変わりゆくもの/おまけ5
とある休日。今日わたしは市民街に生活必需品の買い出しに来ている。ようやく一通りの店を回り終え、石鹸やら包帯やらが入った袋を見つめた。うん、買い漏らしたものはなさそうだ。
「あれ……」
下町へ戻ろうとすると、市民街と下町をつなぐ坂の上にひとりの見知った人影が見えた。長い黒髪をひとつに結んだ、ユーリの姿が。
「ユーリ」
わたしはすぐにユーリの元へ駆け寄った。掲示板の前に佇むユーリも大きな袋を抱えており、彼も買い物帰りであることをうかがわせる。
「ああ、か」
「ユーリも買い物?」
「いろいろと入り用でな」
ユーリはそう言って袋の中を見つめた。ユーリの住む家は孤児たちの住む家、生活必需品だけでも相当な量になるだろう。
話をしながら、わたしはユーリが見ていた掲示板を横目で見やる。そこに張り出されているのは指名手配犯の似顔絵、税の徴収日の知らせ、そして……。
「も買い物終わったのか?」
「あ、うん」
「じゃあ帰ろうぜ。一雨来そうだ」
ユーリの言葉通り、空にはどんよりとした雲がかかっている。すぐにでも降り出しそうな雰囲気だ。
「そうだね、急ごうか」
わたしはそう言って、ユーリと並んで早足で下町へ続く坂道を下った。『洗濯物干さなくてよかった』『ハンクスじいさん干してたな』『さすがにもう取り込んだんじゃない?』そんな会話をしながらも、わたしの頭には先ほどの掲示板の張り紙が浮かぶ。
掲示板には、騎士団員募集の張り紙があった。ユーリの目は、数ある掲示物の中でも確かにそれに向いていた。
騎士団は主に貴族で構成されているけれど、ごく稀に平民向けの試験が行われる。その数少ない試験がもうすぐあるとのこと。今日だけでなく、最近ユーリはその張り紙をよく見ている。もしかしたら、ユーリは騎士団に入るつもりなのかもしれない。
ユーリも、そしてフレンもたびたび下町の窮状に憤っていた。下町の状況を変えるには国や法を変えるしかないし、国や法を変えるには国の内部で出世するしかない。この国で平民が出世する方法は、騎士団で上に行くことのみ。
ユーリはそのために騎士団に入ろうとしているのか、それとももっと単純に市民を守るためなのか。
気になるけれど、わたしは聞けずにいた。もし騎士団に入るのなら、騎士団の本部……今はザーフィアス城の中にあるそこに住むことになる。下町から通えなくはないだろうけれど、それが許されるかどうかはわからない。それに騎士団は任務でさまざまな地に赴くと言うし、一定期間ほかの街に赴任することも多いと聞く。もしユーリが騎士団に入るのなら、今みたいには会えなくなるだろう。
騎士団に入るつもりがあるか聞いて、もし首を縦に振られたら。
入団試験を受けるかどうかはユーリが決めることだ。ユーリが決断したのなら、わたしは止めることなどできない。むしろ、ユーリが騎士団に入るのならば、みんなを守るために頑張って欲しいと応援する気持ちもある。今は騎士の本分を果たさない騎士が多いだけに、余計にそう思う。
でも、それでも、会えなくなるのは寂しい。勝手な思いであるのはわかっているけれど、どうしたって寂しいと思ってしまう。
すべて仮定の話ではある。ユーリはただ興味本位で騎士団員募集の張り紙を眺めていただけかもしれない。
それでも答えを聞くのが、怖かった。わたしの覚悟が決まるまで、聞けない。
「どうした?」
「えっ」
ユーリの声で、わたしははっと我に返る。
「ボーッとしてんぞ」
「ご、ごめん……」
いつの間にか考え込んでしまっていたらしい。わたしはユーリに謝って、坂道を下る足を早める。
「あ……」
「げ、もう降ってきたな」
走りもむなしく、雨粒が鼻の頭に当たる。最初はぽつぽつと降るだけの雨だったけれど、あっという間に土砂降りになってしまった。
「こりゃやべぇな」
「うわ……とりあえずうちに入っていきなよ」
ユーリの家よりわたしの家のほうがここから近い。雨宿りを勧めると、ユーリは素直に頷いた。
「クソ、びしょ濡れだな」
「ここまで降るなんて……」
