ユーリの還る場所の話
※エンディング後の時間軸です。
ユーリが帰ってきた――。テッドの言葉を聞いて、わたしは下町から市民街へつながる坂道を駆け上がった。下町に帰ってきたユーリが行くところ――わたしの家に来ていないのなら、ユーリがいるのは、きっと。
「ユーリ!」
下町と市民街を隔てる城壁を見上げれば、そこには夕焼け空を眺める彼の姿が見える。
ユーリ・ローウェル。わたしの幼馴染みであり、たったひとりの恋人だ。帝都の外まで見渡せるこの高い城壁の上は、昔からユーリが好きな場所だ。
「よっ」
ユーリはわたしを見ると、ふっと笑って片手を上げた。そしてその手をわたしへ伸ばして、わたしを城壁の上へと引っ張り上げる。
「おかえり、ユーリ。ギルドの仕事、終わったの?」
「ああ、なんとかな」
ユーリは今、凛々の明星としてギルドの仕事をこなす毎日を送っている。今回の仕事はノール港とトリム港周辺で商売をしている行商の護衛だったはず。結界魔導器や武醒魔導器のない今、護衛の依頼は非常に多いらしい。特に騎士団本部から遠いトルビキア大陸やユルゾレア大陸は、騎士に護衛を頼むことも難しく、ギルドへの依頼がひっきりなしと聞く。今回のように仕事の合間を縫って下町へは帰ってくるけれど、今のユーリはなかなかに忙しい身なのだ。
「もお疲れさん。角の家の赤ん坊、取り上げたんだろ」
テッドから聞いたぜ、とユーリが言う。なるほど、だからユーリはわたしが家にいないと知って、この城壁に来たのだとわたしは心の中で納得する。
わたしは近所のおばさんたちと一緒に、下町のお産の手伝いをしている。今日も朝からずっと角の家の出産につきっきりだった。無事赤ん坊が産まれ、一息ついたところでテッドからユーリが帰ってきたと聞いたのだ。
「ま、なんとかね。お母さんも赤ちゃんも元気だよ」
「そりゃよかった」
「ね、ユーリはいつまで下町にいるの?」
「最近働きづめだったからな。しばらくは下町で休む予定だよ」
ユーリの言葉に、わたしは心を弾ませた。
ユーリはギルドの仕事で、世界中を飛び回っている。一方、わたしは下町で暮らしているから、必然的に二人で過ごす時間は限られる。騎士団を辞めてからずっとくすぶっていたユーリが生き生きと世界を巡っていることを嬉しく思う反面、離れている時間が多いのはやはり寂しい。ユーリが下町に滞在するのなら、しばらくは一緒にいられるはずだ。
「カロルとジュディスは? 下町にいるの?」
「いや、カロルはダングレストに行ってるぜ。ジュディはテムザ山の様子見るって言ってたな」
「そっか。みんな、それぞれのんびりしてるんだ」
ダングレストはカロルの故郷だ。テムザ山もジュディスの生まれ育った場所、今は町はなくなってしまったけれど、最近クリティア族が少しずつ集まっていると聞く。ユーリだけでなく、二人も生まれ故郷で休暇を楽しんでいるのだろう。
「ああ。しばらく羽伸ばしたら、また仕事探しだな」
「じゃあダングレストに戻るの?」
「そうだな……仕事探しっつーとやっぱダングレストになるだろうな」
ダングレストはギルドの町だ。ユーリたちも仕事の依頼もそちらで受けることが多く、今回の護衛の仕事もダングレストで請け負ったと聞いている。帝都は世界一の都市なのでこちらでも相応に仕事はあるらしいけれど、ギルドへの依頼はダングレストに偏るだろう。
「ダングレストはいろんなギルドが拠点にしてるからな。ただの依頼だけじゃなくほかのギルドからの協力依頼とかも多いんだよ」
「へえ……」
ユーリの言葉に、わたしはなるほどと頷いた。
「拠点か……」
そして、呟きながら空を見上げる。
ギルドのことは詳しくないけれど、多くのギルドはどこかの町に拠点を持つと聞く。特に大きなギルドは必ずと言っていいほどどこかの町に本拠地を置いているらしい。
「……ユーリたちもどこかに本拠地を作るの?」
凛々の明星は、現時点は拠点を持っていない。ユーリは今、この下町とダングレストを行き来しながらギルドの仕事をこなしている。小さなギルドだから拠点を持つ必要性は薄いかもしれないけれど、凛々の明星もどこかの町に本拠地を作るのだろうか。
「そうだな……今はラピード含めて四人しかいねえからなくても困んねぇけど……。カロルはギルドを大きくしたいみてぇだし、でかくなったらどこかに本部みたいな場所は必要かもな」
「そっか、そうだよね」
凛々の明星がどこかに本拠地を置くのならば、やはりギルドの町のダングレストになるのだろうか。首領のカロルはダングレストで生まれ育ったのだし、馴染みのある場所に本部があればなにかと好都合だろう。
ダングレスト以外だと、新興ギルドはオルニオンという町に拠点を持つことが多いと、先日カロルが楽しそうに話していた。オルニオンの発展には凛々の明星も貢献したというし、そこに拠点を作ってもおかしくはなさそうだ。
ユーリは今、仕事の合間を縫ってなにかと下町に帰ってきてくれている。しかし、もしダングレストやオルニオンなどほかの町に拠点を持つとなると、帰ってくる機会は減るだろう。そうなれば、わたしたちが会える時間も少なくなる。
