変わりゆくもの/7
若い命が失われどこか沈んだ空気だった下町も、少しずつ活気を取り戻しつつある。特に夕暮れ時の下町は、遊び疲れた子どもの声とそれを迎える親の声が響く、温かで賑やかな時間だ。
市民街での仕事を終えたわたしは、子どもたちの明るい声を聞きながら自分の家への道を歩いている。疲れた体に下町の活気ある空気が染み渡る。父が亡くなってから仕事のために市民街へ赴くことが増えたけれど、やはり下町がわたしの居場所だ。
「あれ……」
歩いている途中、ふと裏道に人影が見えた。一歩戻ってその路地を見れば、そこにいたのはユーリだった。ユーリはいつものように片膝を立てた座り方で、壁にもたれかかっている。
「ユーリ、なにしてるの?」
「か……」
ユーリは顔だけわたしに向けると、挨拶のつもりだろう、左手だけ軽く上げてみせた。
「また騎士に追われてるの?」
路地裏にいるのは騎士団から逃れるためだろうか。わたしの問いに、ユーリは小さく頷いた。
「ま、そんなとこ」
「もう……また無茶して」
「おまえも見つからないうちに早く帰れよ」
「そうする。ユーリもほどほどにね」
騎士に見つかったらまたわたしも尋問されるかもしれない。早く家の中に入ってしまおう。そう思い早足で自宅への道を進む。
「……」
数歩走ったところで、ふと違和感に気づく。
ユーリは騎士に追われていると言っていたけれど、騎士団の姿は見えないし声も聞こえない。ユーリのいる場所もずいぶんと見つけやすい場所だ。実際、わたしはただ歩いているだけでユーリの姿が目についた。騎士から隠れるには不向きだろう。
それになにより、ユーリの様子が少しおかしかったような気がする。どこがどうおかしいか、はっきりとは言えないけれど、いつものユーリとは違う。
前にもあんなユーリを見た覚えがある。いつだったっけ。あれは、確か……。
「あ……」
そうだ。あのときだ。記憶の糸をたどったわたしは、急いでユーリのもとへ戻った。
「ユーリ!」
「……なんだよ、忘れもんか?」
ユーリは先ほどと変わらない格好のまま。いや、変わらないのではない。変えられないのだ。
「ねえ、体調悪いんじゃない?」
どこか上の空の視線、気怠そうな態度。ずっと昔、ユーリが風邪を引いたときと同じだ。
「別にそんなんじゃねぇよ」
ユーリはぶっきらぼうな声で言うけれど、その声もどこか弱々しい。わたしはユーリの隣で膝をつき、彼の顔をのぞき込む。建物の影でわかりにくいけれど、顔色も真っ青だ。
「じっとしてて」
無理矢理ユーリの額に手を当てれば、炎のように熱い。これは「少し具合が悪い」なんて程度ではないだろう。
「熱あるじゃない、休まないと」
「大したことねぇよ。これぐらい平気だって」
「だめ!」
ユーリがいくら頑丈でも、発熱した状態でこんなところにいていいはずがない。早くベッドで休まないと。ユーリの腕を引っ張ると、ユーリは小さくため息を吐いた。
「……家、帰りたくねぇんだよ」
「なにを子どもみたいな……あ」
ユーリの妙なわがままに首を傾げかけたけれど、すぐにその理由に気づく。
ユーリの家は孤児が暮らす家だ。先日、その家に住む子どもたちが怪我をした。目撃したわけではないから詳細はわからないけれど、どこかの空き家に入って遊んでいたら、そこの階段が崩れてしまったとか。ほとんどの子はかすり傷や軽い打撲で済んだけれど、一番のやんちゃ坊主のトマだけは足の骨を折ってしまったらしい。昨日お見舞いに行ったときには憎まれ口を叩くぐらい元気ではあったけれど、それでも重傷は重傷だ。怪我をした子どもたち、特にトマに風邪までうつしたくないと思うのは、ユーリでなくても自然な感情だろう。
「あいつらが寝たら帰るよ」
