変わりゆくもの/5
夜の下町に、わたしの足音と風の音だけが小さく響く。わたしは手元のランタンの灯りを頼りに、ボロボロの石畳を慎重に歩いていく。
夜の下町は暗い。光照魔導器があれば夜道を歩くために必要な灯りを確保できるだろうけれど、高価で貴重な魔導器がこの下町に十分な数があるはずもない。下町の夜を照らすのは、空に見える結界魔導器の光輪のかすかな光と、粗悪な燃料で燃える、ぽつぽつと点在するだけの小さな街灯のみ。そのわずかな光でまともに舗装されていない下町の夜道を歩くのは不便極まりなく、基本的に下町の住人は夜に外を出歩くことをしない。
わたしも普段はこんな夜に外に出ることはないのだけれど、今は市民街での仕事からの帰り道。今日の仕事は事前に長時間に及ぶと聞いていたため、家からランタンを持ってきておいたのだけれど正解だった。こんな小さな灯りでも、なにもないよりずっと歩きやすい。風に揺れるランタンの灯りを頼りに、慎重に歩みを進めていく。
「あれ……」
市民街と下町を結ぶ坂道を下りきり、水道魔導器にさしかかった頃。水道魔導器の噴水の向こうに人影が見えた。結界魔導器のかすかな光が、その後ろ姿を照らす。
「ユーリ?」
長い黒髪を高い位置でひとつにまとめた、背の高い細身の人影。顔を見なくても誰だかわかる。間違いない、ユーリだ。
「よっ。も仕事帰りか?」
ユーリはこちらを振り返ると、軽く右手をあげた。
おまえも、ということはユーリも仕事からの帰り道なのだろう。わたしは頷きつつ、ユーリのそばに駆け寄った。
「うん、だいぶ遅くなっちゃった」
「いいもん持ってんな」
ユーリが指さしたのはわたしが持つランタンだ。ユーリは灯りのたぐいはなにも持っていないようだ。ユーリは夜目が利く方だけれど、この暗闇を灯りなしに歩くのは大変だろう。
「用意いいでしょう」
「さすが」
特に「一緒に行こう」などは言わず、わたしとユーリは並んで歩き出した。わたしは灯りを持っている、ユーリは持っていない。そして下町の夜道は暗い。一緒に歩くのは、当たり前のことなのだ。
「今日の仕事なんだったの?」
「倉庫整理。想像以上にぐっちゃぐちゃでこんな時間までかかっちまったぜ……」
「お疲れ」
ユーリの肩の怪我はすでに完治していると、フレンから聞いている。ユーリとしてはフレンにも言わないでおきたかったらしいけれど、さすがにフレンには隠せなかったようだ。というより、子どもたちに秘密にするには、フレンの協力が不可欠だったのだ。
なんにせよ、ユーリの怪我はもうよくなったとのこと。倉庫整理の仕事をしたのだから、強がりでもないのだろう。
「おまえは今日なにしてきたんだ?」
「行商の手伝い。今日は仕入れがいっぱいあるって聞いてたからね、遅くなるだろうからランタン持ってきておいたの」
今日の仕事の話をしながら、夜の下町を歩く。
ふと、風で揺れたランタンの炎がユーリの額を照らした。
「あれ、おでこ、怪我してない?」
前髪に隠れているけれど、ユーリの額に赤い傷のようなものが見える。わたしはランタンを掲げてユーリの顔をのぞき込んだ。
「ああ、そういやでけぇ箱動かすときにぶつけたな」
「もう、どれだけ生傷絶えないの。ちょっとじっとしてて」
「え、おい」
わたしは半ば無理矢理ユーリにランタンを渡し、きゅっと背伸びをした。ハンカチを取り出して、ユーリの額の傷の汚れを取り除く。うん、少しかすっただけであまり大きな怪我ではないようだ。手当ては必要ないだろう。
「大丈夫だって」
ユーリはぶっきらぼうな声でそう言うと、わたしからふいと視線を逸らす。その頬は、ランタンの炎が映ったのかいつもより赤い気がした。
「そうだね、大丈夫そ……」
背伸びしていた足を戻して、ユーリから体を離す。その瞬間、ひときわ強い風が吹いた。
