その罪ごと愛してる
※エンディング後の時間軸です。
わたしは今日、男の子を産んだ。ユーリとわたしの子どもだ。
貴族は医者やら看護師やらを山ほど呼んで屋敷の中の特別な部屋でお産をするらしいけれど、下町は違う。下町の自宅で、町のお産を取り仕切っている下町の女性たちが手伝って、妊婦は子どもを産む。わたしも例外ではない。見知った人たちに囲まれて、わたしは男の子を産んだ。赤ん坊が産声をあげると同時に、窓の向こうに朝日が昇るのが見えた。
子どもの頃から知っているおばさんたちに体を拭いてもらったり、赤ん坊の最初の世話をしてもらったりしているうちに、あっという間に半日が過ぎた。おばさんたちは「なにかあったらすぐに呼ぶんだよ」と言って、夕焼け空の中それぞれの家へと帰って行った。ユーリは井戸へ水を汲みに行き――お産で山ほど水を使ったので補充のためだ――赤ん坊はベッドで……出産前に下町のみんなが作ってくれた子ども用のベッドですやすやと眠っている。わたしもそのすぐ隣の自分のベッドで、体を休めるために横になっている。
眠りたい気持ちもあるけれど、まだ興奮していて寝つけない。おなかの痛み、赤ん坊の大きな泣き声とくしゃくしゃの可愛い顔、みんなからの祝福の声……。そのどれもがはっきりとわたしの脳裏に焼きついて、いまだわたしの心を高揚させる。
その一方で、まだ子どもを生んだという出来事がどこか夢のようで、ふわふわと宙に浮いたような感覚もある。明日の朝目を覚ましたら、まだわたしのおなかは大きいままなんじゃないかと……ううん、それどころか、子どもができたことすら夢なんじゃないかと思うほど。
でも、夢じゃない。ユーリとの子どもを、わたしは産んだのだ。大切なユーリとの子を。
わたしとユーリはこの下町で一緒に生まれ育った。最初の出会いは覚えていない。二人とも赤ん坊だったから。物心ついたときにはユーリはわたしの隣にいた。幼馴染みだったユーリとの関係が変わったのは、十年近く前のこと。十六歳になる直前に、わたしとユーリは恋人になった。それからユーリは騎士団に入って、辞めて、そして旅に出てギルドを作って……。距離が離れることもあったけれど、わたしたちのお互いを想う気持ちは変わらなかった。
そして、二十四歳になったわたしたちの間に、今日子どもが産まれた。
わたしは目を閉じて、昨夜から始まったお産のことを思い返す。夜中に陣痛が始まって、ユーリが走っておばさんたちを呼びに行った。おばさんたちがやってきてからは、あっという間にお産が進行して……。ユーリはおばさんたちに「男は邪魔だよ」と言われて部屋から放り出されていたっけ。深夜で明かりも乏しく大変だったけれど、子どもは元気に産声をあげた。
子どもの顔を初めて見たときのユーリの表情が、瞼の裏によみがえる。目をまん丸くして、呆けたように口を少し開けていた。まるで奇跡でも見たかのような驚いた顔。世界を救ったユーリでも、子どもが産まれたらあんな顔をするのだ。
目を閉じたまま思い返していると、キィと玄関の扉の軋む音がする。ユーリが井戸から帰ってきたのだろう。わたしは横になったまま、薄く目を開けた。
わたしがぼんやりとしている間に日は完全に沈んだらしく、窓の外は真っ暗になっていた。部屋の中の明かりも落としているから、ユーリの姿はうっすらと見えるだけ。
ユーリは桶を床に置くと、赤ん坊が眠るベッドに近づいた。わたしのことは眠っていると思っているのだろう。
「……」
ユーリが赤ん坊に手を伸ばす。しかし、ユーリは赤ん坊に触れることなくその左手を引っ込めてしまった。
「触らないの?」
わたしは上半身を起こし、ユーリに問いかける。ユーリははっとした顔でこちらを向いた。
「悪ぃ、起こしたか」
「ううん、大丈夫。横になってただけだから」
答えながら、わたしはベッドから降りた。カーディガンを羽織って、ゆっくりと二人に近づく。
「動いていいのかよ」
