5th day

 が入院して五日目。明日は退院する。今日こそ仕事の後に菫を連れて見舞いに行こうかと思ったが、先ほどと菫がした電話でそれはなくなった。


「おかあさん、すみれ、おとうさんだいすき!」

 屈託ない笑顔で菫は電話の向こうのにそう言った。それを聞いたは電話を真に代わってもらい「お見舞いは来なくていいから菫と遊んであげて」と言ってきた。は最初からこう思っていたのだろう。自分の入院を機に、少しでも父と子を近づけようと。さすがに病気は予期せぬ出来事だっただろうが、すべての手のひらの上のようで、真は舌打ちをした。


「…で、何すりゃいいんだ」

 遊べと言われても何をすればいいか真にはさっぱりだ。菫に聞くと、少し考えた後元気な答えが返ってくる。

「おえかき!」
「おえかきぃ?」
「うん!」
「ずいぶん描いてねーぞ…」

 高校の芸術選択で美術を取っていないので、絵は中学以来描いていない。まともな絵が描けるとは思えない。

「えの、しりとりしよ。はい」

 そう言って菫は画用紙に丸を描く。丸の中に目、口、そして長い耳がつけられて、うさぎだとわかった。
 しりとりということは、自分は「ぎ」から始まる何かを描けばいいのだろう。

「……」

 「ぎ」から始まる言葉はいくらでも思いつくが、絵で描けそうなものというと難しい。仕方なく、トンボの絵を描いた。

「ほら」
「…?これなに?」
「ギンヤンマ」
「とんぼ?」
「そう」

 菫はじっと真の絵を見た後、訝しげな眼で真を見た。

「おとうさん、え、へただね」
「うるせえな!」

 あははと菫は大きな口を開けて笑う。昨日より、いや、今までより、素直に笑っているように真には見えた。

「ま、ま…。じゃあこれ!」

 菫が描いたのはマントだろう。と、と来たので真はトンビを描いた。

「…?これは?」
「トンビ」
「…?とんび?」
「鳥」
「とりさん?…わかんない」

 そう言うと菫は唇を尖らせて、ペンをケースに仕舞った。

「えしりとりやめる!おとうさんへた!」
「悪かったな」

 そう言いながらの表情は嬉しそうだ。次にが取り出したのは絵本だ。

「おとうさん、えほんよんで!」
「ああ」

 真は絵本と言うものにあまり縁がなかった。幼いころこそ読みはしたが、本当に幼いころ。5,6歳の頃にはすでに小説を読んでいたような気がする。

「ああ、ヘンゼルとグレーテルね…」

 縁こそなかったが、さすがに有名な絵本の内容ぐらいは知っているし、そもそもこの本は原典を読んだことがあった。
 ページを一枚開く。横に座る菫がわくわくした顔で覗き込んでくる。





「…めでたしめでたし」
「めでたし!」

 絵本を読み終えると、菫は嬉しそうに手を叩いた。子供用なのだろう、原典よりずいぶん柔和な表現が使われていた。

「ヘンゼルも、グレーテルも、おとうさんいないんだね」

 菫は表紙に描かれた兄妹を見て、少し悲しそうな顔をした。

「おとうさんいないの、さびしいね」

 菫はぎゅっと真の服の裾を掴む。真は、ふと自分の幼少時代を思い出す。自分にも父親がいなかった。

「…ああ」

 人は親から愛されたようにしか子供を愛せないと耳に挟んだことがある。それがすべてに当てはまるとは思わないが、少なくとも自分はそうなのだろうと真は思う。菫に何をすればいいか、何て声を掛ければいいか、真にはまるで分らなかった。

「すみれには、おとうさんいるよ。よかった」

 そう言って菫が真に抱き付く。真は菫の頭を撫でた。これでいいのか、わからずに。

「おとうさん、おなかすいた」
「ああ、そんな時間か…」

 菫に言われ時計を見ると19時を過ぎている。今日は早めに仕事から上がったので、少し時間感覚が崩れている。

「なんか取るか…」
「でまえ?」
「ああ」
「すみれ、ラーメンたべたい!」

 菫は両手を挙げる。特に食べたいものがなかった真は菫の言う通り中華を取ることにした。
 電話で注文を終えた後、ふと昨日のことを思い出した。

「そういや昨日、何しようとしてたんだ?」
「??」
「昨日、戸棚の何か取ろうとしてただろ」

 昨日、菫は椅子に乗って何かを取ろうとしていた。その後のごたごたで、菫が何をしようとしていたかは聞きそびれてしまっていた。

「おなべ、とろうとしたの」
「鍋?」
「スパゲティ、つくりたかった」
「はあ?」

 菫はそう言うと、本棚から一冊本を持ってくる。

「これね、つくりかたのってたから。すみれつくれるかなあって」
「作れねーだろ…つかなんでスパゲティ?」

 いくらなんでも4歳にスパゲティが作れるはずがない。そもそも幼い子供が火を使うこと、包丁を使うことは厳禁だ。

「おとうさん、スパゲティすきっていってたから、よろこぶかなって」
「は…」

 菫は真を見つめてそう言う。そう言えば、ファミレスで菫を夕飯を食べたとき、「スパゲティはまあ、好き」と答えたような気もする。だからと言って、喜ぶからと言って、そんなものをわざわざ作ろうとするとは。

「別にんなことしなくたって…」
「?」
「…なんでもねえよ」

 別にわざわざ自分を喜ばそうとしなくとも、元気に育ってさえくれればいい。そう思ったが、真は言うのをやめた。

「しなくていいから、もうやるなよ」
「うん。あぶないことしないって、やくそくしたもん!」







 夕飯を終え、時刻は20時半。先に風呂には入らせたから、もう菫を寝かしつける時間だ。

「寝るぞ」
「うん」

 リビングを片付けそう言うと、菫は立ち上がって自分の部屋へ向かう。真も自室へ向かった。
 真は自室の本棚から一冊本を取りだす。が入院した日、読もうと思っていた本だ。

「おとうさん」

 本を持ち椅子に座ったとき、菫がドアを開けた。いつも一緒に眠っているテディベアを抱えながら。

「どうした」
「いっしょにねよ」
「は」
「ねるの、いっしょがいい」

 菫はそう言って真の服を引っ張ってくる。

「一人で寝ろ」
「…いっしょがいい」
「……」

 菫はテコでも動かない、と言った顔をしている。聞き分けのいい菫にしては珍しい。

「わーったよ」

 別に実際自分は眠る必要はない。横になれば十分だろうと思い、承諾した。

「やったあ!」

 菫は嬉しそうに笑う。自分と寝ることがそんなに楽しいのかと、真は不思議に思う。

「えへへ」

 菫をベッドに寝かせ、自分もその横に寝転がる。菫はぎゅっとテディベアを抱きしめている。

「おとうさん、おやすみなさい」

 菫はそう言って目を瞑る。眠かったのか、すぐに眠りについた。

「……」

 真は眠る菫の頬を撫でた。毎晩のようにやっていることだ。