「あ」

練習を終えて部室に入ると、がご機嫌な顔で帰り支度を勧めていた。

、もう帰るのか?」
「うん。氷室も終わり?」
「ああ。、ご機嫌だね。何かあった?」

そう言うと、はさっきまでの笑顔を急にしぼませた。

「…CD、貸してもらったの」

…そうか。
前はほとんど話すこともなかったのに、ずいぶんな進展だ。

「そっか。よかったね」
「うん」

必死に笑ってそう言う。
…ちゃんと笑えているか、不安だけど。

「……」

ふと、が唇を弄っているのに気付く。
…最近、そうすることが多くなった。
前はなかった癖だ。
その仕草をするようになったのは、この間から。

「…、…もしかして、気付いてる?」
「え?」

は目を丸くして、なんのことだかわからないという顔をする。

「…この間のこと」
「…!」

そう言って、オレも自分の唇をなぞると、さすがにわかったようだ。
は顔を真っ赤にさせた。

「…気付いてないかと思ってたんだけど、ときどきそうやって唇弄るから、もしかしてと思って」
「あ……じゃあ、やっぱり」
「……事故だよ」

半ば自分にいい聞かせるように、そう言った。

「え?」
「だから忘れればいい。なかったことにして、忘れるんだ」

の頬を撫でる。
忘れてほしい。お願いだから。

「…の」

そうだよ、の初めてのキスは、

の初めてのキスは、あいつに取っておくんだ」

の頭を撫でる。
忘れてほしい。忘れてくれれば、それが一番だ。

「…ほら、帰って」
「氷室」
「もう暗いし、はい」

に鞄を持たせて、背中を押して部室から出す。
早く、出て行ってくれ。


とオレは、キスなんてしてない。
そう言ってしまったほうが楽だ。
のためにもなる。
他に好きな男がいるんだ。なかったことにしてしまうのが一番だ。

わかっているはずなのに、心の中でもう一つの感情が暴れる。


なかったことになんて、したくない、と。














忘れさせて
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14.05.20