4th day が入院して四日目。真は朝、ゆっくりと目を覚ました。身支度だけ整えて、菫の部屋に向かった。 菫の部屋のドアをゆっくりと開ける。奥のベッドで眠る菫の瞼が開いた。 「おとうさん…?」 菫は真を見て起き上がろうとする。真はそれを制止するように、菫の額に触れる。昨日ほどではないが、少し熱い。 「すみれ、もうげんきだよ」 「いいから」 そう言って真は菫の脇の下に体温計を入れる。 「おとうさん、おしごとは?」 熱を測っている間、菫が時計を見てそう言った。時刻は8時過ぎ。確かにふつうなら真は仕事に行っている時間だ。 「休んだ」 真の答えを聞いて、菫は目を丸くする。 「おとうさん、かぜひいたの?」 菫の頭では「休む」ということは「体調が悪い」ということなのだろう。 「違う」 「???」 「…大人は休めんだよ」 「?…なんかずるいね」 「大人はずるいもんだ」 そう言うと菫は頬を膨らませた。わざわざ有給の存在を説明するのも面倒だった真は、そのまま黙った。 「…あ、終わった」 体温計から終わりのアラームが鳴る。菫は脇の下から体温計を出す。 「見せろ」 菫の手から体温計を奪い、表示された体温を見る。昨日よりは低くなっているが、まだ微熱がある。 「まだ熱あるな…」 「すみれ、もうげんきだよ」 「今日は保育園休め」 「!げんきだってば!」 菫はそう言ってベッドから飛び降りる。少し顔が赤い。 「休めっつーの」 「…今日も」 菫はうつむいて自分のパジャマの裾をつかんで、小さい声を出す。 「おかあさんのとこいけない?」 今日こそはのお見舞いに、と思っていたのだろう。菫は泣き出しそうな顔でそう言った。 「…元気になったら、つったんだろ」 「…うん」 菫は返事こそしているものの、納得はしていない表情だった。しかし、病院に連れていくわけにはいかない。 「…寝ろ」 「…はーい」 菫はベッドに入ると、すぐに寝息を立て始める。長い時間眠っていたはずなのにすぐ眠ってしまうと言うことはやはり体調が芳しくないのだろう。 真は菫の部屋から自分の部屋に戻る。在宅でできる仕事を片付けてしまおう。 一息吐いたところで時計を見ればもう昼だった。真は朝なにも食べないタイプなので、さすがにこの時間になればお腹が空く。自分自身だけなら適当なカップめんで済ませるが、菫がいるならそうも行かない。風邪と言えば消化にいいもの、うどんがいいだろうと思い二人分のうどんを茹でる。 「菫、起きてるか」 菫の部屋のドアを開ける。菫はベッドでうつ伏せの状態だ。 「…起きてる」 まだの見舞いに連れていってもらえないことに対して拗ねているのだろう。ぶすっとした顔で返事をした。 「昼飯だ」 「おひる?」 「ああ」 「おとうさん、つくったの?」 「ああ」 その答えを聞いて、菫は目を輝かせた。 「たべる!」 大きな声で返事をして、菫はベッドから飛び降りる。抱きしめていたテディベアを寝かせ丁寧に掛け布団をかけると、早足でリビングへ向かった。 「うどん!わかめの!」 「そう」 「いただきます!」 菫は自分の椅子に座ると、大きな声でそう言って食べ始める。顔色もよくなり、食欲もある。明日には完全に回復しているだろう。 「うどん、おいしい」 「そりゃどーも」 「すみれ、うどんすき!」 菫は満面の笑みでそう言う。言わずとも表情だけですべて伝わってきそうだ。 「おとうさん、うどんすき?」 「別に普通」 真の答えは遠慮したものでもオーバーに言ったものでもない。自分で食事を作るときはうどんを作ることが多いが、一番の理由は楽だからであって、好きだからと言う理由ではなかった。しかし、作るからには嫌いというわけでもない。「普通」が一番近い答えだった。 「…そっかあ…」 しかし菫は真の答えを聞いて残念そうな顔をする。