゃぐ声。夕方になっても疲れ知らずの子どもたちは、相変わらず元気いっぱいに動き回っている。
「こら、じっとしてて」
いつもだったら思う存分遊ばせるところだけれど、今日はそうもいかない。わたしはひとりの女の子を捕まえて、彼女の体についた泥を魔導器の水で洗い流す。
「動くなっつの」
すぐ近くでは、ユーリが同じように男の子の顔を拭っている。ほかの子どもたちも同じように泥だらけの状態だ。
つい三十分前のこと。夕方になっても子どもたちが帰ってこないので、わたしとユーリで下町周辺へ探しに出た。子どもたちの姿は下町からほど近い溜め池ですぐに見つかった。安堵したのもつかの間、わたしたちが駆け寄った瞬間、集団の中でも一際やんちゃな五歳の男の子が足を滑らせて溜め池に落ちそうになった。ユーリが素早く彼の手を掴んで池に落ちることは避けられたけれど、その騒動でほかの子どもたちも転んだり、はねた泥で全身泥だらけになったりと、ちょっとした惨事になったのだ。
汚れまみれの子どもたちをなんとか水道魔導器前まで連れて帰り、今に至る。
ひとりひとりの様子を確認するけれど、怪我をしていても擦り傷程度。大きな怪我をした子はいないようだ。池に落ちそうになった直後はみな脅えていたけれど、今はもうそんなことも忘れてしまったのだろう。泥だらけの体がかえって彼らの興奮を呼んでいるようだ。
「もう、動かないでってば」
「はあい」
高揚した女の子をなんとかなだめて、濡らしたハンカチで顔の泥を拭っていく。女の子は「くすぐったいよお」なんてくすくすと笑っているけれど、その口元には小さなかすり傷がある。
「大きな怪我がなくてよかった。でもね、あんまり危ないことしちゃだめだよ」
今回は誰も大怪我をせずに済んだけれど、次もそうとは限らない。じっと女の子の目を見て叱ったけれど、彼女は再びへらっと笑う。
「大丈夫だよぉ、ユーリおにいちゃんがたすけてくれるもん」
彼女は笑顔で近くのユーリを見つめた。全幅の信頼と言った視線に、わたしは小さくため息を吐いた。
「いつもユーリがそばにいるわけじゃないんだよ」
「そしたらフレンおにいちゃんがいるよ!」
「もう……」
ああ言えばこう言うんだから。とは言え、そう思ってしまうのも仕方がない。下町の幼い子どもたちにとって、ユーリとフレンはヒーローなのだ。いつだって自分たちを守ってくれる、優しくて強いお兄ちゃん。
わたしはちらりとユーリを見つめた。ユーリも子どもたちに手を焼いているようで、動き回る男の子の首根っこを右手で掴んでいる。溜め池で男の子を助けたときに髪紐が解けてしまったようで、下ろした長い髪が邪魔そうに揺れている。
ふと、同じような光景が脳裏に浮かぶ。下町の年長者に叱られる、五歳ぐらいのユーリが姿が。
昔は……いや、ほんの数年前まで、ユーリもむしろ首根っこ掴まれる側だったのだ。もちろん、わたしも。
わたしもユーリも、そしてフレンも、幼い頃は無茶をしてきた。そのたび大人や年長者に叱られてきたから、年長者側になった今もあまり子どもたちに強く言えない。言っても結局無茶をするのはわかっているから。
「とにかく、川や池は結構危ないの。行くときは大人か、ユーリやフレンと一緒にね」
「はーい」
ほかの女の子たちにも、泥を拭ったり手当てをしたりしながら同じ言葉を伝える。みんな返事はいいけれど、わかってくれているだろうか。
女の子全員の世話を終えたところで再びユーリを確認すれば、ユーリも男の子たちの手当ては終わったようだ。腰に手を当てて、ふうと息を吐いている。
「おまえら、今日はもう下町から出るなよ」
「わかったー!」
