変わりゆくもの/おまけ3

「なあ、フレン。そっちにタマネギ入ってるか?」
 隣を歩くユーリの問いに、僕は抱えた袋の中身を確認する。取れたてのタマネギが三個、四個……。「あるよ」と答えれば、ユーリは「んじゃ今日の夕飯は……」と夕飯の献立を考え始めた。
 僕やユーリの住む孤児の集まる家は、下町の住人の善意で成り立っている。畑で採れた作物を回してもらったり、下町のみんなが集めた貯金で必要な物資を調達したり……。今も僕とユーリは町の外れにある畑の作物をもらい、家へと持ち帰っている最中だ。
「よっ、ユーリ、フレン」
 家への道を歩いていると、同年代の友人がやってきた。彼も以前は僕たちと同じ家に住んでいたけれど、少し前に下町の空き家へ居を移している。
「なあ、ユーリ。今と付き合ってんだろ?」
 友人はユーリの肩に腕を回すと、軽薄な口調でそう言った。
 ユーリとの交際は、狭い下町ではすぐに知られることとなった。もともと距離の近かったふたりだから、「あれ? 今までは付き合ってなかったの?」なんて声もちらほら聞こえてくるほど。
「なあなあ、どこまで行ってんだ?」
 友人のニヤニヤと少々下卑た笑みを浮かべての質問に、僕は眉をひそめた。
 そういったことに興味を持つ気持ち自体は僕にもわかる。しかし、架空の話ならともかく、当人が存在するのに下世話な話をするのは褒められた行為ではない。窘めようと口を開くと、僕の声がのどを通り過ぎる前に、ユーリの手が彼の腕を振り払った。
「バカなこと聞いてんじゃねぇよ」
 ユーリはぴしゃりと彼の質問を一蹴する。声以上に、その目には冷たいものが宿っている。
 友人は諦めずに「照れんなよ~」と軽い口調で言うけれど、ユーリが軽蔑のまなざしを向けていることに気づいたのだろう。彼は慌てた様子で僕たちの前からすごすごと退散した。
「意外だね」
 彼の背中が見えなくなったところで、僕は隣を歩くユーリを見つめた。
「なにが?」
「いや、意外でもないか」
「だからなにがだよ」
の話をしてしまうかと思ったけど、ユーリはそういうことをするような人間じゃないね」
 ユーリは口は悪いし、同年代の仲間たちと悪乗りをすることもある。だから先ほどの友人の問いかけに乗ってしまうかと一瞬思ってしまった。しかし、ユーリがのプライベートなことを簡単に周囲に漏らすはずがない。よく考えずともわかることだった。
「言うわけねぇだろ」
「そうだね、君はのことを大切にしているからね」
 僕が言い終えるやいなや、ユーリは突然むせかえる。
「なに言ってんだおまえ……」
「違うのかい?」
 ユーリは「そういう話じゃなくてだな……」と言いながら、どこか居たたまれないといった様子で頭を掻いている。しかし、僕の言葉を否定することはない。
 ずっとユーリの隣にいたのだから、ユーリがどれだけを大切に思っているか知っている。ユーリは誰に対しても情に厚くて放っておけない病だけれど、それでもに対するユーリのまなざしはいつだって特別だ。
「口には出さなくても、大切なんだなって見ていればわかるよ」
「へいへい……」
 ユーリは諦めたのか、呆れたような嘆息を吐く。結局最後まで否定はしないらしい。
「ああでも、には言葉にして伝えたほうがいいよ」
 ユーリのことだ、どうせにも直接言ってはいないのだろう。彼女だってユーリが自分を大切に思っていることは知っているだろうけれど、「なんとなく知っている」ことと、「言葉にして伝えてもらう」ことには大きな隔たりがあるはずだ。
「伝わってんならいいじゃねぇか」
「不安にさせてしまうよ。気持ちはちゃんと言葉にしないと。そうだ、今日の夕飯はうちで食べるって言っていたし、いいチャンスだよ」
「悪ぃけどおまえに女心を諭されるいわれはねえ。この間家のやつらにも『フレン兄ちゃんデリカシーない!』って文句言われてただろ」
「そ、それは……確かに言われたけど、あれは子どもじゃないか」
「ほーら、そういうとこだぞ」
「まったく……僕だってユーリにだけは言われたくないんだけどな」
「おまえ喧嘩売ってんのか?」
「だいたいユーリは……」
 どんどん話が脱線していると感じながらも、お互い口が止まることはない。やいのやいのと言い争いをしながら、僕たちは家までの道を歩き続けた。



「ごちそうさまでした」
 ユーリとフレンの家で夕食を食べ終えたわたしは、空のお皿の前で手を合わせた。そうすれば隣に座る幼い子どもたちも「ごちそうさまでした!」と言って同じように両手を合わせてくれる。
 ユーリやフレンはもちろん、ほかの子どもたちもみな食事は終えたようだ。洗い物をするためテーブルの上の食器をまとめていると、フレンが横から重なったお皿を持ち上げた。
「夕飯は君が作ってくれたからね、ここは僕がやるよ」
「そう? じゃあお願いしようかな」
 フレンのありがたい申し出に、わたしは素直に従うことにした。洗い物を任せられるのであれば、わたしの出番はもう終わり。あとは自宅へ帰るだけだ。
「ほら、行くぞ」
 ユーリは立ち上がると、玄関の方へと移動する。家まで送ってくれるのだろう。わたしはユーリに駆け寄って、子どもたちに「またね」と手を振った。
「わ、星がすごい……」
 外に出ると、空には満天の星空が広がっている。今日は新月、星の輝きがよく見える。
「上向いて歩いてっと転けるぞ」
