変わりゆくもの/8
「フレン、本っ当にありがとう!」
下町と市民街をつなぐ坂道で、わたしはフレンに手を合わせる。
「そんな、大げさだよ」
「でも本当に助かったから」
つい先ほどのこと。市民街で買い物をしていたら、市民街の住人と思しき男性に突然声をかけられた。なんだろうと思って足を止めたら、なんてことないただのナンパ。とはいえ、下町にいるとナンパなんてされることもない。どうやって断ればいいかわからずにうろたえていたら、颯爽とフレンが間に入ってくれたのだ。ナンパ男はあんなにしつこかったにも関わらず、フレンを見るやいなや大きなため息を吐いて去っていった。
「最近は市民街にも僕らに友好的な人が増えてきたけど、こういうことも増えるんだね……」
「さっきのは友好的って言うんじゃなくて、わたしたちのこと下に見てるんだよ」
前は汚いものを見るような蔑む視線だったのが、今はうまく支配できそうと思っているだけ。まあ、わたしたちを日雇いで雇ってくれる行商など、本当に友好的な人が増えたこと自体は否定しないけれど。
「まあ、そうだね……」
「あ……あと、なんかごめんね。さっき、変なこと言われちゃって……」
先ほどの男は、間に入ったフレンを見るなり「彼氏持ちか」と大声でため息を吐いていた。もう会うことのない相手だろうけれど、おかしな誤解をされてフレンに申し訳ない。
「それは僕のほうこそ」
「わたしは別に……」
「ユーリにも悪いことしたね」
突然出てきたユーリの名前に、わたしはぽっと顔を赤くする。
「な、なんでユーリが……」
「だって付き合ってるんじゃないのかい?」
「違うよ!」
つい大声を出してしまって、わたしははっと口を押さえる。きょろきょろと周囲を見渡すけれど、坂道の中でも市民街に近いせいか、わたしたちに注目する人はいない。
「べ、別にユーリとはそういうんじゃないし……」
「そう? 僕にはそうとしか見えないんだけど」
「そんなこと言われても……」
ユーリとわたしは友人だ。それは間違いない。わたしとフレンのように、ユーリとフレンのように。
「君はさ、下町でナンパ……というか、そういう声のかけられ方はしたことないだろう?」
「え、ないけど……」
「それはユーリがいるからだよ。みんな、にはユーリがいるって思ってるから」
フレンの言葉に、胸がうずく。
ユーリと仲がいいのは否定しない。わたしにとって一番親しい男性はユーリだし、ユーリにとって一番親しい女性はわたしだろう。それはきっと、下町のみんなが知っている。だから付き合っているように見えるのだろうか。それとも、ほかの理由があるのかな。
「でも、本当にそういうんじゃないし……」
どんなにそう見えたところで、実際は違う。ユーリとわたしは「友人」であって、「恋人」ではない。
「……の気持ちは?」
「え?」
「実情がそうでも、大事なのは君の気持ちなんじゃないかな。……いや、ごめん、さすがにお節介が過ぎるかな」
フレンは困ったような笑顔をわたしに向ける。
わたしの気持ち。ユーリのことを好きだと思う。それは友人としてではなく、特別な意味で。
でも、今のままでも恋人同士のようだというのなら、わざわざ関係を変える意味はあるのだろうか。……いや、わたしだって幼い子どもではない、友人と恋人の差ぐらいわかっている。
わかっているけれど、ならわたしは「このまま」を壊して「そう」なりたいの?
「ごめん、僕は市民街に戻るよ。夕飯の材料を買わないと」
「あ、買い出しに来てたんだ……ごめん、邪魔しちゃって」
「そんなことないよ。じゃあ、また」
フレンは颯爽と市民街への坂道を駆け上がっていく。
わたしはその後ろ姿を見つめながら、再び自問する。
ユーリに嫌われているとは思っていない。「気ぃ強え女」と言われることはあるけれど、避けられることはないし、少なくとも友人として接してもらってはいるだろう。
じゃあ、その先は? わたしはどうしたい? この前友人と言うのにためらいがあったのは、ただの友達じゃ嫌だから?
それともこのままでいるの? このままでいいのか、わからない。わたしはどうしたいのだろう。だって「このまま」が嫌なら気持ちを告げなければならない。それでだめだったら? 今みたいに気安く声を掛け合うことはできなくなるだろう。狭い下町、嫌でも顔を合わせるのにずっと気まずいまま?