「でも……」
「大丈夫だって」
ユーリの気持ちは痛いほどわかるけれど、それでも体調を崩したユーリを外に放っておくわけにはいかない。わたしはどうするべきか考えて、口を開く。
「じゃあ、それまでうちで休んでなよ」
わたしの家なら風邪をうつして困る子どもはいない。父のベッドがまだあるから寝る場所にも困らない。さすがに泊めるのはよくないかもしれないけれど、夜までなら問題ないだろう。
「だから別にいいって……」
「よくない!」
ユーリはわたしの手を払おうとするけれど、わたしは振り払われまいとユーリの腕を掴む力をさらに強めた。
ユーリはいつもそう。苦しいのを隠して、強がって、いつまでもひとりで抱え込む。自分が潰れてしまうまで抱え込む。いや、きっと潰れてしまっても、それでもずっと抱え込む。
そんなユーリを、放っておけるわけがない。
「……」
じっとユーリの目を見つめる。どんなに睨まれたって、逸らすつもりはない。
「……こういうとき、おまえ絶対引かねぇもんな……」
ユーリは諦めたようにため息をひとつ吐いた。そして、ゆっくりと重い動作で立ち上がる。
「……悪い。ちっとだけ世話になるわ」
わたしの家は主に二部屋で構成されている。玄関に入ってすぐにはキッチン付きのリビングがあり、そしてその奥にはわたしの寝室がある。
生前父が使っていたベッドはリビングにある。ユーリは家に入るなり、そのベッドで倒れ込むように横になった。
「ユーリ……」
「……んな顔すんなって。別に死にゃしねぇよ」
「ん……」
わたしはユーリの額に濡れたタオルを置き、一度外に出る。介抱用の氷を取りに行くためだ。町の外れにある氷室へ向かう途中でフレンに会ったので、ユーリをうちで休ませている旨を伝えておいた。
氷を抱えて家へ戻れば、ユーリはベッドで苦しそうにうなされていた。「大したことない」なんて言っていたけれど、やはり相当悪いようだ。
下町の衛生状態は決していいとは言えないため、感染症にかかる住民は少なくない。そんな中でもユーリは持ち前の頑丈さで体調を崩すことは少なかった。久々の病は肉体的にも精神的にも堪えるだろう。
「ユーリ、タオル替えるよ」
そっと触れた額は先ほどより熱くなっている。熱はまだ上がっているようだ。
冷えたタオルの感触のせいか、ユーリは薄く目を開けた。
「……、自分の部屋戻れよ」
ユーリは横になったまま、かすれた声でそう言った。
「戻れないよ」
こんなユーリを放っておけるわけがない。わたしはすぐに首を横に振る。
「……うつるぞ」
「そしたらユーリが看病してね」
「おまえなあ……」
別に本気で看病してほしいと思っているわけではない。ユーリだってそれをわかっている。ただ、わたしがここから動きたくないだけ。ユーリをひとりにしたくないだけ。
「……勝手にしろ」
ユーリは呆れたような声を出すと、ゆっくりと目を閉じた。わたしはベッドのそばに腰を下ろし、じっとユーリを見つめる。ユーリの頬に汗がつーっと垂れるから、起こさないようそれをそっと拭いた。
先ほどフレンから聞いた話によると、ユーリが先週仕事を手伝った行商の人々も昨日まで体調を崩していたとのこと。ただ、おかしな病態ではなく、みなすぐに回復したらしい。おそらくは一般的な風邪だろう。市民街から医者を呼ぶ必要性は薄そうだ。どうか、ユーリもこのまま回復しますように。
ユーリをうちで休ませてから、数刻が過ぎた。ユーリが家に来たときはまだ窓からオレンジ色の太陽がかすかに見えていたけれど、今はもう真っ暗だ。ユーリを休ませるために家の灯りも抑えているから、室内も薄暗い。
ユーリの容態は変わらない。悪化もしていないようだけれど、息は荒く、額から感じる熱は相変わらず高い。
