ユーリとキスマークの話
「ストップ! ストップ!」
ここは帝都の下町、わたしの家。月の輝く夜、わたしはその部屋の隅にあるベッドの上で、わたしに覆い被さるユーリを慌てて制止する。
「なんでだよ」
ユーリはわたしを押し倒した格好のまま、不満そうに眉間に皺を寄せた。
「なんでって……昨日もしたばっかだし」
「昨日は昨日だろ」
「それだけじゃないの!」
ユーリは変わらず顔をしかめているけれど、わたしは構わず大声を上げる。
「今日ユーリのせいですっごく恥ずかしい思いしたんだから!」
「オレのせい……?」
首を傾げるユーリに、わたしは今日あった出来事を話し出す。
そう、あれは半日前のこと。
*
「いい天気……」
下町の坂を下りながら、わたしは青い空を見上げ一人呟いた。
今日はせっかくの休み、せっかくの晴天だけれど、生活必需品の買い出しだけで終わってしまいそう。抱えた買い物袋の中身を見て、次に買うべきものを確認する。あとは食料と、せっけんと……。
「あら、こんにちは」
「ジュディス」
立ち止まってこれから買うものを指折り数えていると、ジュディスがやってきた。
ジュディスをはじめとした凛々の明星の面々は、昨日から帝都に滞在している。仕事の依頼が一段落したので、しばらく下町でゆっくり過ごすらしい。
「あなたは買い物かしら」
「うん。ジュディスは?」
「私は散歩よ。カロルはエステルに会いにお城に行っているわ」
「せっかくのお休みだもんね」
仕事を終えたギルドのメンバーは思い思いに過ごしているようだ。凛々の明星は護衛やらの力仕事が多いから、休みの日はゆっくりしたいのだろう。
「せっかく休みなのにユーリは働き者ね」
ジュディスはふと視線を上へと向ける。そこには屋根の上で金槌を持ったユーリの姿がある。
「ユーリ、なにしてるのかしら」
「ハンクスさんの家、雨漏りしてるみたいで。下町の人間が困ってたらユーリは放っておけないからね」
ハンクスさんの「最近雨漏りがひどくての」という言葉を聞いて、ユーリは文句を言いながらも屋根の上に上っていった。ユーリだってギルドの仕事をして疲れているだろうに、まったく相変わらずの放っておけない病なんだから。
「そういうところが好きなのね」
金槌で屋根に板を打ちつけるユーリを見つめていると、ジュディスの笑い交じりの声が聞こえてきた。
からかうようなジュディスの言葉に、わたしの頬に熱が集まる。ジュディスはそれを見て、さらに言葉を続けた。
「顔に書いてあるわ」
「べ、別に……」
「違うの?」
「……違わないけど」
違わない。なにも違わないけれど、改めて言われると、さすがに恥ずかしいというか……。
照れくさくて、わたしはジュディスからもユーリからも視線を外す。熱くなった顔を誤魔化すように、袋を持っていない左手で頬を掻いた。
すると、ジュディスはわたしに一歩近づいて、おもむろにどこからか取り出した紺色のスカーフをわたしの首に巻いた。
「え、なんで……?」
スカーフ? どうしてわたしに? 突然のことに困惑していると、ジュディスはにっこりと笑顔を向けてくる。
「寒そうだったから、ね」
「え? 今日は暑いぐらい……」
今日は太陽が燦々と輝き、この季節にしては気温が高めだ。さらに先ほどのジュディスのからかうような言葉で、わたしの体温はいつもより高いほど。
不思議に思っていると、ジュディスは色っぽい笑みを浮かべて、スカーフ越しにわたしの左の首筋に触れた。そして、そのままわたしの耳に唇を寄せる。
「キスマークがついてるわ」
小さく響いた言葉に、わたしは慌てて触れられた首筋を左手で押さえた。
キスマーク!? キスマークって、あの!?