このままがいいわけではないと、自分でも薄々感じていた。けれど、「このまま」を壊すのも、怖い。
フレンと話して、丸一日がたった。わたしは今も、ユーリについて考え込んでいる。
「はあ……」
水道魔導器の前で座り込んで、ため息をひとつ吐く。いくら悩んでも答えは出ない。どうすればいいのか、どうしたらいいのか。天を仰いでも、そこに答えは書いていない。
「ユーリ・ローウェル~!」
「っ!」
突然、市民街のほうから怒声が響いた。ユーリの名前を聞いて、わたしの心臓は大きく跳ねてしまう。
速まる鼓動を抑えながら坂道の上を見ると、そこには二人の騎士の姿がある。見覚えのある騎士だ。警備の仕事をサボるくせに、下町をうろついて住民を威嚇する嫌な騎士。しかも女性には妙に馴れ馴れしいときた。見つかりたくないな。前にわたしも揉めたことがあるし、なにより今ユーリの名前を出されて平然としていられる気がしない。どこかに隠れてやり過ごそう。
「隠れられそうな場所は……」
あたりを見渡して、手近な路地に目をつける。騎士が坂を下りきっていないことを確認して、わたしはその路地裏に飛び込んだ。
しかし、そこには先客がいた。
「よっ、気が合うな」
「ユーリ……」
その路地裏にはユーリが身を隠していた。ユーリは高く結んだポニーテールを揺らめかせながら、追われているとは思えない明るい声を出す。
「おまえも隠れんだろ、もっとこっち来いよ」
「え、あ……うん」
ここで路地から出るわけにはいかない。わたしは言われるままに一歩ユーリの方へと近づいた。向かい合う格好となり、わたしの頬とユーリの肩が自然と触れ合う。
昔は同じぐらいだった身長が、今はこんなにも違う。ああ、まずい。またドキドキしてきた。
「……今度はなにしたの?」
平静を装って、わたしはユーリに問いかける。このまま黙っていたら、心臓の音がユーリに聞こえてしまいそうだから。
「市民街でちょっとな」
「本当、すぐ揉め事起こすんだから……」
「おまえに言われたくねえ」
「もう……」
いつもみたいに反論したいのに、うまく言葉が出てこない。昨日フレンにあんなことを言われたせいか、やたらと意識してしまう。
「やべ、来るぞ。、もっとこっち寄れ」
「わっ」
ユーリはわたしの腕を掴んで、自分の方へと引き寄せる。
「静かにしてろよ」
大人がひとり通れるだけの細い路地だ。自然とユーリとわたしの体は密着してしまう。あまりの近さに、わたしの心臓は大きく鼓動を打った。
見上げればすぐそばにあるユーリの顔。騎士が来ないか見張っている横顔だ。ユーリは非常に整った顔立ちをしていると、陰で評判になっている。わたしも知ってはいたけれど、改めて間近で見ると吸い込まれそうなほどに綺麗だ。
わたしはユーリと、このままの関係でいいの? このまま? 今のまま?
友達の、まま?
「行ったっぽいな」
ユーリの言葉にわたしははっと我に返って、伸ばしかけた手を引っ込めた。
わたし、今、なにをしようとしていたんだろう。今、無意識にわたしの手はユーリの頬へ向かっていた。
ユーリに、触れようとしていた。
「どうした? 顔赤いぞ。オレの風邪うつった……にしては遅いよな」
「べ、別に……」
ユーリに顔をのぞき込まれ、思わず顔を背けた。
顔が熱い。火が出そうなほどに、熱が集まっている。
「……? とりあえずオレは市民街の方に行くわ。しばらくはあいつら下町の中探すだろうから。おまえも見つからないよう気をつけろよ」
ユーリはそう言うと、颯爽と市民街へ続く坂を駆けて行った。高く結ばれたポニーテールが、左右に揺れている。
わたしはたまらなくなって、その場に座り込んだ。
ユーリに触れようとした。触れたいと思ってしまった。
幼い頃は無邪気につないだ手。五年前はお互いを支えるためにつないだ手。その手が、今は小さな欲を持ってしまった。
顔どころか、全身が熱い。
心臓が、爆発してしまいそう。