「ユーリ……」
額に乗せたタオルはすぐに温まってしまう。脇に置いた桶の氷水で冷やして、また替えて、また冷やして……。繰り返していれば、桶の中の氷は溶けてしまった。水ももうずいぶんとぬるい。そろそろ水を替えたほうがいいだろう。
ユーリの様子に変化がないことを確認して、わたしは桶を持って立ち上がる。すぐそこにある水道へ向かおうとした、そのとき。
「え……」
ユーリの手が、わたしの服を掴んだ。まるで、わたしを引き留めるかのように。
突然のことに、わたしは驚いてユーリを見やる。ユーリは変わらず、息を荒らげながら目を閉じている。
「ユーリ……」
わたしはその場に座って、ぎゅっとユーリの手を握った。
ユーリの行動が意識的なのか無意識下のものなのかはわからない。どちらであったとしても、その行動そのものにわたしの胸は強く締めつけられた。
ユーリは物心ついたときから親がいない。昔ユーリから聞いた話では、母親はユーリを産んで早々に亡くなったとのこと。それ以上のことは聞いていない。ユーリが知っているかも定かではない。下町の大人ならもっと詳しいことを知っているだろうけれど、ユーリが自ら聞いた様子はない。
親もいない。兄弟もいない。ユーリには幼い頃からずっと存分に甘えられる相手はいなかったのだろう。ハンクスさんは父のような存在だろうけれど、それでもハンクスさんは「みんなのハンクスさん」だから。
ユーリには、「彼」だけの存在がいないのだ。
家族がいないことについて、以前ユーリは「最初からいないから寂しいとも思わない」と言っていた。それはユーリ自身が本当に思っていることなのだろう。
それでも、こうやって弱ったときには、心の空白が浮き上がる。
わたしはユーリの手を握ったまま、彼の顔を見つめた。
「ユーリ……」
わたしの口から、ユーリの名前がこぼれ落ちる。呼びかけたわけではない。ただ、溢れてしまった。
下町は国から隔絶された存在だ。国も騎士もわたしたちを助けてくれない。助け合えるのは、わたしたちだけ。
部屋になんて戻れない。ひとりになんてできない。ユーリをひとりにしたくない。
ぎゅっとユーリの手を強く握る。わたしを引き留めた、ユーリの手。大きなはずのユーリの手が、やたらと小さく感じた。
そのままどれぐらいの時間がたっただろう。いつの間にかわたしも眠りに落ちてしまった。
夢を見た。五年前、父親を亡くしたときの夢。
それはあまりにも突然だった。夜、「風邪を引いたみたいだ」と青い顔をしていた父が、翌朝には冷たくなっていた。
死因はわからなかった。もしかしたらもともと心臓が悪かったのかもしれないと大人たちが話しているのを聞いたけれど、当時のわたしにとってはどうでもよかった。
父は死んだのだ。理由はどうあれ、大好きな父はもういない。
あまりに突然のことで、涙も出なかった。どうしたらいいかわからなかった。
父を墓に埋葬するとき、心配してくれた友人たちにも「大丈夫」と言ってしまった。
「ひとりでも大丈夫だよ。なんとかなると思う」
そう、大丈夫。下町のみんながいるのだから、お父さんがいなくなっても、きっと大丈夫。問題なくやっていける。
彼女たちもそれ以上は踏み込まなかった。きっと彼女たちは両親どちらも、もしくはどちらかが存命だったから遠慮したのだろう。
埋葬を終え、夜、家でひとりになったとき、怖くなった。
ふらふらと外に出た。いつも父がいた家にひとりなのが耐えられなかったのか、外に行けば誰かに会えるのかと思ったのか。わからないけれど、ひとりで外に出た。
夜の下町は暗く、出歩く人間はほとんどいない。誰もいない道を歩き続けて、わたしは路地裏に腰を下ろした。
