変わりゆくもの/6
新たに生まれる命があれば、失われる命もある。それが自然の摂理。
頭では理解していても、人が死ぬという事実は受け入れがたい。それが若い母親となればなおのこと。
昨日、下町に新しい命が生まれた。そして、同時にひとつの命が失われた。
わたしが立ち会った出産で、母親が死んだのだ。
彼女の死から一日がたち埋葬を終えてもその重みに耐えきれず、わたしはひとり路地裏で膝を抱えている。なにをしても暗い気持ちが振り切れない。いや、むしろ助けようとがむしゃらだった昨日より、今の方が苦しいぐらいだ。
涙が流れるわけではない。ただただ、胸が痛い。重くて苦しい。息ができない。曇った心が、いつまでも晴れない。
膝に顔を埋めていると、こつ、こつと静かな足音がした。この音を殺した足音は……。
「ユーリ……」
顔を上げると、やはりそこにはユーリがいた。ユーリは神妙な面持ちでわたしを見つめている。
「……あれはおまえのせいじゃねえだろ」
ユーリは低い声でそう言うと、わたしの隣に腰を下ろした。
下町は狭い町だ。下町で起きた出来事は、もれなく住民全員に知れ渡る。当然、ユーリもわたしが塞ぎ込んでいる理由を知っている。
「……わかってる」
わたしのせいではない? そんなことわかっている。もとよりお産でわたしができることなんて、ただの手伝いだけ。産婦が死にそうになったからと言って、わたしが直接助けることなんてできないのだ。そこまでわたしは自惚れていない。
「わかってる……それでも、悲しいよ」
「……そうだな」
若い母親が亡くなった。その現実が重くのしかかる。
そして、それ以上に心に陰を落とす事実がある。
「なにより……誰も助けようとしてくれなかったことが苦しいの」
あのとき、出血が止まらなくなった彼女を助けようと、わたしは市民街へ続く坂を上った。下町に医者はいないし、たいした医療設備もない。彼女を助けるためには市民街ないし貴族街にいる医者や治癒術師が必要だった。払えるだけのお金ならあった。下町のみんなで「なにかあったときのために」と貯めていたお金だ。この機会に使うことに、誰も反対しなかった。
市民街に入ってすぐ騎士団に会った。けれど、助けを求めても無視された。
『下町の連中なんてどうでもいい』『時間の無駄だ』
気色悪い喋り方の男性騎士に手をはねのけられたときのことは、はっきり覚えている。彼の部下であろう治癒術師は気まずそうにわたしを見つめていたけれど、助けに来てくれないのなら術師の心情などどうでもいい。市民街を駆けずり回ってやっと下町まで来てくれる医師を見つけたときには、母親は手遅れになっていた。
彼女に夫はいなかった。市民街の男性と交際していたけれど、どうやら彼に家庭があると知って身を引いたらしい。彼女が妊娠に気づいたのは彼と別れたあとだった。そんな彼女が、子どもを置いて逝ってしまった。
“下町”を凝縮したような一件だった。最近は下町も楽しい出来事や明るい話題ばかりだから忘れていたけれど、これがわたしたちの住む下町の現実なのだ。昔より市民街との関係はよくなったけれど、それでも誰もわたしたちを助けてくれない。助けてくれるのは、同じ下町に住む人々だけ。
「う……っ」
心で留めていた涙が、あふれ出す。最初に会った騎士団が助けに来てくれれば、助かったかもしれない。あくまでそれは仮定の話で、治癒術師が来てくれても結果は変わらなかったかもしれない。けれど、それでも「もしも」が頭に浮かんでは涙となって落ちていく。
ユーリはずっと、むせび泣くわたしの隣にいてくれた。
なにも言わないけれど、ユーリの優しさが伝わってくる。そして、彼の怒りも。
ユーリとフレンは、下町が理不尽な目に遭うといつも憤っている。特に弱い者が虐げられるのが許せないのだ。
どうしてこんな目に遭わなければいけないのだろう。ただ生まれた場所が違うだけなのに。
下町のみんなはいつだってなにかあれば助けてくれる。それが当たり前だと言わんばかりに。しかし、市民街や貴族街は互助の精神が強い下町とは違う。誰も、わたしたちを助けてはくれない。
わたしたちの声は、届かない。
「……赤ん坊、どうすんだ?」
わたしの嗚咽が少し収まったところで、ユーリが小さく問いかけてくる。
「イーラおばさんたちが順番に世話してくれるって。大きくなったらユーリたちの家かな……」
「そうだな……」
赤ん坊に身寄りがない以上、下町のみんなで育てていくことになる。イーラおばさんたちは子育てのベテランだ。きっと心配はないだろう。
「あの家、窮屈だけど悪くねぇとこだしな」
「ん……」
だから心配するな、気に病むなとユーリは言いたいのだろう。