そんな顔をされても、真としては「思った通りを答えただけだ」としか思えない。 「…おとうさん、なにがすき?」 「は」 菫は真っ直ぐ真を見てそう聞いた。真はその問いに固まってしまう。 「なにって…」 「好きなもの」と聞かれても特に思いつかない。答えに詰まっていると、菫が矢継ぎ早に質問をとばしてくる。 「おかあさん、すき?」 「な…っ」 そう聞かれ真は蒸せ返ってしまう。お母さん、即ちのことだ。そんな質問が飛んでくるとは思わなかった。 「すきじゃないの…?」 「いや…」 真は「好きだ」とは言いたくなかった。そもそもにだってそんなこと言ったことはない。しかし、ここまで真っ直ぐな目で言われるとさすがの真も申し訳ないような気分になってくる。 「…そういうことは、わざわざ言うことじゃねえんだよ」 なんとか菫の質問をかわそうと、真はそう答えた。実際もそう思っている。惚れた腫れたなんてなんて、わざわざ口に出すようなことではないと。 「そうなの?」 「ああ。そういうもんだ。あいつだって言わねーだろ」 真は基本的にそう言うことは口に出さないし、もそうだった。彼女の口からそんなことを聞いた覚えはほとんどない。 菫を納得させるために言ったことだったが、菫の口から出てきたのは意外な言葉だった。 「おかあさん、おとうさんのことすきっていってたよ」 菫の言葉に真は目を丸くする。がそう言ってたとは、真にはにわかに信じられなかった。 「は…」 「あのね、すみれがおかあさんに、「おとうさんのことすき?」って聞いたら、「いやなとこ、いっぱいあるけど、すきだよ」って」 菫はそのときのことを思い出しているのだろう。一つ一つゆっくりと言葉を紡ぐ。 「いやなとこがいっぱいある」というのがやたらと信憑性を高めている。 「おとうさんもおなじ?」 菫が首を傾げて聞いてくる。「ああ」と素直にうなずくことも、期待する娘に嘘を吐くことも、どちらも真にはできなかった。 「…思わなくもない」 「?どっち?」 菫には否定の否定は理解できないようだ。当然もう一度質問が飛んでくる。 「おかあさんのこと、すき?」 「だから―…」 真が言葉に詰まっていると、テーブルの上に置いてあった仕事用の携帯が鳴った。逃げるチャンスが与えられた真は信じてもいない神に感謝した。 「もしもし」 真が電話を始めると、菫は一人残っていたうどんを食べ始める。早食いの真と違い、菫は食べるのが遅い。そんな菫にはいつも「ゆっくりでいいよ」と声を掛けていたのを真は電話をしながら思い出していた。 「…ごちそうさま!」 真が電話を終えるのとほぼ同時に、菫も食事を終えた。 「うどん、おいしかった!」 「どーも」 そう言いながら真は菫の食器を片す。 「すみれ、おてつだいする」 そう言って菫は食器を洗う真の横に立った。手伝う、と言われても危ない仕事はさせらない。少し考えた後、真は菫にふきんを渡した。 「テーブル拭いて」 「うん!」 菫は意気揚々とテーブルを拭き始める。手伝いをするのがそんなに好きなのだろうか。真には信じられなかった。 こうして見ていると、菫は似だと思う。というより、自分に似てたまるかと真は思った。 「おとうさん、おわったよ!」 「そ」 「ほかにおてつだい、ある?」 「ねえから寝てろ」 「もうねむくない!」 菫は頬を膨らませてそう言った。確かにあまり眠りすぎて夜眠れなくなっても困る。 「じゃあ…本でも読んでろ」 「ほん」 菫はそう言ってリビングの本棚から絵本を一冊取り出して、ソファに座った。自室で読むのかと思ったが、ここで読む気らしい。 『おかあさん、おとうさんのことすきっていってたよ』 菫の言葉をぼんやりと思い出す。なんとなく、自身のポケットから携帯を取り出す。掛けた先は、の携帯だ。 「……」 『もしもし?』 長めのコール音の後、の声が聞こえてきた。