母はわたしを産んで数ヶ月で亡くなった。たったひとりの肉親の父ももういない。
わたし、ひとりになっちゃった。
いや、違う。ひとりなんかじゃない。友達もいる、家族のような下町のみんなもいる。ひとりではない。決して、ひとりぼっちではない。頭ではわかっているのに、怖くなった。
抱えた膝に顔を埋める。大好きな父はもういない。たったひとりの家族が、死んだ。
頭の中が真っ白だった。涙も出ない。ただただ、なにも考えられなかった。
呆然としていると、ひとりの足音が聞こえてきた。軽い小さな足音。大人のものではない、おそらく子どもの……同じ年頃の足音だ。
おそるおそる顔を上げる。そこにいたのは、ユーリだった。
「ユーリ……」
「大丈夫じゃねえだろ」
ユーリはわたしを見ると、顔を歪ませた。星明かりに薄く照らされた、複雑な感情が入り混じった顔。怒りと悲しみと苦しみと、すべてが混ざった強い表情。
「だ、大丈夫だよ」
「……」
「だって、わたしより大変な人、たくさんいるし……」
そう、大丈夫。きっと大丈夫。
目の前のユーリだってそう。わたしよりつらい境遇でも生きている人はたくさんいる。下町にはそんな人がたくさん……いや、きっとほかの町もそうだろう。産まれてすぐに家族を喪った人は、この世界にはいくらでもいる。
わたしはもうそこまで幼くない。ひとりでもなんとかなる。支えてくれる友達もいる。助けてくれる大人たちもいる。下町のみんながいる。なんとかなる。なんとかしなくちゃいけない。
「ほかのやつなんて関係ねぇ」
ユーリの低い声が、響く。
「おまえが、大丈夫じゃねぇんだろ」
その言葉に、わたしの手が震え出す。
悲しい、怖い、つらい、苦しい。ほかの人なんて、知らない。今、わたしは、悲しい。怖い。つらい。苦しい。負の感情が一気に押し寄せて、涙があふれ出す。
「うう……っ」
大好きな父が死んでしまった。置いて行かれてしまった。ひとりになってしまった。
なんとかなる? 本当に? ひとりで生活すること自体はきっとできる。生活するのに必要なことはもう自分でこなせるから。
でも、心は違う。大好きな父はもういない。ひとりは嫌だ。ひとりは寂しい。悲しい。怖い。苦しい。
お父さん、どうして死んでしまったの。どうしてわたしを置いていったの。どうして、わたしをひとりにしたの。こんなときはお父さんに甘えたいのに、どうしていないの。
ぐちゃぐちゃな思考のまま、わたしはただ声を上げて泣き続けた。
ユーリはなにも言わず、慟哭するわたしの隣にずっといてくれた。
いつの間にかつながれた手が、温かかった。ひとりではないと、言ってくれているようだった。
あれからだった、わたしがユーリを意識するようになったのは。いつしかその思いは大きくなって、溢れるほどになっていた。
あのときからずっと、わたしはユーリに守られてばっかりだ。
目を覚ますと、あたりは明るかった。窓から太陽光が差しているのだ。
ああ、つまりもう朝なのか。寝起きの頭で、ぼんやりと思考を巡らせる。
「朝!?」
いつの間に朝に!? 一気に頭が覚醒する。慌ててつないでいた手を解いて、ベッドの上のユーリを見つめる。眠るユーリの表情は、苦しさは感じられないいつもの寝顔だ。ゆっくりと胸を上下させており、息も荒い様子はない。額に手を当てれば、ほのかに温かい、通常の体温だ。ユーリの風邪はだいぶよくなったよう。わたしはほっと安堵の息を吐く。
「ん……」
額に触れたからか、ユーリがゆっくりと目を覚ます。ユーリは何度か瞬きをしたあと、上半身を起こして重そうに頭を押さえた。
「ユーリ、体調どう?」
「ああ……悪くねぇな。だいぶマシになったわ。サンキュ」