「もう、子どもじゃないんだから大丈夫だよ」
 ユーリとふたり、夜の下町を歩くのももうお馴染みだ。
 付き合う前から、あの家での食事の後にはユーリがいつもわたしを家まで送ってくれていた。フレンやほかの男友達に送ってもらったことがないわけではないけれど、それはユーリが不在のとき。ユーリがいれば、わたしを送る役目はいつだってユーリだった。改めて考えると、そんなの周囲から見れば付き合っているのと同義だろう。友人たちの言葉を今になってようやく理解する。
 でも、それがわたしにとっては自然なことで、ユーリが隣にいることが当たり前だった。それが特別なことだなんて思わなかった。
 どんなやりとりがあってわたしを送る役目はユーリになったのかな。みんなが遠慮していたのか、それともユーリが「オレが」って言っていたのかな。知りたいような、曖昧なままにしていたいような、不思議な気持ちだ。
「あ、流れ星」
 夜空にひとつ星が流れた。指をさしてみるけれど、ユーリは無言のまま。
 もともとユーリは星にとても興味があるわけではないけれど、無反応というのはなにかおかしい。なにかあったのかな。わたしは隣を歩くユーリの顔をのぞき込む。
「ユーリ、どうしたの?」
 町の小さな街灯に照らされたユーリの顔は、いつもと少し違う。なにか言いたそうな、そんな表情だ。
「別になんもねぇよ」
 しかし、ユーリは手をひらひらと振ってみせるだけ。答える気はないようだ。
 だから、わたしも追及はしないでおいた。なにか言いたそうなのは確かだけれど、重大なことではなさそうだし、怪我や体調不良を隠している様子でもない。ユーリが言いたくないのなら、無理に聞き出さなくてもいいだろう。
「そういえば昨日仕事でさ……」
 それからはふたりで歩きながらなんでもない話をした。昨日の市民街での出来事、下町の畑の様子、ユーリの家の子どもたちの話……。
「トマが稼いだお金でハンクスさんにプレゼント買ってきたんでしょ? あのやんちゃなトマが」
「ハンクスじいさん、涙ぐんでたもんな」
「トマのこと、本当に自分の子どもみたいに思ってるもんね」
 いつも手を焼いていたトマの成長は、ハンクスさんにとって感慨深いものだろう。背中を丸めて涙を浮かべるハンクスさんの姿は、実年齢以上に年老いて見えた。
「ユーリ?」
 ユーリは話の途中で、突然立ち止まる。どうしたのだろうと振り返ると、ユーリはじっとわたしを見つめた。
「……なあ。おまえ、今日うち来てよかったのか?」
「え、なんで?」
「今日、親父さんの命日だろ」
 ユーリの言葉に、わたしは目を丸くした。
 そう、今日は父の命日だ。六年前の今日、父は亡くなった。わたしにとっては忘れるはずのない日だけれど、ユーリが覚えているとは思わなかった。
「いいの」
 わたしは笑って、ユーリの問いかけに答える。
「日のあるうちにお墓参りはしたし。それにさ、ひとりで夕飯食べると寂しくなっちゃいそうだから」
 父と暮らした家で、父が亡くなった日にひとりで食事をするのはどこか寂しい。悲しい気持ちだけで心がいっぱいになってしまいそう。それならみんなの明るい声を聞いて過ごしていたかった。
「そっか」
 ユーリは納得したように、ふっと表情を緩める。
 ユーリが言いたそうにしていたのはこのことなのかな。ちょっと違う気もするけれど……。
「命日か……」
 わたしはつぶやきながら、天を仰いだ。
 六年前の今日、たったひとりの肉親である父が死んだ。亡くなった直後はなにがなんだかわからなくて、少し後になって一気に悲しみが押し寄せた。その悲しみは時とともに少しずつ癒えて、今はその悲しみを抱きながらも、毎日笑って過ごすことができている。
 傷が癒えた理由は、時の流れだけではない。あのとき悲嘆に暮れるわたしの手を握ってくれた人がいた。あの手がわたしを悲しみの底から引き上げてくれた。あの手がわたしをずっと支えてくれていた。
 わたしは隣にいる、その人の手を握った。ユーリは少し驚いた顔を見せつつも、その手を握り返してくれる。
「ねえ、ユーリ」
「ん?」
「お父さんが死んだとき……そばにいてくれてありがとう」
 あのときは言えなかった感謝の気持ちを、ユーリに伝える。
「あのときね、ユーリがいてくれたから救われたんだよ」
「大げさだな」
「本当だよ。ひとりじゃないんだって思えたの」
 父が亡くなってひとりになってしまったと思った。でもつないだ手がひとりじゃないと教えてくれた。ユーリが手を握ってくれたから、わたしにはユーリがいて、友達がいて、下町のみんながいるのだと思えた。あのときからずっと、ユーリはわたしの特別な人。
「ユーリもひとりじゃないからね」
 わたしはユーリを真っ直ぐ見上げる。
 ユーリは産まれてすぐにひとりになった。でも、ユーリには下町のみんながいて、友人がいて、そして、わたしがいるよ。
 ユーリはなにも言わず、わたしを抱き寄せる。暖かな風が、わたしたちを包んだ。
「好きだ」
 耳元でユーリの小さな声が聞こえる。かすかな声だけれど、はっきりとした意志の宿った力強い声。
 もしかして、ユーリがずっと言いたかったのはこの言葉なのかな。わたしもユーリを抱きしめて、同じ言葉を伝えた。
 わたしたち、ひとりじゃないよね。支えてくれる友人がいる。助けてくれる大人たちがいる。
 そして誰より大切な人が、お互いを包んでいる。