急いでわたしの家へ入ったけれど、わたしもユーリもすっかり濡れ鼠状態だ。濡れた服がべったりと肌に張りついてしまっている。不快な感触に、わたしは顔をしかめた。
「服、しぼれんなこれ」
隣のユーリを見上げると、ユーリの髪も濡れて額にくっついている。顎から水滴が落ちる様子が妙に色っぽくて、わたしは思わず顔を背けた。
「これ……タオル、使って」
「……おう」
大きめのタオルをユーリに渡して、自分の分のタオルを探す。いかんせん一人暮らし、大きなタオルの数は決して多くはない。ええと、洗い替えのタオルは確かここにしまったはず。
「わっ」
棚を探っていると、突然頭からタオルがかけられる。後ろを振り向くと、ユーリが苦い顔をしてふいとそっぽを向いていた。
「さすがに目の毒」
「え……」
「おまえの服」
わたしははっとして自分の体を見やる。濡れた服が、肌に張りついて透けてしまっている。慌ててタオルを肩に掛けて、ぎゅっと体を隠すように胸のあたりでタオルの両端を掴んだ。
「……」
なにを話せばいいかわからなくて、わたしは口を閉じた。ユーリもなにも言わないから、わたしたちの間に沈黙が流れる。
「きゃっ!?」
瞬間、轟音が響く。動揺した頭では、それが雷の音だと理解するのに数秒の時間を要した。
「……帰るわ」
ユーリはおもむろに口を開くと、ずぶ濡れのまま玄関のドアに手をかける。
「え、でも……危ないよ」
外はまだ土砂降り状態だ。止む気配どころか、雷すら鳴ってきている。今外に出るのは危険だろう。
しかし、ユーリは苦虫を噛み潰したような顔で首を横に振る。
「悪ぃけど、ここにいたら五分と耐えられる気がしねえ」
その言葉に、わたしの心臓が跳ねた。
なにに耐えられないのか、聞かなくてもわかる。
少し前から、ユーリがキスの先を求めていることはわたしもわかっている。ふたりともがびしょ濡れの状態で、ふたりきり。この状況が、ユーリにとって耐え難いことも、わかっている。
わたしは、どうしたいのか。心の中で自問する。
『ビビんな、なんもしねぇよ』
以前ユーリに言われた言葉。わたしは、怖いの? 怖いのなら、なにが? キスの先に進むことが? ユーリに触れられることが? それが、怖いの?
……ううん、違う。わたしが怖いのは、たったひとつだけ。
わたしは、ユーリの服の裾を掴んだ。
この行為がなにを意味するか、わたしもわかっている。わかった上で、わたしはユーリを引き留めた。
「……」
じっとユーリを見つめる。行かないで。
「ユーリ……」
今は、行かないで。
「騎士団に、入るつもりなんでしょう?」
いつか行ってしまうのなら、今は、どこにも行かないで。
「……」
ユーリはなにも答えない。まだ決めかねているのか、それとも、決意をわたしに伝えることをためらっているのか。
どちらにせよ、ユーリはきっと行くだろう。なぜか確信めいたものがわたしにはあった。近いうちに、ユーリは下町を出る。この小さな下町を、飛び出してしまう。
「ユーリ」
わたしはユーリを抱きしめた。濡れそぼった肌が、触れ合う。
「わたし、怖くないから」
怖くない。怖いことは、なにもない。ユーリがわたしに触れることも、ユーリが、どこかへ行くことも。
「怖くないよ。ユーリの心が、どこにも行かないなら」
キスの先に進むのも、怖くはない。ユーリのことが好きだから。わたしもユーリに触れたいから。ユーリが、わたしに怖いことなどするはずがないから。
ユーリが下町から離れることも、怖くはない。離れるのは寂しくても、心がそのままなら。わたしと同じ気持ちでいてくれるのなら。
わたしが怖いのは、たったひとつだけ。ユーリの心がどこかへ行ってしまうことだけ。
「……行かねぇよ」
ユーリの左手が、わたしの頬に触れた。細い指先が、わたしの肌をなぞる。今までとは違う妖しい触れ方に、わたしは目を細めた。
ユーリの心がどこにも行かないのなら、なにも怖くない。わたしと同じ気持ちでいてくれるのなら、なにひとつ、怖いことなどない。
怖くないよ。だから、今はどこにも行かないで。ユーリの一番近い場所にいたいから。
わたしたちは、どちらからともなくキスをした。
雨の音を聞きながら、ふたりのすべてが重なった。