ユーリは肩を回したり伸びをしたりと、自身の体を確認する様子を見せる。声もかすれていないし、苦しそうな様子もない。どうやら一晩ですっかりよくなったようだ。回復が早いのはもとが頑丈だからだろうか。なんにせよ、ユーリの元気な様子にわたしは胸を撫で下ろす。
「げっ、もう朝なのかよ」
ユーリは窓から差す日差しに気づき、焦った表情を浮かべた。もともとユーリは子どもたちが寝ついた頃に帰るつもりだったのだ。それが一晩わたしの家で過ごてしまうなんて、慌てて当然だろう。
「ご、ごめん。わたしもうっかり寝入っちゃって……」
わたしも時間を見てユーリを起こすつもりだったのに、ついぐっすり眠ってしまった。まさかあの状況で一晩眠り込んでしまうとは……。
「いや、オレとしては世話になったし謝られることじゃねえけどさ。……なあ、もしかして、ここでずっと寝てたのか?」
「う、うん」
わたしが頷いたのを見て、ユーリは「おまえなあ……」と呆れたような声を出す。
「この間の空き家の件といい、おまえ警戒心とかねぇの?」
警戒心という言葉に、わたしは目を丸くする。
警戒心、警戒心……。ユーリの言わんとすることは理解できる。男の前で気を抜いたり、ましてや寝たりするなと言いたいのだろう。
「自分でも一晩寝ちゃったのはさすがにどうかと思ってるけど……」
町のおばさんたちからも「変な男って言うのはたくさんいるからね」ときつく言われているし、わたしだって用心していないわけではない。けれど、ユーリの前でそれが薄れるのも事実だ。
「昨日はユーリ具合悪かったし……。それに、ユーリはそんなことする人じゃないって知ってるし」
十五年間一緒にいるのだ。ユーリは口と態度は悪いけれど、困っている人を放っておけないお人好し。特に女子供といった弱い立場が相手となればその性格が強く出る。そんなユーリがわたしに妙なことをするなんて、微塵も思っていない。ふたりきりで緊張感は抱いても、警戒心はない。
わたしの思いを伝えると、ユーリは目を丸くする。そして、ベッドの上でうつむいて大きくため息を吐いた。
「おまえさ……」
「う、うん」
「……いや、やっぱいいわ」
ユーリは先ほどとは打って変わって穏やかな笑みを浮かべると、軽い動作でベッドから降りた。
ユーリがなにを言おうとしたのか気にはなるけれど、それよりも軽快な様子に安堵する。体調はすっかり回復したようだ。
「つか昨日フレンになんも言ってねえ……帰ったらどやされんな」
「あ、一応昨日会ったときにユーリの体調悪いからうちで休ませてるとは言ってあるよ」
「……それはそれでなんか言われそうだな」
「確かに……」
ユーリと顔を見合わせて、ふたりで苦笑する。
部屋の外から、鳥の声が聞こえてきた。
「じゃあ帰るわ。いろいろとありがとうな」
わたしは自宅玄関で、自身の家へと戻るユーリを見送る。
ユーリは顔だけこちらで洗い、早々に帰り支度を整えた。まだ早い時間、ユーリの家で今起きているのはフレンぐらいだろう。子どもたちが起きてこないうちにこっそり帰りたいようだ。
「今日は無理しないようにね」
「わかってるよ。も体調悪くなったらすぐ言えよ」
「ユーリが看病してくれるんだもんね?」
「おう。丁重に看病してやるよ」
冗談を言い合って、お互い手を振った。家路につくユーリを見送り、わたしはひとりになった自宅を見つめる。さて、ユーリが使ったシーツや布団はすぐに洗った方がいいだろう。一晩一緒にいたのだから今更風邪がうつるのを心配するのもおかしな話かもしれないけれど。
「よいしょ、っと……」
剥がしたシーツは、まだほのかに温かい。ユーリの体温が残っているのだ。つい先ほどまでユーリが寝ていたのだから当然だ。
「……」
