彼女を大切にする理由

※ユーリ十六歳(騎士団入団前)の話です。

 帝都下町、噴水広場の前にある集会所。主に下町の大人たちが重大な会議をするために使用する建物だ。ユーリはその集会所一階の窓枠に座り、黒髪のポニーテールをなびかせながら水道魔導器の方向を眺めた。
 水道魔導器の周辺では、ユーリと同年代……十六歳前後の女子の集団がおしゃべりに興じている。その中でも、ユーリの目を引くのは一人。ユーリの視線は、自然と自身の恋人のへと向かっている。
(のんきに笑ってんなあ)
 なんの話をしているのやら、は午後の陽射しにも負けない笑顔を見せている。口を大きく開けた気取らない笑い方、下町の気の置けない仲間たちに見せる笑顔だ。決して上品な笑い方ではないはずなのに、それでもユーリにはの笑顔がひときわ光って見えた。
「なーに見てるんじゃ」
 の姿を眺めていると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。幼い頃からずっと聞いてきたしゃがれ声ーーハンクスの声だ。
「ハンクスじいさん」
「面白いもんでもあるのか……ああ」
 ハンクスは窓際に立つと、ユーリの視線の先にがいることを知って、納得したような笑みを見せる。
 下町は狭い街だ。ユーリとが付き合い始めたのはつい最近にも関わらず、二人が恋人であることは下町の住民全員が知っていた。ユーリは生まれ育ったこの町のことを決して厭うことはなかったが、一挙手一投足がすぐに知られることにはいつも苦い気持ちになる。
 ……いや。付き合い始める前から、ハンクスはユーリのへの気持ちを気づいている様子だった。ユーリはハンクスにへの気持ちを教えたことはない。しかし、この御仁の態度は明らかに「知っている」ものだった。
(そんなにわかりやすいか? オレ)
 ユーリは密かに自問する。自分がわかりやすいのか、亀の甲より年の功なのか。まあ、確かににほかの男が寄りつきそうになれば牽制したこともある。あれがわかりやすいと言えばそうなのだろう。肝心のにはなかなか伝わらなかったが。
「おまえさんもそんな年になったんじゃな」
「別にそんなんじゃねえよ」
 感慨深げなハンクスに、ユーリはふいと顔を背けた。
「この間までこーんなに小さかったのにのう」
「何年前で止まってんだよ」
「わしにとっちゃ一昨日みたいなもんじゃ」
 いつもの子ども扱いに、ユーリはため息を吐く。ハンクスの年齢からすれば仕方ないのだろうが、もう十六歳、下町では独り立ちしていてもおかしくない年齢なのだ。
 しかし、ユーリの呆れ顔もものともせず、ハンクスは口を開いた。
「まあ、なんじゃ。わしにとってのばあさんのように、おまえさんにも大切な人ができたんじゃな」
 ハンクスはかすれた声で、言葉を続ける。
「……大事にするんじゃぞ」
 そう言ったハンクスの表情は穏やかで、そして物悲しさをはらんでいる。
 ハンクスの妻は、先日亡くなった。ユーリもハンクスの言葉に、皮肉を返す気にはなれなかった。
「……わかってるよ」
「もしおまえさんがバカなことをしてを傷つけるようなことをしたら、ばあさんの代わりにわしがゲンコツを食らわせるからな」
「じいさんのゲンコツ?」
 まさしく好々爺のハンクスのゲンコツとは。まったく威力のなさそうなゲンコツを想像して、ユーリは思わず笑う。
「なんじゃ、結構効くぞい」
 カッカッカと笑いながら、ハンクスは集会所をあとにする。その小さくも大きな背中を見て、ユーリは上がっていた口角を元に戻した。
「……どうだか」
 力そのものはともかく、普段温厚なハンクスのゲンコツはまた違う意味で効きそうだ。親のいないユーリにとって、ハンクスは父親に代わるような存在だった。
 しかし、そのゲンコツを食らうつもりはない。なぜならーー。
 再びユーリは噴水広場のを見つめる。すると、はユーリの視線に気づいたのか、ユーリを見やって集会所へと駆け寄ってきた。
「ユーリ!」
 窓枠に腰かけるユーリに、は外から声をかける。
「どうしたんだよ」
「ねえユーリ、市民街の西に大きな街路樹あるじゃない。あそこの花が今満開なんだって」
「花?」
「あの子が彼氏と見に行ったんだって」
 の視線の先にいるのは同年代の少女だ。つい先日ユーリの友人と付き合い始めたと聞いている。
「ねえ、一緒に見に行こうよ。市民街の人もあんまりいない穴場なんだって」
 は期待の瞳でユーリを見つめる。
 正直ユーリは花をありがたがる情緒を持ち合わせていないが、彼女に輝く瞳で見つめられれば首を縦に振らざるを得ない。
(これが惚れた弱みってやつか)
 ユーリは自分に呆れつつ、窓からひょいと軽い動作で飛び降りる。
「しゃーねえなあ。行くぞ」
「うん!」
 ユーリはと並んで、市民街への道を歩き始める。長い坂道を歩く途中も、は華やかな笑顔を見せている。花を見に行けるのがそんなに嬉しいのか、それとも自分と行けることが楽しみなのか。ユーリにとっては前者でも構わなかった。経済状況も境遇も決してよくない下町にあって、彼女がこんなに幸せそうな笑顔を浮かべられるのなら。
 の明るい表情を見て、ユーリの胸に先ほどのハンクスの言葉が浮かぶ。
『大切にするんじゃぞ』
 大切にしろ? するに決まっている。恋人だから、友人だからだとかは関係ない。隣を歩く彼女を、傷つけたくない。悲しい顔をさせたくはない
。笑っていてほしい。柄ではないと思いつつも、恋人になる前からずっとそう思っている。
「あれ、フレンだ」
 は「ほら、あそこ」と言いながらユーリの服の裾を引く。彼女の視線の先には、買い物袋を抱えたフレンの姿がある。フレンもこちらに気づいたようで、大きな袋を片手で支えながらこちらに駆け寄ってきた。
「フレン!」
「やあ、二人とも」
「フレン、買い出ししてきたの?」
「うん。夕飯の材料をね」
 は笑顔でフレンと話し出す。
(笑顔でいてほしいとは言ったが、ほかの男の前であんまりへらへらされるのも癪だな)
 ユーリは二人の様子を見ながら、心の奥が小さくざわめくのを感じた。
「これからどこか行くのかい?」
「うん。フレン、知ってる? 市民街の街路樹がね……」
「ちょっと野暮用だよ。ほら行くぞ」
「えっ、わ!」
 ユーリはの言葉を遮って、の手を引いて歩き出す。戸惑うとは正反対に、フレンがおかしそうに笑っているのがユーリの視界の端に映った。