「うおっ」
「わっ!」
突然の強風が、わたしの手からハンカチをさらっていく。風に乗った黄色いハンカチは、結界魔導器の光輪の光に照らされながら、通りの向こうにある空き家の二階の窓に吸い込まれていった。
「うそ……」
あんなに綺麗に窓に入るなんて。不運というべきか、いや見えない場所に飛ばされなかったのは運がよかったのか。
どうしよう。ハンカチを取り戻したいけれど、こんな夜に空き家へ入るのは怖い。なにより、わたしが今取りに行けばユーリは必ずついてくる。ユーリはそういう性格だ。
取りに行きたいけれど、ユーリを巻き込むのは忍びない。しかし、あのハンカチは……。
「取りに行くぞ」
逡巡していると、隣のユーリが迷いのない声でそう言った。そして、ランタンを持って空き家の方へと歩き出す。
「えっ、待って、いいよそんな」
あのハンカチはわたしのものだ。今取りに行くにしても、ユーリを巻き込むわけにはいかない。慌ててユーリの服の裾を掴むと、ユーリは顔だけわたしに向けた。
「大事なもんなんだろ」
ユーリはそれだけ言うと、再び空き家の方へ歩みを進める。
どうして知っているの。聞きたかったけれど、声がつかえて聞けなかった。ランタンに照らされたユーリの表情が、やたらと大人びて見えたから。
「ほら、行くぞ」
「あ、待って」
ユーリに促され、わたしは急いで彼のあとを追いかけた。
ハンカチが吸い込まれた空き家があるのは、下町の中でも特に寂れた地区だ。家は立ち並んでいるものの、その中に住民はいない。当然手入れもされていないため、どの家も傷みが激しい。水道魔導器からさほど離れていないので昼間なら多少人の往来はあるけれど、決して賑わう場所ではない。ずっと下町で暮らしているわたしも、この区域に足を踏み入れたのは数えるほどしかない。
「ここだったな」
ユーリが一軒の家の前で立ち止まる。ひときわ傷みの激しい二階建ての赤い屋根の木造家屋、ここがハンカチが入ってしまった家だ。
「ここって、前に子どもたちが言ってた……」
二週間ほど前から、下町の子どもたちの間に『変な声が聞こえる空き家がある』と噂が流れている。そこで肝試しをしようと子どもたちが侵入を試みては、大人たちに止められている家。その噂の空き家が、目の前の家だ。
子どもたちの侵入防止用か、古びた扉の前には大きな石やら木の枝やらがバリケードのように置かれている。幼い子どもがこれらを破るのは至難の業だろう。
「ああ、なんか噂になってたやつか」
ユーリは噂などまったく気にしない様子で、扉の前の石を軽く横にどけドアを開けた。キィと響く嫌な音に、わたしは顔をしかめる。
「真っ暗……」
空き家の中に灯りなどあるはずもない。ユーリの持つランタンでかろうじて確認できるのは、玄関から入ってすぐのここが大部屋であるということだけだ。
「ま、当然だな。階段は……」
「わっ!?」
突如、天井から軋む音が聞こえてくる。暗闇に響く不審な音に、わたしは思わず大声をあげてしまった。慌てて手で口を押さえたけれど、もう遅い。
「おまえ、もしかして……」
「な、なに」
「怖ぇの?」
ユーリは口元に笑みを浮かべ、面白がるような視線をわたしに向けている。
「べ、別に……ちょっとびっくりしただけ」
「ふーん?」
違う、違う。断じて違う。怖いわけではなくて、ただ驚いただけ。そう、それだけ。
首を横に振ってみせたけれど、ユーリの疑いのまなざしは消えない。視線が痛くて、わたしはふいとユーリに背を向けた。
「わっ!」
「ひゃあっ!?」
その瞬間、ユーリが大声を出すから、わたしは思わず飛び上がる。まずい。さすがにこれはバレただろう。おそるおそるユーリの方を振り返れば、笑いをこらえるユーリの姿が目に入る。