な、なんだか急に恥ずかしくなってきた。わたしの隣で、ユーリがここに寝ていたのか。いや、別に看病していただけで妙なことはなかったのだけれど。……手はつないだけれど、あれは変な意味ではないし。
……手をつないだまま、一晩寝てしまったのか。
なんだか居いたたまれなくなって、わたしはその場に座り込む。心臓の鼓動がやたらと強く打っている。
今更ながらにユーリの「警戒心とかねえの?」という言葉が突き刺さる。ユーリの言うとおり、信頼しているとは言え油断しすぎなのかもしれない。
わたしとユーリは、もう年頃の男女なのだ。昔のようには、いられない。
ユーリが風邪を引いたあの日から、一週間がたった。今日も下町は快晴で、水道魔導器の周辺には子どもたちの楽しげな声が響きわたる。わたしは魔導器前の段差に腰掛けて、子どもたちの様子を眺めていた。
「よっ」
「ユーリ」
そこにユーリが軽い足取りでやってくる。ユーリの風邪はぶり返すこともなく、家の子どもたちにうつることもなかったようだ。
「もうすっかり元気みたいね」
「おかげさんでな。も大丈夫か?」
「うん、体調は問題なし」
一晩一緒にいたのだからユーリの風邪をもらう覚悟はしていたのだけれど、結局わたしは体調を崩すことなく一週間過ごすことができている。ユーリほど頑丈ではないわたしが体調を崩さなかったのは、単に運が良かったのだろう。
「そっか。安心したよ」
「心配してくれてたんだ?」
「そりゃ……」
隣に座るユーリの顔をのぞき込むと、ユーリはふいと頬を染めてそっぽを向いてしまった。照れなくたっていいのに。
「……昔、おまえに風邪うつしたことあっただろ」
「え、あったっけ?」
「あったよ。ガキなりに悪いことしたと思ってたからな」
ユーリに促され、記憶の糸をたどる。
「ああ、あれね」
そうだ。以前に一度ユーリが体調を崩したのを見たことがあったけれど、そのユーリに会った二日後にわたしも熱を出してしまったのだ。あれはいつだったか、父を亡くす少し前だったから九歳……いや、十歳の頃。
あのとき、ユーリが熱を出したとフレンに聞いて、わたしはすぐにお見舞いに行った。そこで見たのは、ベッドでうなされるユーリの姿。どこか上の空の視線、気怠そうな態度。そのときユーリの家にはユーリ以外誰もいなくて、ひとりで熱に浮かされるユーリが心配で思わず駆け寄った。ユーリは当時から頑健で、怪我は多くても体調を崩すことはほとんどなかった。弱ったユーリの姿に驚いてしまったのだ。
「あんとき、ハンクスじいさんたちも忙しくていなかったんだよな……うなされてる間、おまえがずっとそばにいたの覚えてるよ」
「ユーリって滅多に風邪引かないから心配で……」
「オレが帰れって言っても帰んなかったんだよな」
あのときも先週と同じようにユーリの額のタオルを替えて、汗を拭いて看病して……。
『……、家帰れよ』
『帰れないよ、心配だもん』
『心配って……別に死にゃしねぇよ』
『でも、ひとりにできないよ』
当時の会話を思い出す。この間と同じようなやりとりだ。あのときも「帰れ」というユーリの顔をじっと見つめた。ユーリは諦めたように息を吐き、「勝手にしろ」と言ったのだ。
だって、ユーリをひとりにできなかった。体調を崩したときの心細さはわたしだって知っている。わたしが風邪を引いたときは、いつも父がそばにいてくれた。でも、あのときのユーリには誰もいなかった。ユーリの家の当時の年長者たちは仕事でおらず、ハンクスさんたちも外せない用事でいない状況で、ユーリをひとりにできなかった。
「おまえ、昔から言い出したら聞かねぇもんな」
ユーリはふいに自身の手を見つめる。先週わたしを引き留めた手。一晩ずっとつないでいた手。