ユーリの言葉に元気よく返事をした子どもたちは、いつもの路地裏で遊び始めた。あそこなら大人の目も届くし危ないこともないだろう。それにすでに夕方、じきにお腹が空いてそれぞれの家へ帰るはずだ。
「ま、人のこと言えねえんだけどな」
二人きりになったとたん、ユーリは軽く笑いながら肩をすくめた。ユーリもわたしと同じことを考えていたようだ。
さて、子どもたちの手当ては無事終わった。あとするべきことは……。
「……ユーリ。髪、結ばないの?」
わたしは隣に立つユーリの顔をのぞき込む。ユーリの黒く長い髪は、まだ下ろされたままだ。
「まあ、たまにはな」
「ふうん……」
わたしは目を細めてじっとユーリを見つめる。
たまには髪を下ろしたい、ユーリだってそんな気分のときもあるかもしれない。しかし、今日がその「気分」とは思えない。
「ねえ、怪我してるんじゃない?」
ストレートな問いをぶつけると、ユーリは一瞬だけ目を丸くした。
「してねえよ」
そして、すぐにひらひらと右手を振ってわたしの疑問を否定する。
手を振ったのはきっと怪我をしていないとアピールするためなのだろう。しかし、その仕草でわたしの疑念は確信へと変わった。
「うそつき」
「い……っ」
つんと軽くユーリの左肩をつつけば、ユーリはあからさまに顔を歪めた。先ほどからなぜか利き腕の左手を使わないと思ったら案の定。左肩を痛めているのだ。おそらく腕を上げられないから髪も結わずにいるのだろう。
「やっぱり怪我してるじゃない。手当てするから肩出して」
「別にこんぐらいいいって」
ユーリの言葉にむっとして、わたしは口を歪めた。
先ほどユーリの肩をつついたけれど、あれは本当に軽く触れる程度だ。にもかかわらず、我慢強いユーリがあれほど苦悶の表情を見せるのだから、肩の痛みは相当なのだろう。
「もう一回つつくわよ」
「おまえ……」
「つつかれたくなかったら言うこと聞きなさい」
わたしは両手を腰に当て、じっとユーリを見つめた。わたしだって本気でもう一度痛い目に遭わせてやろうと思っているわけではない。でも、こうでも言わないとユーリは我慢してしまうのだ。
ユーリは苦い表情でわたしの視線を受け止めていたけれど、観念したのか、ふっと笑みを見せる。
「わかったって……。なあ、おまえん家行っていい?」
そう話すユーリの視線の先には、路地で遊ぶ子どもたちがいる。おそらく子どもたちに怪我をしているところを見せたくないのだろう。
幼い子どもとは言え、ユーリが怪我をしていることを知れば、自分たちを助けるときに負った傷だと気づく。ユーリは子どもたちに余計な負担をかけたくないのだろう。その思いにわたしも同意だ。子どもたちにはいい薬になるという考え方もあるかもしれないけれど、それはまた別の方法でいい。
わたしが頷いたのを見て、ユーリは「サンキュ」と答えた。わたしの家は水道魔導器のすぐそばだ。
「適当に座ってて」
「悪いな」
わたしの家へと入ったユーリは、迷うことなくリビングのイスに腰かけた。勝手知ったる他人の家、ユーリはわたしの家の構造をある程度把握しているのだ。
わたしの家は主に二部屋の構造で、玄関から入ってすぐにリビングとして使っているキッチン付きの大きめの部屋がある。リビングには食事や軽作業用をするための机が一台、イスが三脚、そしてそのすぐそばに生前父が使っていたベッドがある。今はときどき友人が泊まりにきたり、親と喧嘩した女の子を泊まらせたりするときに使っている。後者の場合、本人には秘密で女の子の親と話をしているのだけれど。
そして、リビングの奥に続くドアの先にはわたしの寝室がある。勝手知ったる……と言っても、さすがにユーリもわたしの私室の勝手までは知らない。というか、数年前なんの躊躇いもなくわたしの部屋に入ろうとして、わたしには思い切り頭をひっぱたかれ、フレンには厳しく怒られたことがあるのだ。あれからユーリはわたしの家に遊びに来ても、さすがにわたしの部屋には入ろうとしない。
