「ふふ」

自然と笑みがこぼれる。
今日はいいことがあったから。

前に彼が貸してくれると言ったCD、それを借りた。
それだけ。
それだけだけど、嬉しい。

CDを自分のカバンに入れる。
たくさん聞こう。そしたら感想を話したりして、もっと仲良くなれるかもしれない。

「あ」

うきうき帰り支度を進めていると、部室のドアが開いた。
氷室だ。

、もう帰るのか?」
「うん。氷室も終わり?」
「ああ」

今日は珍しく氷室の自主練が終わる前に私が部誌を書き終わった。
…ううん。「珍しく」じゃない。
最近は、早く書き終えるようにしてるんだ。

、ご機嫌だね。何かあった?」

氷室にそう言われる。
…最近、氷室に彼の話をしていない。
なんとなく、言い辛くて。

「…CD、貸してもらったの」
「そっか。よかったね」
「うん」

氷室は笑ってくれる。
前と変わらない。

…変わらない、よね。

「…

氷室はさっきまでの笑顔と打って変わって、真剣な表情で私の名前を呼んだ。

「…もしかして、気付いてる?」
「え?」
「…この間のこと」

氷室はそう言って、自分の唇をなぞった。

「…!」
「…気付いてないかと思ってたんだけど、ときどきそうやって唇弄るから、もしかしてと思って」
「あ…」

今、自分でも無意識のうちに唇をなぞっていたようだ。

「…じゃあ、やっぱり」
「……」

氷室は何も言わない。
やっぱり、あのとき、私と氷室は…

「…事故だよ」
「え?」
「だから忘れればいい。なかったことにして、忘れるんだ」

氷室は私の頬を撫でる。

「…の」

忘れる?何を?

の初めてのキスは、あいつに取っておくんだ」

ぽん、と頭を撫でられた。
初めてのキス。
私の、初めてのキスは、

「…ほら、帰って」
「氷室」
「もう暗いし、はい」

半ば無理矢理、部室から出される。
私はしばらく部室の前に立ち尽くしていた。
あんなに嬉しかった気持ちが、急激にしぼんでいく。


「…なかったこと」

唇をなぞる。
…そうだよ。事故だよ。
忘れないと。なかったことにしないと。
ファーストキスはあの人がいいって、思ってたんだから。

…氷室とのキスは、なかったんだよ。
してない。してないんだ。

「……」

…なんで、こんなことを思うんだろう。


なかったことにしたくない、なんて。








なかったことにしたくない
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14.05.20