そう。あのときも同じだった。寝込むユーリの隣でずっとその手を握っていた。どれぐらいそうやって過ごしていたのか、今はもう覚えていない。確か日が沈む頃に急ぎ用事を終えたハンクスさんがやってきて、ようやく帰途についたことだけは覚えている。
そして、その二日後、見事にわたしも熱を出したのだ。
「懐かしいね……」
わたしも自分の手を見つめる。今はつながれていない、ひとつの手。あのときのわたしは、ユーリを支えたい一心でユーリの手を握った。
思えば何度もユーリと手をつないできた。きっと思い出せない記憶の中にも手をつないだ日はあったのだろう。
手をつないだ一番古い記憶は、十年前のもの。なにも考えずにつないだ、無邪気な手。手をつないだ一番大事な記憶は、五年前のもの。父を亡くしたわたしを支えてくれた、大きな手。
ユーリはわたしと手をつないだことを覚えているだろうか。わたしのように大事にしている思い出はあるのかな。五年前につないだことは覚えている? 一週間前にわたしを引き留めたこと、一晩ずっとつないだままだったことは熱で朦朧としていて覚えていないだろうか。聞きたい気持ちと、わからないままでいたい気持ちが交差する。
「手、なんかついてんのか?」
「え……べ、別に。ていうかユーリだって自分の手見てたじゃん」
「ああ……」
ユーリは再び自分の手に視線を移す。ユーリがその手に見ているものはなんだろう。五年前のこと? 空き家に閉じ込められたときのこと? わたしを引き留めたこと? 一晩ずっと、つないだこと? ユーリの目は温かで、どこか懐かしさをはらんだ優しい瞳。
「おまえ、本当に世話好きだなと思ってさ」
ユーリは顔を上げると、軽い口調でそう言った。
「そう……?」
世話好きというのは否定しないけれど、それを言うならユーリなんてもっと世話好きだと思う。ユーリは同じ家に住む孤児たちの世話をいつも焼いているのだから。
「世話好きだろ。こっちが怪我してりゃ目ざとく見つけてくるしさ」
「だって、放っておけないじゃない」
「ま、のそういうとこが……」
流暢にしゃべっていたユーリは、言葉の途中で突然口をつぐむ。少し恥ずかしそうに、口を手で押さえている。
「なに?」
ユーリは「」と言っていた。わたしのことを話すつもりだったのだろう。言葉の続きが気になるに決まっている。
「なんでもねぇ」
「え、なに? 気になるじゃん」
「なんでもねぇって!」
ユーリが立ち上がって歩き出してしまうから、わたしは慌ててユーリの背中を追いかける。ユーリの腕を掴んで、じっとユーリの顔を見つめれば、ユーリは焦ったように顔を背けた。
「なんなの? 教えてよ」
「たいしたことじゃねぇよ」
「じゃあ言ってよ!」
「もう忘れた」
「はあ!?」
ユーリが逃げようとするから、腕を掴む手を強める。やいのやいのと大声で言い合いをしていると、通りの向こうからフレンがやってきた。
「ユーリ、ここにいたのか。集会所でハンクスさんが呼んで……なにしてるんだい?」
「おっ、フレン、ちょうどいいとこに。ちょっと行ってくるわ」
「あ、こら!」
ユーリはするりと腕を抜くと、集会所へと駆けて行ってしまう。足の速さは絶対に敵わない。わたしは仕方なく諦めることにした。
「……もしかして、悪いことしたかい?」
フレンの問いに、わたしは笑って首を横に振る。気にはなるけれど、どんなにしつこく聞いてもおそらくユーリは教えてくれない。どういうときにユーリが引かないか、わたしも知っているのだ。
わたしはひとつ息を吐いて、先ほどまでユーリを掴んでいた手を見つめる。
幼い頃は無邪気につないだ手。五年前はお互いを支えるためにつないだ手。じゃあ、今は?
次につなぐときは、そこにどんな思いが込められるのだろう。