「いけない人ね、こんな目立つ場所につけるなんて」
わたしから体を離したジュディスは、とある方向を見つめる。
その先に誰がいるか、確認しなくてもわかる。先ほどまでわたしも見ていた場所。ハンクスさんの家の屋根の上にいる人物。放っておけない病の、ユーリ・ローウェル。
わたしの首筋にキスマークをつける人間なんて、この世界でユーリしかいない。ジュディスだって、それをわかっている。
「スカーフは貸しておくわ。今日は一日つけていたほうがいいんじゃないかしら」
「あ、ありがと……」
「どういたしまして」
ジュディスは柔和な笑みを浮かべると、坂を下って下町へ入っていく。
羞恥で動けなくなったわたしは、その後ろ姿をただ眺めていた。
*
「ジュディスにバレちゃったじゃない! 死ぬほど恥ずかしかったんだから!」
「あー……」
事の次第を話すと、ユーリは気まずそうにわたしから視線を逸らした。その視線は思い切り泳いでいる。
「つい調子に乗っちまって……」
「乗るなバカ!」
「いや、本当悪かったって」
「今日はお預け!」
謝罪の言葉を聞いても、腹の虫はおさまらない。わたしは考えるより先にユーリを怒鳴りつけた。
「お預けって……犬かオレは」
「文句ある!?」
「いや、ないです……」
きっとわたしは鬼のような形相になっているのだろう。さすがのユーリも今日は大人しく引き下がるべきと考えたようで、背中を小さくしながらベッドに横になった。
わたしは「もう」と大きなため息を吐いて、ユーリの横で寝転がる。狭いベッドだけれど、少し距離は空けておいた。
「……なあ、お預けっていつまで?」
謝罪の言葉からいくらもしないうちに、ユーリがぽつりと呟いた。
「ユーリの反省の色次第」
「へーい……」
軽い返答に、わたしは何度目かわからないため息を吐く。まったく、わかっているんだかいないんだか。
「……次は目立たないとこにしねえと」
「……本当に反省してる!?」
***
数日後の満月の夜。月明かりを頼りに、わたしはベッドに腰かけ鏡を見つめた。
鏡に映った、先ほどまでの情事の熱が残った肌。ボタンを開けたシャツの胸元に、赤い痕がついている。
「またつけてる……」
わたしは唇を尖らせながら、隣のユーリに恨みを込めた視線を送る。
「別にいいだろ、服で隠れるし」
ユーリは服を着ずに上半身を露わにしたまま、気怠そうな声を出す。
「それはそうだけど……」
もう、反省していると言っていたのに、結局つけているじゃない。角度を変えながら鏡を見つめていると、ベッドを軋ませながらユーリがこちらに近づいてくる。
「こんなとこ、オレ以外誰も見ないだろ」
ユーリは低い声でそう言うと、わたしの胸元のキスマークに触れた。左の胸の、心臓のあたり。指先でくすぐるように、優しく、そして愛でるように。
「……見せないけど」
「ならいいだろ」
月の光が、ユーリの妖艶な笑みを照らした。色気をはらんだその表情に、わたしの心臓が小さく跳ねる。気恥ずかしくてふいとユーリから顔を逸らせば、ユーリはわたしの背中に触れた。
「……っ」
くすぐるようなかすかな感覚の中に、妖しさを含んだ指の先。先ほど胸元に触れられたときと同じ感触に、わたしはすぐに悟った。
「背中にもつけたでしょ!」
今触れた背中にもキスマークをつけたのだろう。わたしは怒りの声を上げるとともに、ユーリの肩をはたいた。
「痛っ! そこだって誰も見ねえだろ!」
「そうだけど!」
やっぱりつけたんだ! 油断も隙もないんだから!
「うおっ」
「わっ!」
ユーリは身を翻してわたしの攻撃を避ける。行き場をなくしたわたしの緩い拳は宙に浮いてしまい、拳だけでなくわたしの体もバランスを失う。変なかたちで体勢を崩したわたしは、ユーリも巻き込んでベッドに倒れ込んだ。
「あ……」
ベッドに倒れるユーリにわたしが乗る格好になってしまった。わたしのシャツ一枚を挟んだだけで、肌と肌が密着している。
まだ二人とも、先ほどまで体を重ねた熱が残っている。
ほんの少し、わたしたちの間に沈黙が流れる。聞こえるのは、わたしとユーリの心臓の音だけ。
ユーリはわたしの頭に手を添える。そのままユーリはわたしを自分の方へと引き寄せる。
唇と唇が触れ合った。
ああ、またキスマークが増えてしまう。