「へえ……そういや昔っから肝試しなんかはなにかと理由つけて来なかったもんな」
「う……」
ユーリの言葉を否定できず、わたしはうなだれる。そう、わたしはお化けが怖いのだ。
うう、今までずっとうまく誤魔化してきたのに、今になってユーリに知られてしまうなんて。悔しいけれど、怖いものは怖いのだからどうしようもない。
「きゃっ!」
今度は上から赤ん坊のような高い声が聞こえてくる。こんな空き家に赤ん坊がいるはずもない。今までで一番の恐怖に、わたしは思わずユーリの右腕に抱きついた。
「おい、おま……っ」
「な、なんか今赤ちゃんの泣き声みたいなの聞こえなかった!?」
「いや、わかんねえけど……」
わたしにだけ聞こえたって、幻聴? それとも本当にお化け? あまりの恐怖にユーリの腕にしがみつく力を強めてしまう。
「大丈夫だって、お化けなんていやしねえよ」
「そんなのわかんないじゃん! 証明できるの!?」
「おまえ、こんなとこで気の強さを発揮するなよ……」
ハンクスさんもよく「お化けなんているわけなかろう」と子どもたちを諭しているけれど、いくら「お化けなんていない」と言われたって怖いものは怖い。こればかりは理屈ではないのだ。
「……ったく、外で待ってるか?」
ユーリは小さなため息を吐くけれど、声色は温かい。ユーリの気遣いを感じて、わたしの胸がきゅっとうずく。
「で、でも……ひとりで待つのもそれはそれで怖いし……」
わたしは躊躇いながらも、素直に恐怖心をユーリに伝えた。一度弱みを見せてしまえば深く見せるのも同じこと。それになにより、今のユーリの声が優しかったから、つい心が緩んでしまった。
「……まあ、それもそうだな」
「わっ!」
今度は外からなにかが崩れたような低い物音が聞こえてくる。わたしは反射的にユーリの腕にしがみつく力を強めた。
「おま……っ、だからってくっつきすぎだろ!」
「しょうがないでしょ!」
「なんでおまえがキレるんだよ!」
ユーリは「まったく……」と言いながら、なぜだか視線を泳がせる。深呼吸のように大きな息を吐いて、低い声でゆっくりと口を開く。
「……せめて密着すんのやめろ。いろいろとこう……あれだから」
「あれ?」
「いいから、ほら」
ユーリはわたしの腕をほどくと、そのまま右手でわたしの手を握る。手をつなぐ格好だ。わたしはユーリの手を強く握りしめた。
「行くぞ」
ユーリはわたしと手をつないだまま、慎重に歩き出す。ギィ、ギィ、とわたしたちが歩くたびに、古い床が軋む音がする。
恐怖で速かったわたしの心臓の鼓動が、さらに速くなる。
まさかユーリと手をつないで歩くことになるなんて。ふと、昔を思い出す。十年ほど前、四歳か五歳ぐらいのときにユーリと手をつないで歩いたときの思い出を。確かふたりきりではなく、ほかの友人もいたはずだ。あのときはどうして手をつないだんだっけ。もう思い出せないけれど、下町の路地を無邪気に手をつないで歩いたことは覚えている。あのときは同じぐらいだった手の大きさが、今はこんなにも違う。ユーリの手はわたしの手をすっぽりと包み込んでしまっている。
恐怖とときめきと恥じらいと、いろんな気持ちが混ざり合う。心臓がうるさいぐらいに鳴っていて、静かな空き家に響いてしまいそう。
わたしたちはなにも話さず、暗い家の中をただ歩く。ようやく階段を見つけて、ゆっくりと二階へと上がった。
「ここは……」
ユーリはランタンを掲げ、部屋全体を照らした。どうやらこの家は部分二階の構造で、二階は一階より狭いようだ。
「……なにかいるな」
「え……っ」
ユーリは部屋の隅を見つめ、腰を落として身構える。暗くてよく見えないけれど、確かにそこには動く「なにか」がいる。
お化け? それとも誰かが空き家に潜んでいる? 周囲に静かな緊張が走る。
「後ろに隠れてろ」
「う、うん」