わたしは玄関近くに置いてある救急箱を持って、ユーリの隣のイスに座る。ユーリは「悪いな」と言いながら左の肩を露わにした。
ユーリの肩の怪我はおそらく脱臼だろう。わたしはユーリの肩を固定するため、肩周りを包帯で巻き始める。
「、昔からこういうのよく気づくよな」
ユーリはおとなしく手当てを受けながら、おもむろに口を開いた。
「そう?」
「昔ドジって足捻ったとき、誰にも言ってなかったのにには気づかれたんだよ」
「あー……塀の上から落っこちたやつ?」
脳裏に浮かぶ、昔の光景。あれは七歳ぐらいの頃だったか、同年代の子たちとみんなで遊んでいたときのこと。下町の外れにある塀の上によじ登ってはしゃいでいたら、ユーリを含めた何人かが塀の上から落ちたのだ。
「そう。最初は平気だったのに、あとになって痛くなってきて……」
塀はあまり高くなかったため、みんなたいした怪我はしていないように思われた。実際、落ちた子もみんななんでもないような表情で家へと帰って行ったはずだ。その中で、ユーリだけが少し、ほんの少し顔を歪めていた気がしたのだ。
『ユーリ、けがしてるんじゃない?』
『してねえよ』
『うそつき! 足、痛そうだよ』
ああ、懐かしいな。あのときの会話が鮮明に思い出される。まるで昨日のことのよう……いや、本当につい数分前のやりとりと同じなのだ。あのときは家から包帯を持ってきて、路地裏で手当てをしたんだっけ。
『誰にも言うなよ』
『どうして?』
『かっこわりぃだろ、こんなん』
『ふうん……? わかった、じゃあやくそくね」
幼いユーリは、バツが悪そうにわたしから顔を背けていた。あのときのわたしは、どうして秘密にしたいのか、なにが格好悪いのかわからなかった。けれど、今ならわかる。子どもなりの小さなプライドなのだ。
「あのときは手当てなんてどうすればいいか全然わからなかったから、捻った足首は包帯でぐるぐる巻きにしたんだよね」
「ああ。今思えばハンクスじいさんは気づいてたんだろうな……」
「知らないふりしてくれてたんだろうね。わからないように気を遣ってくれて……」
ユーリとふたりで、昔を思い出してくすくす笑い合う。
先ほど怪我を見つけたときは、昔と同じやりとりをした。けれど、怪我を隠す理由は、今はもう「格好悪いから」ではない。
わたしたちはもうすぐ十六歳になる。ハンクスさんをはじめとする町の大人から見ればまだ一人前とは言えないかもしれないけれど、幼い子どもでもなくなった。あの頃から変わらないこともあるけれど、成長したこともたくさんある。
そう、子どもの頃は今よりずっと猪突猛進で無茶ばかりしていた。ユーリもそうだし、フレンだって。
「本当ユーリとフレンって似てるよね。フレンにも昔怪我したの内緒にしてくれって言われて……」
「フレン?」
口に出したところで、「まずい」と思った。これは当時フレンに秘密にしてくれと言われたことなのだ。
「あー……」
「なんだよ」
誤魔化せないかとひとしきり考えたけれど、先ほどこぼした言葉が当時のほぼすべて。言ってしまったのと変わらないし、さすがにもう時効だろう。それになにより、ユーリの追及の視線が鋭くて逃れられそうにない。
「えっと……十歳ぐらいだったかな。フレンが鍛錬のときに足捻ったらしくてね、恥ずかしいから誰にも言わないでくれって言われて内緒で手当てしたの」
わたしはフレンが足を捻った場面は見ていないのだけれど、フレンの様子からして、鍛錬と言いつつもあまり人に言いたくない理由で痛めたのだろう。フレンでもそんなことがあるのだと驚いたのをよく覚えている。
「ふーん……」