真はの声を聞いて、少し安心した自分が悔しくなる。 「よお」 『どしたの?仕事中じゃないの?』 「休んだ」 『えっ、なにかあった?風邪でも引いた?』 「引いたのは菫だろ」 『…あー…』 は納得したような声を出す。しかし、彼女は皆まで言わない。 『そっか。菫どう?つらそう?』 「昼飯元気に食って今は本読んでる。もう治るだろ」 『そ。ちょっと代わって』 そう言われたので携帯を絵本を読んでいる菫に渡した。 「おかあさん?」 「そう」 そう言うと菫はぱあっと表情を明るくさせた。母親がやはり恋しいのだろう。 「おかあさん、すみれだよ。…うん。げんきだよ!」 今思えばと菫がこんなに離れていたことはなかった。当然、寂しいに決まっているだろう。うれしそうに話す菫を見ながら真は思う。 「おかあさん、あさってかえってくるの?……。うん、すみれケーキたべたい!うん、いいこにしてまってる!」 菫は笑って携帯を真に渡してくる。画面を見ればすでに通話は切れている。真のほうも用件は済んでいるので問題はないが。 「おかあさん、いっしょにケーキたべようねって!」 「そりゃよかったな」 「うん!いいこにしてまってる!」 そう言って菫は背筋を真っ直ぐにして絵本の続きを読み始める。別に「いい子」の条件の中に背筋を伸ばすことは入っていないだろうが、その様子を見て真は少し頬をゆるませた。 「おとうさん、いっしょにあそぼう」 菫が突然そう言ってきた。真は目を丸くする。 「遊ぶ?」 「うん。おままごと!」 「おままごとって…」 ままごととは、これはまた。ままごとは自分が幼い頃ですらやった覚えがなかった。 「無理」 「……」 そう答えると、菫はせっかく伸ばした背筋を丸くしてしまった。 「…なんで?おままごと、きらい?」 「仕事あるから」 「おしごと?おやすみじゃないの?」 「家でやんなきゃいけねーことがあんだよ」 真の答えは事実だった。先ほどかかってきた電話の案件を片付けなくてはいけない。 「…そっか」 「ああ」 「わかった」 菫は聞き分けがいい。真がそう言えばままごとは諦めて違う本を読み始めた。 真はそんな菫を見ながら自室からノートパソコンを持ってきた。リビングのテーブルで仕事をするためだ。 テレビの前のローテーブルで菫は本を読み、その横の食事用のテーブルで真は仕事を始めた。 * 「ふう…」 リビングで仕事中、一段落したところで真は時計を見る。時刻は19時半。そろそろ夕飯の準備をしなくては。 菫はその間絵本を読んだり絵を描いたり、ぬいぐるみと遊んだり。よくも一人でできる遊びをこれだけやるものだと感心しながら真は見ていた。 夕飯を作ろうかと思ったが、面倒だ。何か取ろうかと思い、インターネットを立ち上げる。 「?」 家のチャイムが鳴る。あまりこの家に客人は来ないのに、珍しい。そう思いながらインターホンを取った。 「はい」 『こんばんはー!宅急便です!花宮さん宛のお荷物お預かりしています』 「ああ。今開けます」 そう言えば入院した日にが「入院中に通販で買った鍋が来るかも」と言っていたのを思い出す。真たちの住んでいるマンションは部屋から開けないと住人以外は入れない仕組みになっている。ロックを開け宅急便が来るのを待った。 「おとうさん、おなかすいた」 引き出しからシャチハタ印を取り出していると、菫がそう言ってくる。 「少し待ってろ」 何か頼むのはとりあえず宅急便を受け取ってからだ。菫を待たせるとすぐに家のほうのインターホンが鳴る。真は玄関へ向かった。 「こちらになりますが、すみません」 「?」 すぐに受領印を押して宅急便の人間を返そうとしたが、相手は申し訳なさそうに荷物を出してくる。 「少し角が潰れてしまってるので、中身が問題ないか確認していただいてよろしいですか?」 