ユーリはつないでいた手を解き、右手を軽く握っている。不測の事態に備えるためだろう。わたしは大人しくユーリの指示に従い、ぎゅっとユーリの背中を掴んだ。うごめく物体の方へ慎重に進むユーリに合わせ、わたしも足を前に出す。
ユーリのランタンの炎が、その「なにか」を照らした。
「……ニャア」
「……猫?」
そこにいたのは、一匹の猫だった。全身が黒い毛で覆われた成猫は、耳を後ろに反らし警戒する様子を見せている。
お化けでもない、不審者でもない。安心したわたしたちは、同時に肩の力を抜いた。
「噂になってた変な声の主もこいつか」
「わたしが聞いた赤ん坊みたいな声も……」
なるほど、猫が住み着いていたのなら、空き家のはずのここから物音や声が聞こえるのもうなずける。
「幽霊の正体見たり、ってか。お、ハンカチもあったな」
ユーリは窓際に落ちている黄色いハンカチをひょいと手に取る。飛ばされたわたしのハンカチだ。
「ほら」
「あ……ありがとう」
ユーリから受け取ったハンカチをぎゅっと両手で握った。埃をかぶってしまったけれど、破れたり穴が開いたりはしていないようだ。わたしはほっと胸を撫で下ろす。
「とっとと出ようぜ。猫も警戒してるみたいだし」
ユーリの言うとおり、猫は低い声を出してわたしたちを威嚇する様子を見せている。突如縄張りに人が入ってきたのだから当然だろう。これ以上ここにいてはあの子に悪い。わたしとユーリはできるだけ音を立てないよう、そっと階段を降りた。
「早く帰らねえとフレンにどやされるな」
「門限うるさいもんね……わたしのせいだし、フレンに理由話しに行くよ」
「別にいいって。……あれ」
ユーリは右手で扉に手をかけるけれど、首を傾げるだけでドアを開けようとしない。
「開かねぇ」
「え……またまた」
「いや、マジだって」
わたしを怖がらせるために言ったのかと思いきや、ユーリは真剣な表情で首を振る。わたしもドアを押してみたけれど、びくともしない。
「ほらな」
「え……な、なんで」
入るときは軋みつつも確かに開いた扉が、今は開かない。どうして? なんで? もしかして本当にここにはお化けがいて、その呪いかなにかで……。
い、いやいや。本当にお化けが存在するかは別として、この扉の感触から察するにおそらく扉の前に何かがつかえている。わたしは玄関扉のすぐそばの窓から顔を出した。
「あ……やっぱり崩れてる」
結界魔導器の光輪でぼんやりと見える、扉の前に広がる石や木の枝たち。ユーリがどかしたバリケードが崩れてしまったのだ。そういえばこの家に入ってすぐになにかが倒れるような音がした。あれはこの音だったのだ。
「、ちょっと離れてろ」
ユーリの指示に従い、わたしは扉から距離を取る。ユーリも同じようにドアから離れると、助走をつけて扉に体当たりした。
「……だめか」
しかし、ドアは開くことはない。その代わりに、古い木造家屋自体が軽く揺れている。無理にドアを壊せば家そのものが倒壊しそうな勢いだ。
「窓は……うーん、出られない……」
わたしは再び窓から顔を出し脱出を試みるけれど、格子に肩が引っかかってしまう。ガラスはすっかり朽ちているというのに、窓の格子は頑丈だ。わたしの肩が引っかかるなら、ユーリも出ることはできないだろう。
「おーい、誰かいねえか?」
ユーリが窓から大声を出すけれど、返ってくるのは風の声だけ。人の住む区画からは少し離れているし、今は夜。みな家の中にいて外の声は聞こえないのだろう。
ドアは開かない。窓からも出られない。助けも呼べない。つまり。
「え、もしかしてこれって……」
「閉じ込められたな」
ユーリがあまりに軽く言うものだから、わたしは口をあんぐり開けてしまう。
「えっ、ど、どうするの!?」