ユーリは話を聞き終えると、目を伏せてわたしから視線を逸らす。
「おまえ、誰が相手でも気づくんだな」
そして、独り言のように低い声で呟いた。
「そ、そうかな……? まあ多少目ざといほうかもしれないけど……」
お産の手伝いしているのも、イーラおばさんに「あんたはよく気のつく子だから向いてるよ」と言われたことが理由の一つではある。わたしには自覚はないのだけれど。
「ま、のいいとこだけどさ」
ユーリは逸らしていた視線をわたしに向けて、ふっと口元に笑みを浮かべる。
わたしはその表情を見て、ユーリに気づかれないよう安堵の息を吐いた。先ほどのユーリの低い声と伏せた表情が、怒っているような、不機嫌なような、そんな気がしていたけれど、それは杞憂だったようだ。
「はい、手当ても終わり。しばらくはあんまり動かさないようにね」
「サンキュ」
「髪も結っちゃうよ」
肩が上げられないのだから髪も結べないだろう。櫛と髪紐を取り出すと、ユーリは「頼むわ」と言ってわたしに背を向ける。
ユーリの髪は綺麗な黒髪だ。櫛で髪を梳くけれど、そんな必要がないほどに櫛は抵抗なく髪をすり抜けていく。
「今日食事当番なんだよな……やれっかな」
いつもの高い位置でユーリの髪をまとめていると、ユーリが小さな声でこぼした。
ユーリの家は孤児たちが集まる家だ。基本的に食事はユーリたち年長者が順番に作ることになっているらしい。今日はタイミング悪くユーリの当番の日のようだ。
「危ないしやめたほうがいいんじゃない? そうだ、フレンに代わってもらっ……いや、それはだめか……」
フレンの料理はまさに「博打」なのだ。おいしいときは非常においしいのに、とんでもない料理を作ることも少なくない。独自の味つけをしたときのフレンの料理の衝撃は、一度食べたら忘れることなどできないだろう。
しかし、ユーリが作れず、フレンに代わってもらうのも躊躇するとなると困り物だろう。ユーリとフレン以外は年長者と言ってもまだ十歳程度のはず。用意もなしに急に料理当番をするのは難しいだろう。それならば、残る選択肢はひとつ。
「わたしが作りに行こうか?」
ユーリの髪をぎゅっと結ぶのと同時に、わたしはユーリにそう提案する。
「いいのか?」
「今日はもう予定もないし大丈夫だよ」
「フレンに賭けるのはちと怖いからな、頼むわ」
「いいよ、このぐらい」
もともと、時折わたしもユーリたちの家に食事を作りに行っている。今日がその日というだけだ。それに、父が亡くなってからはいつも食事はひとりだったから、大人数で食事をする機会はわたしも楽しいと思っている。
「髪もできたよ」
「悪いな、今日は世話になりっぱなしだ」
ユーリは立ち上がると、自身のポニーテールに軽く触れる。長い髪が、ふわりと舞った。
「借りができちまったな」
「どうやって返してもらおうかな」
「……あんま高ぇもんとか言うなよ」
「あはは、どうしようかな」
冗談めかして笑ってみせたけれど、これを借りというなら、むしろわたしのほうがユーリに借りてばかりだ。この間の仕事の紹介の件もそう。わたしはいつだってユーリに守られる一方だ。しかも、ユーリはそれをわたしへの貸しだなんて思っていない。そんなところまで含めて、わたしはユーリに助けてもらってばかりいる。
「じゃあオレん家行くか。夕飯、作り始める時間だろ」
「うん、子どもたちももう帰ってくるかな」
「そろそろ遊び疲れる頃だろ。それに門限に厳しいフレンがいるしな」
わたしとユーリは話しながら家を出て、夕焼け色の道を歩き始めた。
隣のユーリを見上げながら、わたしは心の中に小さな思いが広がるのを感じた。
ユーリに守ってもらったように、わたしもユーリを助けていきたい。それが、わたしの純粋な思い。