赤ん坊の心配はあまりしていない。確かにこれから大変なことも、寂しい思いをすることもたくさんあるだろう。けれど、ユーリをはじめとする孤児たちが大きく成長したように、この下町でならあの子もきっと強く生きていける。
「でも、お母さん、生きたかっただろうなって」
生前の彼女を思い出す。『もうすぐ産まれるの』『ひとりで育てることになるけど、みんながいるから大丈夫だよね』とたびたびわたしに話してくれた。不安も大きかったろうに、彼女はいつも笑顔だった。
でも、彼女はもういない。
「あんま考えすぎんなよ」
ユーリがわたしの頭をくしゃっと撫でた。ぶっきらぼうだけれど、優しさを感じる大きな手。わたしは張り裂けそうだった心がふっと解けるのを感じた。
「うん……」
涙を拭いながら、わたしは顔を上げた。悲しい気持ちが消えたわけではないけれど、今なら前を向ける気がする。
ちらりと隣に座るユーリを見やる。ユーリはいつものように片膝を立てた格好で壁に寄りかかっている。普段と変わらないように振る舞ってくれているのだろう。
「……ユーリってさ、人のことよく見てるよね」
以前ユーリが怪我していることに気づいたとき、『よくこういうこと気づくよな』と言われたけれど、ユーリもそう。なにかあると、いつも気づいてくれる。わたし相手だけではない、下町の人たち……特に子どもたちになにかあればいつだって気づいて助け船を出す。
「おまえ、わかりやすいんだよ。なにかあるとすぐこういうとこに座り込むだろ」
「そうだっけ……」
「そうだよ。ガキんときからな」
確かに落ち込むときは家の中よりこういった路地で膝を抱えることが多かった。けれど、路地裏と一口に言ってもたくさんある。それでも、わたしが今みたいに落ち込んだとき、真っ先にユーリが見つけてくれる。
だからなのかな、わたしがユーリを好きなのは。ほかの誰でもないユーリに思いを寄せるのは、いつも見つけてくれるから?
ううん、きっと理由のひとつではあるけれど、それだけではない。
落ち込んだとき、真っ先に見つけてくれるところ。ぶっきらぼうで口と態度は悪いけれど、本当は優しいところ。困っている人がいると放っておけないお人好しなところ。そして、自分になにかあったときは、ひとりで抱え込んでしまうところ。
「ユーリはさ、わたしと違ってわかりにくいよね。なにかあってもすぐ隠そうとするし……」
「別に隠してねぇけど」
「この間も肩怪我したの隠してたじゃん」
「あんなのたいしたことねぇって」
ユーリはひらひらと左手を振るけれど、あのときの怪我はそれなりに重かったはずだ。そうやってすぐに痛いのも苦しいのも誤魔化そうとする。ユーリの悪い癖で、わたしがユーリをつい気にしてしまう理由のひとつ。
「なにかあったら我慢しないで頼ってよね、だって……」
友達なんだから、と続けようとしたけれど、言葉がそこで詰まってしまう。
わたしとユーリは友達だ。それは間違いない。むしろ友達以外に関係を表す言葉は幼馴染みぐらいのもの。それでも、言葉がのどでつかえてしまう。
「なんだよ」
「あ……ほら、下町の仲間だし」
ユーリに次の句を促され、とっさに言葉を言い換える。そう、仲間だ。ユーリも、フレンも、ハンクスさんも子どもたちも。みんな、下町の大切な仲間。
「……そうだな」
ユーリは目を閉じて、ふいとわたしから顔を背ける。そして、そのまま重そうな仕草で立ち上がった。
「なあ、腹減らねえ? もう夜だぜ」
ユーリは服についた汚れを払いながら、再びこちらに視線を向ける。その表情はいつもと同じ、飄々とした様子だ。
「あ……本当だ」
「うち来いよ。みんなで飯食おうぜ」
「ありがと」
ユーリの誘いに、わたしは遠慮せずに頷いた。わたしをひとりにしないようにというユーリの気遣いを、ふいにしたくない。
「今日の食事当番、フレンだけどな」
「えっ」
「嫌ならが作るか、フレンの味つけの見張りするかだな」
「えー……」
軽妙なやりとりに、心が軽くなる。わたしを慰めて、励まして……ユーリの心が伝わってくる。きっとユーリにそう言っても、ユーリは否定するだろうけれど。
ユーリとふたり、ユーリたちが住む家への道を歩く。
「夕飯のメニュー、なにかな」
「フレンは鶏肉買ってたな」
なんでもない会話をしながら、わたしの頭にぼんやりと浮かぶのは、先ほど詰まってしまった言葉。
友達、友達……。わたしとユーリは、友達、幼馴染み。それ以上でも、それ以下でもない。それが事実で、わたしもそれでいいと思っていた。
でも、わたしは言えなかった。『友達』と言えなかったのは、それが嫌だから?
今の関係が心地いいと思っていた。あのときは確かにそう思っていた。
心が変わりゆくのを、感じていた。