「人通り少ねぇって言っても日が昇れば誰かしら通るだろ。それにフレンも朝までオレが帰って来なきゃ探しにくるだろうし」
「あ、朝までって……」
それはつまり、朝まで待つということ。それはつまり、ここで一晩過ごすということ。ユーリとわたしの、ふたりきりで。
「おまえ、変なことすんなよ」
「わたしの台詞なんだけど!?」
大声で反論するけれど、ユーリはまったく意に介さない様子で壁際に腰を下ろした。わたしも仕方なくその隣に座る。さすがに体ひとつ分はあけておいた。
この状態で、一晩過ごすのか。確かにどうしようもないのだけれど、やはり動揺してしまう。
わたしとユーリの間に、ランタンの炎が揺れている。わたしは膝を抱えながら、揺らめく灯りをじっと見つめた。ちらりと横目で片膝を立てたユーリを見れば、ユーリも同じようにランタンを見つめている。
自分の心臓の音が、聞こえる。
鼓動は恐怖心からではない。この空き家に幽霊のたぐいはいそうにないし、さすがにもうお化けへの恐怖心は薄まった。男性とふたりで一晩過ごすということへの恐怖もない。ユーリがおかしなことをするとは微塵も思っていないから。ユーリはノックもせずに部屋に入るデリカシーのないタイプだけれど、それでもユーリが女子に襲いかかる人間ではないと、十五年の付き合いで知っている。
この胸の鼓動の正体は、緊張と、恥じらいと、そして小さなときめき。
ユーリとふたりで一晩過ごすことになるなんて、思ってもみなかった。ハンカチが飛ばされただけで、こんなことになるなんて。
「……ねえ、ユーリ」
「ん?」
わたしは事の発端となったハンカチを手に、ユーリに問いかける。
「どうしてこれが大切なものだって知ってたの?」
ユーリはハンカチを取りに行くとき、「大事なもんなんだろ」と言っていた。父以外の誰もこのハンカチの話は知らないはずなのに。
「昔からちょくちょく眺めてるとこ見てたからな」
「よく見てるね」
「おまえほどじゃねぇけどな」
確かに大事なものだから、折に触れこのハンカチを見つめていた。しかし、それにユーリが気づいていたとは。大雑把に見えて、ユーリは意外と人のことを見ている。
「これね、お母さんがわたしに作ってくれたんだって」
わたしはハンカチを見つめながら、ゆっくりと話し出す。
父から聞いた話だ。まだわたしが母のお腹にいたときのこと。まだ見ぬお腹の子のため、つまりわたしのために、母が家にある一番上等な布で織ったハンカチがこれなのだと。
母はわたしを産んでまもなく流行病で亡くなった。わたしにとってこのハンカチは、なにも覚えていない母の面影を感じられる数少ないもの。母の愛情を感じる、大切なもの。母のよすがのかけら。
「母親か……」
ユーリは話を聞き終えると、ふいに自身の長い黒髪を指でいじる。ポニーテールの先を目の前に持ってきて、それを優しい目で見つめている。
ユーリには親がいない。わたしが物心ついたときには、すでにユーリは孤児の集まる家に住んでいた。母親はユーリが赤ん坊のときに亡くなった、とだけ聞いている。
わたしの話を聞いて、ユーリがなにを思ったかはわからない。ただ、自身の黒髪を見つめるユーリの瞳はどこか寂しげで、どこか温かい。そんなユーリの横顔を見て、わたしは懐かしいような、切ないような、不思議な感情に包まれる。
「……んな大切なもんなら大事にしておけよ。この間も悪ガキどもの泥落とすのに使ってただろ」
ユーリはわたしの視線に気づいたのか、瞳をいつもの色に戻して、ぶっきらぼうにそう言った。
「でも、お母さんがせっかく作ってくれたんだから使わないと。ハンカチは使うものでしょ」
「まあ、それはそうだけど……」
父から聞いた母の話、このハンカチから感じる母の思い。母の愛情はタンスの奥にしまっておくものではないはずだ。少なくともわたしはそう思っている。