「ああ、はい」 角が潰れていると言ってもほんの少し。中身は鍋だしそうそう潰れるものでもないだろうが、とりあえず開けるだけ開けた。 「大丈夫ですよ」 「はい、申し訳ありません!ありがとうございましたー!」 中身は予想通り問題なかった。受領印を押し、段ボールを持ってリビングへ戻る。 飛び込んできた光景に、真は言葉を失う。 「!!」 菫が椅子の上に絵本数冊を乗せ、それを台にしてシンクの上の棚に手を伸ばそうとしている。当然不安定なバランスで、今にも崩れ落ちそうだ。 「菫!」 「おとうさ…わっ!」 絵本が崩れ、菫が落ちる。真にはそれがスローモーションに見えた。 何かを考えるより先に、体が動いていた。 「…っ」 「おとうさん?」 学生時代にバスケで鍛えた運動神経は伊達じゃない。当然あの頃より大分鈍ってはいるが、この距離の菫を落ちる前に抱き留めるぐらいは可能だった。 腕の中できょとんと首を傾げる菫に、思わず大声を出汁。 「何やってんだ!」 そう言うと、菫はびくりと肩を震わせ、唇を噛んで涙を零す。 「おとうさん、おこってる…?」 「当たり前だろ!何考えてんだ!」 「ごめんなさい…」 菫はポロポロと涙を零して謝罪の言葉を口にする。その様子を見ていると、さすがの真も強く言い過ぎたかと後悔する。 「おとうさん、ごめんなさい…」 「ごめんなさいって…」 一体何に向かって謝っているかわかっているのだろうか。何を言えばいいか迷っていると、菫は真の腕をぎゅっと掴んだ。 「おとうさん、おこんないで…」 「だから」 「すみれのこと、きらいにならないで…」 菫は乱暴に自分の腕で涙を拭いながら嘆願するような声でそう言った。菫の言葉に、真は言葉を失う。 「わがままいわないし、おしごとのじゃまもしないから…わるいこともしないから、すみれのこと、きらいにならないで…」 泣いてそう言う菫に、真ははっとさせられる。 産まれてからずっと、真は菫に構ってこなかった。ただ眠って意識のない菫の頬を撫でる、それだけの関わりの日々でいいと真は思ってた。しかし、菫にとってそれでいいわけがない。父親の愛情を欲しがらないはずがない。 泣く菫に真は何をしたらいいかわからない。こんなときに、なんて声を掛けたらいいかわからない。ただ、「そうではない」ということを伝えられればいいだけなのに。 『菫のこと、抱きしめてあげてね』 ふと、の言葉を思い出した。そうすればが喜ぶから、と。 真には親にまともに抱きしめられた覚えがない。当然、抱きしめ方なんてわからない。だから真はに抱きしめられたときのことを思い出して、それと同じように、菫のことを抱き寄せる。 「菫」 「おとうさん…?」 泣く菫を優しく抱きしめると、菫は落ち着いたのが涙を引っ込める。 「おとうさん…」 「別に怒ってねえよ。怒ってるつーか…」 先ほど「怒ってる?」と聞かれ思わず肯定したが、先ほど声を荒げたのは憤怒の感情からではない。 「あーいうことすると、ケガするだろ」 「けが?」 「落ちそうになっただろ、さっき。危ねえことはすんな」 「…ごめんなさい」 まだ菫は謝ってくる。だから、と言おうとすると菫は真っ直ぐ真を見た。 「もう、あぶないことしないよ」 「…それでいい」 「…うん。おとうさん、すみれがけがするの、いや?」 首を傾げてそう聞かれ、真は一瞬戸惑う。これが相手なら「バカ言ってんじゃねえ」と一蹴して、それでに伝わるが、子供相手、菫相手ではそうもいかない。きちんと言葉にしないと、伝わらない。 「…嫌だよ」 「…えへへ」 菫はその答えを聞いて満足したのか、ぎゅっと真に抱き付いてくる。 「おとうさん、すみれ、おとうさんのこと、だいすき」 「…そ」 真はそう答えて、抱きしめながらゆっくり菫の頭を撫でた。腕の中の菫は、さっきまでの涙はどこへやら、嬉しそうな顔で笑う。 ← → |