「うん、少しなら」
まだあちこち痛むし疲れているけれど、このぐらいなら動いても大丈夫だ。わたしはユーリの隣に立って、ベッドの中の赤ん坊を覗いた。赤ん坊はいつの間にか起きていたようで、まだ小さな目が薄く開いている。
「可愛い……」
赤ん坊を見て、わたしの口から言葉がこぼれる。まだくしゃくしゃの顔だけれど、この子を見るとどうしようもなく心が綻ぶ。親馬鹿だとわかっているけれど、可愛くて仕方ない。
「……ああ」
「ね。……ユーリ、触らないの?」
先ほどと同じ問いを、ユーリに投げかける。ユーリの左手は、宙に浮いたままだ。
「赤ん坊は意志疎通できないから苦手とか言わないでよ。あんたの子なんだからね」
「わーってるよ」
軽い口調でそう言ってみたけれど、ユーリが触れるのをためらう理由が別にあることをわたしは知っている。
ユーリは昔、人を斬った。
それは決して私利私欲のためではない。弱い人間が傷つけられるのが許せなかったから。虐げられるのを止めたかったから。だからユーリは、人を斬った。
その理由を踏まえ、最終的に罪は咎められず恩赦となった。しかし、国が許しても罪は罪だとユーリは思っているのだろう。人の命を奪うという行為はそれだけ重いものだから。
ユーリはずっと、その罪を抱えている。人を斬ったその手で、子どもに触れることにためらいを感じているのだろう。
「大丈夫だよ」
わたしはそっと、ユーリの手に触れた。
「触ってあげて」
この子はユーリの子だ。父親であるユーリが、この子に触れてはいけないなんて、そんなことあるはずがない。
わたしはユーリの目をじっと見つめる。ユーリが躊躇する理由は、わたしにもわかる。でも、どうか触れてあげてほしい。
ユーリはなにも言わず、わたしから赤ん坊へ視線を移す。何秒か深い瞳で見つめたのちに、そっと赤ん坊に手を伸ばした。
ユーリの手が、赤ん坊の頬に触れる。ほんの指先だけが触れて、赤ん坊はくすぐったいのか赤い顔をくしゃっと崩した。
「笑ってやんの」
赤ん坊の表情を見て、ユーリは安堵したように頬を緩めた。今度は大きな手のひらで赤ん坊の頬を包む。
「ほら、大丈夫でしょ」
「ああ……。……悪ぃな、」
ユーリは顔を赤ん坊に向けたまま、視線をわたしに移す。その瞳には、自嘲の色が見えていた。
「ユーリ……」
ユーリの言葉の意味を汲んだわたしは、小さく首を横に振った。
今にして思えば、ユーリは当初子どもを持つことにあまり前向きではなかったように思う。しかし友人の子を抱くわたしを見て、わたしが子どもを欲しがっていることに気づいたのだろう。「おまえも子ども、欲しいの」とユーリに聞かれ、頷いたのが一年前のこと。そして子どもを作ることになったけれど、ユーリはこの子がおなかにいる間もどこか考え込むことが多かった。きっとずっと、自分の罪のことを考えていたのだろう。
わたしの望みと、自分の罪。ユーリはその狭間でずっと葛藤していたのだ。
「髪、黒いんだな」
ユーリがふと、赤ん坊の髪に触れる。まだ産毛程度のその髪の毛は、ユーリと同じ、温かな黒い色をしている。
昔、一度だけユーリから彼の母親について聞いたことがある。『母親は長い黒髪だった』と。母親は赤ん坊のときに亡くなったため、母親について覚えているのはそれだけ。父親についてはなにひとつ知らない、とも。
「……ねえ、ユーリ」
わたしはユーリの腕に触れて、その顔を見上げる。
「ハンクスさんたちに聞けば、親のことわかるんじゃない?」
その話題は、今まで避けてきたことだった。
ユーリに親の記憶がほとんどなくとも、当時から下町にいる大人たちに聞けばわかるだろうとの思いはずっとあった。けれど、ユーリに聞く気がないのなら、わたしが口を出すべきではないと思っていた。
でも、今は違う。わたしたちも人の親になった。ユーリの心にも、変化があるのかもしれない。