十五年間使ってきた、ボロボロのハンカチをじっと見つめた。あちこちに補修した跡が残っている。たとえ汚れてしまっても、そこから伝わる愛情は決して消えはしない。いつか本当に使えなくなるぐらい傷みが激しくなったら、そのときは大切にしまおうと考えている。それまでは、母の愛情をずっとそばに置いておきたい。
大切な、大切なものなのだ。
「……ありがと」
改めてユーリにお礼を言う。取り戻すことができて、本当によかった。
「ま、オレの怪我がなきゃ飛ばされてなかっただろうからな」
「そんな……」
ふっと、ランタンの炎が消えた。燃料が切れたのだろう。今この空き家を照らすのは、窓から差し込む結界魔導器の光輪の光だけ。
「星がよく見えるな……」
その光輪の間に、星が瞬く。今日は新月、星が一番よく見える日だ。
「……前にもさ、こんなことあったよね」
窓から空を見上げながら、わたしは遠い記憶を思い出す。
「五歳……ううん、もっと前だっけ。みんなでかくれんぼしてさ」
「ああ、見つけてもらえなかったときの話か」
「そう、それ」
下町の同年代で隠れん坊をして、わたしとユーリは偶然同じ空き家に隠れた。しかし、待てども待てどもわたしたちを鬼が探しに来ることはなく、ついには日が落ちてしまった。仕方なくわたしたちは家に帰ろうとしたのだけど、空き家の扉は建て付けが悪かったのか、なぜか内側から開けようとしても開かなかった。あのときは冬の頃で、日が沈み気温がどんどん落ちる中、わたしたちは空き家にあった古い一枚の毛布をかぶり、くっついて寒さをしのごうとした。
今日と同じ新月の夜だった。窓から見える星を、ふたりで数えていた。
「あのときも一晩過ごすかもって思ってたよね」
「ああ、でもハンクスじいさんとおまえの親父さんが見つけてくれたんだよな」
「そうそう。ふたりにはすごい心配されてたけど、こっちは結構はしゃいでてね」
「ガキんときには大冒険だったからな、あれは」
思い出話に花が咲く。けれど、くっついて夜を過ごそうとした話はふたりともしない。もうあのときみたいに無邪気に肩を寄せ合って夜を過ごすことはできないのだ。
「……あの空き家、燃えちまったんだよな」
「うん……」
幼い頃閉じ込められた空き家は数ヶ月前に火事で燃えてしまった。今はもう跡形もない。
「空き家に隠れたっていったら、あんときもさ……」
沈みかけた空気が、ユーリの明るい声で再び弾む。
みんなで町の外れの廃墟を冒険したこと。畑で泥だらけになるまで遊んだこと。大人に内緒で溜め池まで遊びに行って、怪我をして帰って大目玉を食らったこと。ずっと一緒に育ってきたから、昔話が尽きることはない。
思い出話に出てきた場所は、先ほどの空き家のようになくなってしまったところも多くある。思い出の場所が消えて寂しい気持ちはあるけれど、思い出を分かち合う人が隣にいる。それだけで十分だ。
懐かしい思い出たちに包まれて、わたしの中にあった緊張と恥じらいもどこかへ消える。今胸にあるのはときめきと、優しい記憶。
温かい思い出の中で、わたしはいつの間にか眠りに落ちていた。
「……おい、。起きろって」
「ん……」
誰かに肩を揺すられて、目が覚める。薄く瞼を開いた先に見えるのは、ユーリの姿だ。
どうしてユーリの姿が? なんだか体も痛い。ここは家のベッドではないようだ。
寝起きで回らない頭を必死に回転させて、ようやく昨日のことを思い出す。そうだ、昨夜はユーリとふたりで空き家に閉じ込められてしまって……、それから……。
窓から差し込む太陽の光が、わたしの頭を目覚めさせる。ああそうか、いつの間にか眠ってしまったのだ。明るいということは朝になったということか。
「朝!?」
やっと頭がはっきりと覚醒する。うそ、一晩寝てしまったの!?
