変わりゆくもの/10

 水道魔導器前の広場に座り、わたしは足をぶらぶらと揺らしながら天を仰ぐ。まともに太陽を見そうになって、慌てて手で太陽を隠した。
 昨日のお産は安産で、経産婦ということもあり出産は比較的短時間で問題なく終わった。安産過ぎてわたしの出番などなかったほど。お母さんはもちろん、お父さんもお兄ちゃんも、みんな嬉しそうに笑っていたのがうれしかった。
 お産は無事に終わったというのに、わたしはまだドキドキしている。お産の現場に向かう前にユーリと話していたことが気になって仕方ないのだ。
 ユーリ、家にいるかな。会いに行こうかな。今すぐ話がしたい。いや、もうちょっと心の準備をしたい気もする。今会ったら、心臓が破裂してしまいそう。でも……。
 思考がぐるぐる回って目が回りそう。とはいえ、ここで座り込んでいても仕方がない。よし。あと三回深呼吸をしたら、ユーリの家に行ってみよう。心を決めた、そのとき。
「ユーリ・ローウェル~! どこだ~!」
「っ!」
 突然聞こえてきたユーリの名前に、わたしは飛び上がる。どうやら騎士がユーリを探しているらしい。あの声は何度か会ったことのある騎士の声だ。よくユーリの居場所をわたしに聞いてくる陰険な騎士。ユーリに会う前に尋問されたらたまったものじゃない。隠れる場所を探すため、水道魔導器前の広場から家の密集する場所へ向かった。
「わっ!?」
 一軒の空き家の前で、突如腕を引かれた。そのまま路地に引き入れられて、わたしは体をこわばらせる。
 なに!? 不審者!? 大声を出そうとしたけれど、わたしを引っ張った相手を見て、その声を飲み込んだ。
「ユーリ!」
「静かにしろって」
 わたしを路地裏に引き込んだのはユーリだった。ユーリは騎士の様子を確認しているのだろう、広場の方向を見やった。
 ど、どうしよう。こんなかたちでユーリと顔を合わせるとは思っていなかった。まだ心の準備ができていない。
「くそ、しつけえな、あの騎士」
「……今度はなにしたの?」
 ユーリに気づかれないように、一つ二つと深呼吸をした。どうにか心を落ち着けて、いつもの質問をユーリにぶつける。
「川に落とした」
「川って……」
 わたしは大きく嘆息を吐く。ユーリが騎士と揉めるのは毎度のことだけれど、今回はずいぶんと派手にやったようだ。ま、いい気味と思ってしまうわたしも同類かもしれないけれど。
「げ、来たな」
 騎士の甲冑の音が近づいてくる。騎士に見つからないよう、わたしは口をつぐんだ。
「そこだと通りから見えるぞ、もっとこっち来い」
「え、わっ!」
 ユーリはぐいとわたしを引き寄せる。いつもならわたしを引っ張る腕はすぐに離されるのだけど、今回は違う。ユーリの左手は、わたしの肩を抱き寄せている。
 抱きしめられるような格好に、わたしの頬に一気に熱が集まった。ドクン、ドクンと、大きく心臓が鼓動を打っている。わたしの胸とユーリのそれはくっついてしまっているから、きっとわたしの心臓の音はユーリに伝わっているだろう。それとも、この鼓動はユーリのものなのかな。だって、わたしがドキドキしているのなら、ユーリだってそうでしょう?
 間近にあるユーリの顔を見上げる。いつの間にかユーリはわたしより背が高くなった。声も低くなって、どんどんと男の人になっていく。
 でも、憎まれ口やぶっきらぼうなところは相変わらずで、そして優しさも変わらない。
 わたしが一番つらいときに、手を握ってくれた。ひとりじゃないと教えてくれた。あのときからずっと、わたしの好きな人。わたしの大切な人。
 照れてしまって、うまくユーリの顔が見られない。でも、目が離せない。ユーリのことをずっと見つめていたい。
 ユーリに、触れたい。
 友達のままでいいなんて、なにをバカなことを思っていたのだろう。子どもの頃の「おともだち」のままで満足できるはずもないのに。
 ユーリを見つめていたい。ユーリに触れたい。だって、ユーリが好きだから。
 ねえ、ユーリもわたしと同じ気持ちなの?
 通りの様子を確認していたユーリが、ふと顔をこちらへ向ける。わたしの視線とユーリの視線が、重なる。
 ユーリの目は、昨日と同じ強い瞳。意志がはっきりと宿った鋭い視線に、わたしは動けなくなる。
 ユーリの顔が、近づいてくる。
 唇と唇が、触れ合った。
 キスされた。そう思ったときには、唇はもう離れてしまっていた。
「え……」
 あまりに突然で、あまりに一瞬のこと。頭の中が真っ白で、でも沸騰しそうなほどに、熱い。
「え、あ、な、なんで」
「……嫌だったのかよ」
 口をぱくぱくとさせていると、ユーリはふいと目を逸らした。ぶっきらぼうな物言いだけれど、その頬は赤く染まっている。
「嫌じゃないよ!」
 嫌じゃない。嫌なわけがない。むしろ、胸がときめいて仕方ない。
 ユーリはふっと表情を緩めると、右手でわたしの頬に触れた。大きな手が、わたしの頬を温かく包む。
 もう一度、キスされる。そう思った、そのとき。
「ローウェル! 見つけたぞ!」
「!!」
 はっと声のする方を向けば、そこには不躾にこちらを指さす騎士の姿が。濡れ鼠状態の騎士は怒り心頭と言った様子で、鼻の穴を膨らませながらこちらへ向かってくる。
「やべ、逃げるぞ!」
「えっ」
「こっちだ!」
 ユーリはわたしの手を取ると、勢いよく走り出す。わたしはユーリに引っ張られながら、その手を強く握り返した。

「はあ、はあ……」
 下町の奥の入り組んだ区画まで来たところで、ユーリはようやく走りを緩める。騎士の甲冑の音は聞こえてこない。どうやら撒けたようだ。
「もう追ってきてねぇな」
「……た、たぶん……」
「悪ぃ、早く走りすぎたか。大丈夫か?」
 ユーリは聞きながらも、つないだ手を離そうとしない。わたしももちろん、それを振り払うことはしない。
「ん……なんとか」
 ようやく息は整ってきたけれど、心臓の鼓動は収まらない。まだ、唇にキスの熱が残っている。
「ユーリ」
 わたしは真っ直ぐユーリを見つめる。ユーリも同じように、わたしをじっと見つめ返す。先ほどと同じ、わたしたちの視線は重なっている。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「……ああ」
「さっきの……わたし以外には、しないよね」
 自分の唇に触れながら、問いかける。
 答えはわかっている。ユーリが誰彼構わずそんなことをするはずがないから。なによりつながれた手が、それを物語っている。
 でも、ちゃんとユーリの口から聞きたかった。大切な人の言葉を、大切な人の口から聞きたい。
「するわけねえだろ」
 ユーリは照れくさそうに、でも、わたしの目を真っ直ぐ見つめてそう言った。
 うれしくなって、わたしはユーリに体を寄せる。ドクン、ドクンと、心臓の音が聞こえてくる。これはわたしの鼓動なのかな。それともユーリのものなのかな。ううん、きっとふたりの心臓の音。
 ユーリの指が、わたしの耳に触れる。わたしはくすぐったくて、思わず目を細めた。
 わたしたちは、もう一度キスをした。
 目を開けた先に見えるのは、「友達」ではない。
 たったひとりの恋人が、そこにいる。
 わたしたちが十六歳になる、直前の日のことだった。