聞いても父親のことはわからないかもしれない。けれど、ハンクスさんはユーリについて「下町で生まれた」と言っていた。ならば少なくとも母親のことは知っているはずだ。
「いや、いい」
「でも……」
「強がってるわけじゃねぇよ」
ユーリは首を横に振ったのち、再び赤ん坊を見つめた。
「母親がなにを思ってたか、わかった気がすんだよ」
赤ん坊を見つめるユーリのまなざしは、優しくて温かい。もしかしたら、自分を見つめる母親のまなざしを思い出したのかもしれない。きっと、今のユーリと同じ瞳だったのだろう。
「ねえ、ユーリ」
わたしはそっとユーリの腕に自分の腕を絡めた。そして、ユーリの瞳をじっと見つめる。
「わたしたち、長生きしようね」
わたしの言葉に、ユーリは目を丸くした。
わたしも早くに親を亡くした。貧しい下町には、そんな子どもが多くいた。下町の大人たちが守ってくれたからこうして生きてこられたけれど、寂しいと思う日もあった。赤ん坊の頃に親を喪ったユーリも、同じ気持ちだっただろう。
この子にわたしたちみたいな寂しい思いをさせたくない。この子のためにも長生きしたい。この子のことを、ずっと見ていたい。
ユーリは罪を抱えている。長生きなんて、望んでいないだろう。それでも、この言葉をかけたい。
「わたしたち、たくさん、生きようね」
ずっと一緒に生きていきたい。わたしとこの子と、ユーリの三人で。
「……そうだな」
ユーリは目を閉じて、小さく頷いた。
「……オレにはこんなこと言う資格、ねぇんだろうけど」
そして、悲しみと自嘲と、優しさを含ませた複雑な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
「家族って、いいもんだな」
ユーリの口からこぼれた思いに、わたしは心を震わせた。
わたしはそっとユーリに体を寄せる。ユーリもわたしの肩を抱いた。
「うん」
ユーリとこの子、わたしの大切な家族。三人で一緒にいられることを幸せだと思う。ユーリも同じことを思っている。その事実が、こんなにもわたしの心を動かす。涙があふれて、頬を伝った。
ユーリは罪を抱えている。それがたとえなにかを守るためだとしても、罪は罪。人を斬った事実は変わらない。
それでも、わたしはその罪ごと、ユーリのことを愛している。
わたしの大切な人。子どもの頃からずっと変わらない、わたしの特別な人。口と態度は悪いけれど、困っている人を放っておけない、誰よりも優しい人。ずっとずっと、わたしはユーリのことを愛している。
そして今日、大切な人がひとり増えた。愛する人の子どもを、わたしは産んだ。
ユーリと、ユーリとわたしの子ども。この世界にたった二人だけの、わたしの家族。大切な人たちに包まれて、温かな感情が涙となってあふれていく。
「……」
ユーリの指がわたしの涙を拭う。優しい仕草に、わたしは顔を綻ばせた。
「どんな子に育つかな……」
わたしはユーリに体を寄せたまま、赤ん坊に視線を移した。小さな赤ん坊は、黒髪以外もどことなくユーリに似ているように見える。
いつかこの子にもユーリの罪を話さなくてはいけないだろう。わたしやユーリの仲間のように受け入れるか、それとも拒むのか……。それはこの子次第だ。どちらの道を選ぶにしても、わたしはずっとこの子のことを大切に育てていく。わたしの大事な家族だから。
ユーリもきっと、同じことを思っている。この子を見つめるユーリの目が、そう物語っている。きっとユーリの遠い記憶の中の彼の母親も、今のユーリと同じ目をしていた。
「名前も考えないとね」
「そうだな。フレンがうるせえんだ、早く名前教えろってさ。テンション上がりすぎだろ、あいつ」
「だって親友の子だもん。わたしも友達に急かされて……。あ、ハンクスさんにも」
「じいさんもかよ。あんまりはしゃぐとまた腰やるぞ」
「ふふ」
これからの話をしながら、わたしとユーリは笑い合う。
どうかこの幸せが、長く続きますように。夜空に光る一番星に、そっと祈った。