「やっと起きたか……」
「はは、おはよう」
ため息を吐くユーリの後ろに、フレンの姿が見える。そしてその向こうには開かれた扉も。状況からして、おそらくフレンが開けてくれたのだろう。
「日が昇り始めた頃に足音が聞こえてな。窓から顔出したらフレンがいたんで開けてもらったんだよ」
「一晩たってもユーリが帰ってこなかったからね。おかしいなと思って探しにきたんだ」
「そうだったんだ……ありがとう、フレン」
「どういたしまして。しかし、どうしてこんなことに……」
「あ、それはね……」
「いろいろあってな、話すと長くなんだよ」
わけを話そうとしたけれど、ユーリはわたしの言葉を遮ってしまう。またユーリの悪い癖だ。わたしのせいで閉じ込められてしまったのに、ユーリはそれを言わない。いや、むしろ、だからこそ言わないのだろう。
しかし、これではフレンにユーリが原因と思われてしまうかもしれない。困っていると、フレンと目が合った。フレンは「わかっているよ」と言わんばかりの瞳でにこりとこちらに笑みを向ける。
フレンもユーリと長い付き合いだ。ユーリが理由を話さないときがどんなときなのか、フレンだってわかっている。
「あ、いたた……」
立ち上がろうとすると、背中のあたりがピキリと痛む。固い壁に寄りかかって寝たせいで体が変な形で固まってしまったようだ。
「大丈夫かい?」
「うん、まあ……。変な体勢で寝ちゃったから……」
「おまえ、よくあの状況でのんきに寝れるよな……」
「あはは……ごめん……」
わたしだってさすがに熟睡するとは思っていなかった。閉じ込められたときは緊張していたはずなのに、だんだん安心してしまってつい眠気に抗えなくなってしまったのだ。
「ユーリ、一応聞くけど……」
「なんだよ」
「に妙な真似はしていないよね?」
「するか、んなバカなこと」
フレンの問いに、ユーリは呆れたように首を振る。そんなユーリの様子を見て、フレンはにこりと笑う。フレンだってユーリが本当にそんな真似をするとは思っていないのだ。
「さて、帰るか……ふあ」
ユーリは伸びをすると、隠すことなく大きなあくびをひとつする。
「ちょっと仕事行く前に寝てくるわ……結局一睡もできなかったし」
「えっ、全然寝てないの?」
ユーリの言葉に、わたしは思わず小さく声を上げた。もちろんユーリが熟睡していたとは思っていないけれど、まさか一睡もしていないとは。微睡むぐらいはしていたと思っていたのだけれど。
「おまえな……」
ユーリは腰に片手を当てて、じっとわたしに恨みがましい視線を送る。
「えっ、な、なに……?」
「ははは、寝れるわけないよね」
ユーリの意図がわからずに困惑している中、さらにフレンまでおかしそうに笑うから、わたしはさらに頭に疑問符を浮かべてしまった。