 無言のままずんずんと道を進んで行くと、の言っていた街路樹が見えてくる。
「あ、ユーリ、ほら!」
 今度はがユーリの手を引いて駆け出す。ユーリはに連れられて、木々のそばへと近づいた。の言ったとおり穴場なのだろう、周囲に人は見当たらない。
「お……」
 先週までつぼみだったはず木々が満開の花を咲かせている。情緒に疎いユーリも、思わず感嘆の声を漏らすほど。
「へえ……こりゃ圧巻だな」
「ね、思ったよりすごいなあ……」
 も初見なのだろう、頬を染め興奮した様子を隠さない。そんなに、黄色の花びらがひらひらと降りかかる。
「掃除が大変そうだけどな」
「もう、風情がないんだから」
 ユーリが素直な感想を述べると、は唇を尖らせた。しかし、すぐにその表情を崩しておかしそうにくすくすと笑い出す。
「なんだよ」
「ヤキモチ焼かなくても、フレンのこと誘ったりしないよ」
 はユーリに体を寄せた。
 が言うのは先ほどのフレンとのやりとりのことだろう。自身の嫉妬の感情にフレンが気づいているのはわかっていたが、まさかまで。ユーリは目を丸くする。
 フレンとにお互い友人以外の感情がないことなんて、ユーリもわかりきっている。それでも感情がうまくコントロールできない。感情の折り合いをつけるのは苦手ではないと思っていたけれど、のこととなるとうまくはいかない。
 これが、人を好きになると言うことか。
 照れくさいが、ユーリも悪い気はしなかった。の笑顔に惹かれるように、ユーリはを抱き寄せる。
 自分とは違う華奢な体に、ユーリは抱きしめる手を思わず柔らかいものに変える。力を込めたら壊れてしまいそうだ。
「わたしだって、ユーリと二人で来たかったんだよ」
 ユーリの腕の中で、が囁く。頬を染めて照れくさそうに、けれど嬉しそうに笑いながら。十六年間一緒にいた幼馴染みのユーリでも、初めて見る表情。おそらく恋人にしか見せない顔だ。
 今まで自分しか見たことのない表情、そしてこれから先も自分しか目にしないであろう表情に、ユーリの心にさまざまな思いが去来する。高揚感、独占欲、そして情欲も。沸き上がる感情は、心の内で抑えた。今すべてをぶつけてしまえば、を傷つけるだけだとわかっている。
『大切にするんじゃぞ』
 ハンクスの言葉が、再度ユーリの頭に浮かぶ。
 大切にしろ? するに決まっている。ハンクスの叱責など、受ける機会は訪れない。
 今目の前にいる、腕の中にいるこそ、この世界の誰よりも、大切な人間なのだから。