まだ凛々の明星がどこかに拠点を置くと決まったわけではない。しかし、いつかそんな日が来るかもしれない。その「いつか」を想像すると、心がしぼんでしまう。
「バーカ」
うつむいていると、ユーリがわたしの頭をくしゃっと撫でてくる。驚いて顔を上げると、ユーリが不敵な笑みでわたしを見つめていた。
「どこに行ったって、ここに帰ってくるぜ」
変な心配すんなよ、ユーリはそう言って笑う。
ユーリはいつもそう。ぶっきらぼうなくせに察しがよくて、わたしの心配事をさらっとフォローする。心が見透かされたようで恥ずかしいけれど、この下町に「帰ってくる」という言葉がなによりも嬉しい。
「どこを拠点にしても、下町がオレの故郷だからな」
ユーリは城壁の上から、その下に広がる下町を眺めた。その目は穏やかで、温かだ。わたしが下町を愛しく思うように、ユーリも生まれ育ったこの下町を大切に思っているのだ。
「そうだよね、故郷だもん」
「ああ。そういや前にエステルが言ってたな……還りたくなる場所を人は故郷と呼ぶって」
「へえ……」
還りたいと思う場所が故郷、か。その響きが、胸の中にすっと落ちる。
「じゃあ、わたしたちの故郷はやっぱり下町だね」
わたしもまっすぐ下町を見つめた。
わたしとユーリが生まれ育った場所。温かな住民たちの住むところ。わたしの還る場所、還りたいと思うところだ。
「はほかの町に行く気ねえの?」
「ほかの町?」
ユーリの突然の言葉に、わたしは目を丸くする。
「オルニオンに移ったやつも多いだろ」
「あ……そうだね」
わたしはゆっくりと、結界魔導器の光輪のない空を見上げた。
星喰みという空の化け物が現れたことをきっかけに、一部の帝都の住民はオルニオンに移ってしまった。星喰みがいなくなったあとも、そのまま定住している者も多い。
瞼を閉じて、じっと考える。ほかの町、ほかの町か……。広い世界の、この下町ではないどこかの町。ユーリたち凛々の明星の面々に連れられて、ダングレストとハルルの町へは行ったことがある。ほんの短い間の滞在だったけれど、見たことのない景色を前にしたときの胸の躍動を、はっきりと覚えている。
「わたしは……行くつもりはないかな」
それでも、わたしは下町を出るつもりはない。
妊婦は移りたくても簡単にほかの町には移れない。わたしは下町のお産の手伝いもしているから、下町にいる妊婦たちを放ってここを出ることなど、考えられないのだ。
「わたしは下町でやることがあるから」
「ま、はそうだよな」
「うん」
前に一度だけ、ギルドの仕事を本格的に始めたユーリに「一緒に来るか」と聞かれたことがあった。けれど、わたしは「でももうすぐ産まれそうな妊婦がいるから」と断った。ユーリもその返答が来るとわかっていたのだろう、「頑張れよ」と笑って、それ以上はなにも言わなかった。
ユーリにはユーリのやることがあるように、わたしにはこの町でやるべきこと、やりたいことがあるのだ。ユーリもそれを知っている。
「あとは……やっぱりここが好きだから」
そしてなにより、この下町はわたしが生まれ育った大好きな場所だから。貧しい町だけれど、優しい人たちの住む町。ユーリと一緒に生まれ育った町。大切な思い出の詰まった町だ。
「そっか」
「それにさ、わたしがいないとユーリだって下町に帰ってきたとき寂しいでしょ?」
わたしは冗談めかした口調で、ユーリの顔をのぞき込む。「なんてね」と続けようとしたけれど、その前にユーリが再び「バーカ」と言って「わたしの頭をぐしゃっと撫でてきた。
「もしが別の町に移っても、どこにだって飛んで行ってやるよ」
ユーリは先ほどと同じような不敵な笑み。けれど、どこか優しさをにじませた瞳でそう言った。
ユーリの言葉が、胸に響く。心が震える。甘いときめきが、広がっていく。
「……どこにでも?」
「ああ」
わたしはそっと、ユーリに体を寄せた。ユーリの温もりを、感じたかったから。
ユーリのことが、好きだと思う。皮肉屋で口が悪いのに、いつだってわたしがほしい言葉をくれるユーリのことが。優しくて、困っている人を放っておけないユーリのことが、昔からずっと。
「故郷、もう一つあったよ」
還りたいと思う場所。わたしの還る場所。
「ユーリのいる場所」
それは、ユーリのいるところ。この温もりを感じられる場所。世界中のどこだって、海の中だって空の上だって、それが世界の果てだって、ユーリのいるところが、わたしの故郷。
「ユーリも同じでしょ?」
ユーリの還りたい場所、還る場所。それはきっと、わたしのいるところ。この気持ちは自惚れではないでしょう? ぶっきらぼうで素直じゃないけれど、ユーリの気持ちはわたしが一番知っている。旅に出ている間も、いつだってユーリがわたしを大切に思ってくれていること、知っているよ。
ユーリを見上げれば、ユーリはなにも言わずにわたしの肩を抱き寄せる。触れるだけのキスをして、小さな声でささやいた。
「世界の果てだって、がいるなら飛んでってやるよ」