変わりゆくもの/おまけ4
下町は平穏が続いている。誰かが長引く病に臥せることもなく、誰かが飢えることもなく、事件らしい事件もなく。強いて言うなら、しょっちゅうユーリが騎士とも揉め事を起こしているぐらい。最近の下町は平和で、穏やかだ。
今日もわたしはユーリたちの家で夕食をとり、その帰りにユーリに家まで送ってもらった。今はユーリに「おみやげ」を渡すため、ユーリに玄関で待っていてもらっている。
「おーい、、まだか?」
「えーと……確かここに」
キッチンの食料棚を開け、中を探る。ああ、あった。わたしは袋に入った大量のじゃがいもを棚から取り出した。
「これ、ハンクスさんがユーリの家に持って行ってくれって。ごめん、忘れちゃってた」
じゃがいもの袋を抱え、わたしは玄関で待つユーリの元へ駆け寄った。ユーリに袋を渡そうとするけれど、ユーリはなぜかそれを受け取ろうとしない。
「ユーリ?」
どうしたのだろうとユーリを見上げると、ユーリの鋭い視線がわたしに刺さる。強い瞳の中に、なにか熱のようなものが見えた気がした。その熱に魅入られて、わたしは金縛りにかかったかのように動けなくなる。
ユーリの唇が、わたしの唇に触れた。そのまま体ごと押されて、わたしの背中が壁につく。それでもユーリはキスをやめない。袋からじゃがいもがひとつふたつ落ちても、唇は離れない。
熱いキスに、頭が沸騰しそうだ。
「ま、って」
一瞬唇が離れた瞬間、わたしの口から言葉が漏れる。このままだと、本当にのぼせてしまいそう。
ユーリはじっとわたしを見つめたあと、表情を変えないままわたしから体を離した。そしてわたしの腕から袋を取って、床に落ちたじゃがいもを拾う。
「……帰るわ。これ、サンキュな」
ユーリはそれ以外はなにも言わず、袋を抱えて自分の家へと帰って行った。
わたしはユーリの出て行った扉を見つめて、その場に座り込む。
ユーリとの交際は順調と言っていいだろう。喧嘩をすることはあるけれど、それは付き合う前と変わらないし、その喧嘩が長引くこともない。一緒に下町の労作をこなしたり、あの家で一緒に夕食をとったり、……キスをしたり。そうやって毎日を過ごしている。
順調な毎日の中で、最近ユーリの様子が変わってきた、ような気がする。キスをしても、キスだけで終わらないような、そんな雰囲気。ユーリが明確になにかを求めるようなことを言ったわけではない。けれど、ユーリの目に、以前にはない熱が見える。
その熱の正体は、きっと……。わたしももう十六歳なのだから、それがなんなのかはわかっている。
わたしはひとりになった家で、濡れた唇をなぞった。
ユーリに宿る熱。それは、わたしの中にはあるのだろうか。
*
あのキスの日から数日。よく晴れた日の昼下がりに、わたしはユーリに手伝ってもらいながら自宅の大掃除をしていた。
「やっぱり男手があると助かるな~」
「へいへい……」
わたしでは動かすのがやっとの棚も、ユーリなら軽々と持ち上げて移動できてしまう。本棚の裏というひとりではどうにもならない場所に手が届いたのは他ならぬユーリのおかげだ。
ユーリの様子は、変わらない。いつもと同じように憎まれ口を叩いて、でもこうやって手伝ってくれて……。ふたりきりになるのに少し、ほんの少しためらいもあり、この大掃除も最初はユーリの手を借りずにひとりでやろうと思っていた。しかし、話の流れで大掃除のことを持ち出したら、ユーリの方から「おまえひとりじゃ終わんねぇだろ」と手伝いを買って出てくれた。ま、「おまえ、鈍くせぇし」と余計なことも言っていたけれど。
なんにせよ、掃除を始めて数刻がたっているけれど、特に問題なく過ごしている。ユーリもぼやきながらも、なんだかんだとてきぱきと手を動かしてくれている。机を動かして、ベッドを動かして……今日はそれほど暑い日ではないのに、ユーリの額には汗がにじんでいる。埃も舞っているし、窓を開けて風を通そう。
「次、これか?」
「え? あっ!」
ユーリが手を伸ばしている先を見て、わたしは仰天する。吊り棚にあるひとつの箱、それに入っているのは主にわたしの下着類だ。さすがのユーリでも断りなく箱を開けることはしないだろうけれど、下着の入った箱を持たれるだけで十分恥ずかしい。わたしは窓を開ける前に、あわててユーリへ駆け寄った。
「それはいい! それは!」
「お、おい、なに慌てて……」
ユーリはわたしの形相に驚いたのか、箱には手を触れず両手を宙に浮かせた。しかし、駆け出してしまったわたしの体は止まれず、ユーリに激突してしまう。
「わっ!」
「うおっ!」
ユーリもユーリで、いつもであれば軽く受け止められただろうけれど、変な体勢を取っていたせいか、わたしを支えきれずに一緒にベッドへ倒れ込んでしまった。
「いたた……」
思い切り背中からベッドに落ちた。安物のベッドは固く、わたしは衝撃に思わず目を閉じてしまった。ゆっくりと目を開けると、視界に入るのはユーリの姿。
「あ……」
ユーリはわたしに覆い被さるような格好だ。あけすけに言うのであれば、わたしを押し倒すような体勢。髪紐は今のごたごたで解けてしまったのか、ユーリの長い髪がわたしの頬に触れている。
驚いた様子だったユーリの顔が、真剣なものに変わる。その目に宿るのは強い意志と、欲の混じった熱。
ユーリの顔が、少しずつ近づいてくる。
わたしは、ぎゅっと目を閉じた。
「いたっ」
すると、突然おでこにほんの小さな痛みが走る。え、な、なに!? はたかれた!?
慌てて目を開けると、すでにユーリは体を起こしていた。その瞳の色は、いつの間にかいつものものに戻っている。
「ビビんな、なんもしねぇよ」
ユーリはそれだけ言うと、落ちていた髪紐で長い黒髪をいつものように結った。
「なあ、フレンも呼ぼうぜ、男手は多い方がいいだろ」
「う、うん……」
「おーい、フレン!」
ユーリはわたしの返事を聞くやいなや、窓を開けてフレンの名前を呼んだ。フレンはちょうどすぐそこにいたらしく、「なんだい?」という声が聞こえてくる。
ふたりのやり取りを聞きながら、わたしはベッドに座ったまま先ほどの出来事を反芻する。
すぐそこにあったユーリの顔と、熱の宿った目。髪のかかった、頬の感触。
『ビビんな、なんもしねぇよ』
わたし、怖かったのかな。驚いたのは確かだけれど、怖かった?
まだ心臓がドキドキしている。これは恐怖から? 驚いたから? 緊張感? それとも……。
わたしはフレンと話すユーリの姿を見つめた。涼しい顔をしているけれど、頬にまだ熱が残っているように見える。
ユーリがキスの先を求めているのはもうわかっている。しかし、わたしが拒めばユーリはそれ以上のことはしないだろう。
関係を先に進めるか、留めるか。決めるのは、わたしなのだ。